72話
マリーナの部屋での話し合いを終えて温室に戻ったアイカは、留守番してくれていた精霊たちにも、何があったのか事情を説明した。
結局、アイカは料理指導の話は断ったものの、調理中は誰も厨房に近づけないという条件付きで、当分の間は料理を作り続ける事をシェリーに約束した。
ちなみに、これらの事を伝えるのには、水の精霊と風の精霊の力を借りた。
床に敷かれた絨毯に水で文字を書き、それを風で乾かしてまた新しい文字を書く、という作業を何度も根気よく繰り返す事で、こちらの希望を伝えたのである。
だが、水で文字を書くには細かい魔法操作が必要だったために予想以上に精神力を削られた。そのため、シェリーやマリーナとやっと話が通じたとき、彼女はすっかり疲れ切っていた。
『シェリーさんの要望を叶えてあげられないのは、心苦しいのだけれど、やっぱり人前に出るのは怖くて、料理指導は断ってしまったの』
『べつにきにしなくていいよー』
『そうだよー。しかたないよー』
『だいじょうぶ、しぇりーは喜んでたよー?』
『そうそう。しばらくは料理してもらえるって、喜んでたー』
『うんうん。すごく喜んでたー』
『そう?それならいいのだけれど』
屋敷の精霊たちの話を聞いて、アイカはほっとする。
『でも、まりーなの病気を治してあげるって、伝えなくてよかったのー?』
『そのために料理を作っているんだって、知らせなくてよかったのー?』
『それはいいの。マリーナさんを治したら、私はすぐにここから出て行くつもりだから』
その言葉を聞いた屋敷の精霊たちが、途端にオロオロし始める。
『どうしてー?ずっとここにいればいいのにー』
『わたしたちのせいなのー?まりーなを助けてって言ったからー?』
アイカは首を横に振る。
『ううん。そうじゃないわ。ここを出ていくのは、私に勇気がないからなの。この屋敷の人たちも、公爵邸にいた人たちのように、私の正体が聖女を殺そうとしたと噂されている魔導士だと知ったら手のひらを変えるかもしれない――そう思うと、恐ろしくてたまらないの』
彼女の言葉を聞いた屋敷の精霊たちが、悲しそうな顔をした。
『あいか、まりーなは、そんな事しないよー』
『ここにいる人たちは、そんな事しないよー』
『──あなたたちが言うのなら、きっとそうなのでしょうね。でも、私には彼らを信じる勇気がないの』
今にも泣きそうになっているアイカを見て、屋敷の精霊たちが押し黙る。母国からついてきた精霊たちは彼女のそばに集まって心配そうに見つめている。
『信じて心を寄せた人から疑われて責められる――あんな思いをするのも、信じた人を憎むようになるのも、どちらも嫌だから‥‥‥だから、私がここを立ち去るしかないの』
『あいか‥‥‥』
『みんな、ごめんね』
この日のマリーナの食事は、疲れているアイカを気遣った屋敷の精霊たちが届けに行き、料理を作りに行く深夜になるまでは、母国からついてきた精霊たちが、彼女にぴったりと寄り添っていた。
そんなに過保護にしなくても大丈夫だとアイカは笑ったが、屋敷の者に自分の存在を明らかにした事で彼女が不安になっているのを察知していた精霊たちは、頑として彼女のそばを離れなかった。
真夜中の厨房では、既に数多くの精霊たちが厳戒態勢を敷いて、屋敷の者が近づかないように見張っていた。
『こちらに人影なしー』
『こっちも大丈夫ー』
『近づく人がいたら、すぐ知らせるー』
『ちがうちがう。誰か来たらぼくらが追っ払うのー!』
『そうだったー!』
『だから、あいかは安心してー』
『──みんな、ありがとうね』
アイカや精霊たちが、真夜中の厨房で料理を作っているという事は、既にシェリーを通じて使用人たちにも知らされている。
そのため、アイカの母国からついてきた精霊たちは、彼らが厨房を覗きにくるのではないかと疑い、殊更に警戒していた。だが今のところ厨房に近づく者は一人もいないようだった。
『だから言ったでしょー!』
『屋敷にいる人はみんな、約束はちゃんと守るのー!』
肩透かしを食った顔の彼らに対して、屋敷の精霊たちがしきりに文句を言っている。
屋敷の精霊たちの話によれば、シェリーの口からアイカと交わした約束を聞いた使用人たちは、たとえ厨房以外の場所であってもアイカを極力視界に入れないように注意して、もし姿を見かけた時は見ないふりを徹底するよう皆で取り決めたらしい。
この話が事実である事を裏付けるように、この日の夜以降、アイカがマリーナの治療をするために屋敷を訪れる時や真夜中の厨房で作業している時、マリーナ付であるシェリーを除いて、屋敷の使用人たちがアイカに近づく気配や視線は一度たりとも感じなかった。
こうして、今まで通り人目に触れる事なく静かに過ごしていけるとわかったおかげで、緊張と不安で心が不安定になっていたアイカは、少しずつ元の落ち着きを取り戻していくことができたのだった。
お読みくださりありがとうございます!




