73話
アイカが公爵邸を逃げだしてから、およそ一か月が過ぎた。
彼女による治療と食事改善のおかげで、マリーナの体調は格段に良くなっており、今では自力で歩けるほどに体力も回復していた。ほんの数歩ではあったものの、数年ぶりに彼女が歩く姿を見た時、屋敷の者はみな目に涙をにじませながら喜びにわいた。
今日もまた、シェリーやクラウスに支えられながら自室で歩く練習をするマリーナの様子を、窓の外からこっそり伺っていたアイカは、とうとう決断を下した。
(これだけ体力が戻れば、きっともう大丈夫。明日の夜、マリーナさんの病気――魔力硬化症を治しましょう)
彼女は治療に時間がかかる事を見越して、この日の夜のうちに明後日の分まで料理を作り置きしておくと、翌日のマリーナへの料理の提供は全て屋敷の精霊たちに任せて、彼女自身は温室に留まり、治療に必要な薬草の準備や休息をとるのに時間を費やした。
そしてこの日の深夜。
どこからか漂ってきた甘い花の香りが屋敷中に広がると、寝つけぬままベッドで本を読んでいたメイドも、寝酒をたしなんでいた侍従も、使用人たちはみな気づかないうちに深い眠りへと落ちて行った。
『みんな眠ったよー』
『報告をありがとう。じゃあ始めましょうか』
アイカは精霊たちと温室を出て屋敷に向かうと、いつものようにするりと窓を通り抜けてマリーナの部屋に入った。
窓にかかっているカーテンをそっと開けると、月明りに照らされて、規則正しい寝息をたてながら眠り込むマリーナの姿がはっきりと見てとれた。
花の精霊や草木の精霊が邸内に散布してくれたムルナ草の甘い香りには、深い睡眠を促す効果がある。彼女にも問題なくその効果が発揮されているのを確認したアイカは、枕元にそっと座り込んだ。
『みんな、悪いけど手助けをお願いね』
『はーい!』
まずは水の精霊の力で、マリーナの血液の状態を探って、体内に生成された魔石の位置を把握する。脳内のほかにも、体のあちこちに大小の魔石ができている事を知り、アイカはほんの少し眉を寄せた。
(予想していた以上に魔石化が進んでいるみたいだわ。この状態だと、先に魔力循環を正常に直しておいたほうがいいかもしれない)
小さな猫の手をマリーナの額にあてたアイカは、光の精霊には過剰に魔力が流れて弱った箇所の治癒を、火と水の精霊には体温が一定に保たれるよう調整を頼み、ぐちゃぐちゃになっている魔力の流れをゆっくり慎重に紐解いていった。
(んん‥‥‥これはなかなか手強いわね)
この施術には緻密さと正確さ、そして根気が求められる。魔力だけでなく気力と体力もごりごりと削り取られて苦し気な顔で浅い息をしていた彼女は、それでも最後まで集中力を切らすことなく、マリーナの体内の魔力の流れを全て正常に戻す事に成功した。
『あいか、へとへとになってるー』
『だいじょうぶー?』
『大丈夫‥‥‥。さあ、次は体の中に出来た魔石を取り除いていかないと』
水の精霊が生成してくれた水で水分補給をして、荒くなった息を整えると、彼女はすぐに次の治療に取り掛かった。




