36話
深い眠りの底にあったアイカの意識が浮上したのは、すぐ近くから人の話し声が聞こえてきたからだった。
完全に眠りから覚めておらず、まだ意識がぼんやりしているせいで、断片的に聞こえてくる話の内容はほとんど頭に入ってこなかった。だが、自分が一時的にどこかで保護されるという部分だけは、なんとなく理解できた。
「彼女の部屋は、そうだな――三階の俺の部屋に一番近い客間を使うとするか」
ようやく覚醒し始めた彼女の耳が、若い男の声を拾う。
(この声、どこかで聞いたような‥‥‥?)
ぼんやりと考えているうちに、声の主が立ち去ろうとする気配がした。
「にぃ!(まって!)」
だが、反射的に呼び止めようと発したその声は、いつもの自分の声ではなかった。
(今の声は、なに?!)
驚きのあまり一気に意識が覚醒する。はっとして見開いた瞳に映ったのは、恐怖を浮かべた顔でこちらを見つめるレイザックの姿だった。
(どうして宰相様が目の前にいるの?――いえ、それよりも、これは一体どういう事なのかしら?)
〈氷の宰相〉に見下ろされている事に驚き口元にあてた手は、柔らかそうなふわふわの黒い毛で覆われている。見れば、手のひらには桜色の肉球が付いており、黒い体毛に覆われた体の先には、くるんと巻かれた長い尻尾が鎮座していた。
『私は、一体どうなってしまったの?』
驚いて発した声が人のそれではなく、猫の鳴き声だったことで、彼女は更に混乱した。
「落ち着け、アイカ嬢。あまり動き回ろうとすると籠から落ちてしまうぞ」
そんな彼女を我に返らせたのは、先に冷静さを取り戻したレイザックの声だった。
「君の身に何が起こったのか、今から説明する。だからとりあえず落ち着いてくれ」
そう言って彼女を宥めたレイザックは、人払いをして音声遮断の魔道具を作動させると、彼女が気を失ってから今に至るまでの事を話してくれた。
(まさか、私が禁忌魔法で魔物にされただなんて)
にわかに信じがたい話ではあるが、今の自分は子猫そっくりの魔物になっているらしい。実際に自分の体を見ると、全身が黒い体毛で覆われていて、耳と尻尾まで付いているのだから、事実だと受け入れるより他なかった。
レイザックの話では、アイカ以外にも魔法をかけられたと思しき人が複数いるが、彼らはみな狂暴な魔物の姿に変えられて、人だと気づかれぬまま討伐されてしまった可能性が高いという。
(リーラさんに助けられなければ、私もそうやって人知れず殺されていたかもしれないのね)
そう考えたアイカは恐ろしくなって身震いした。
魔物に変えられた他の人も、自分と同じように聖女が持つ杖の秘密を知ったせいでそんな惨い目に遭わされたのだろうか?




