19歳:彼方からの手紙
マーカス・ソル・スロウズは子爵家の三男としてこの世に生を受けた。
実家はとある伯爵家の分家筋で、領地を持たぬ官僚貴族の家柄だった。とはいってももう何代も前に分かれたため、主筋と言えるだけの付き合いももはや存在していない。
親は中級官吏の職に就いていたが出世とは縁遠い役職で、給与もそう多くはなかった。爵位によって支給される年給と合わせればそれなりの金額になるが、それでも家格に見合う人付き合いをした上で、男三人女二人という数の多い子供達を全員そつなく育てるには少々厳しい暮らしぶりだった。
それでもマーカスは自分の境遇に不足があると思ったことは一度もなかった。
両親は子供達を分け隔てなく育ててくれたし、貴族として生活に困るほどでもない。子供達はいずれ独立しなければならないのだからと長男以外にもある程度の教育の機会も与えて貰えた。市井に暮らす者達から比べれば遙かに恵まれている。そう思い周りに感謝しながらマーカスは生きてきた。
マーカスは母に似たのか背が伸びるのが遅く、父に似たのか小太りで顔も実に平凡だった。
家を継げない貴族の次男三男などは、見目が良ければ婿入り先を探す道もあっただろう。しかしマーカスは幼い頃から一度も女性にモテた事が無かった。じっと鏡を見て早々に納得し、勉学に励み何でもいいから手に職をつける事を考えた。それなりの給与を貰える仕事につければ、いつか貴族でなくても自分と結婚してくれる相手が現れるかもしれないというわずかな希望もある。
「マーカス様は美しい字を書かれますな。文章もとても上手でいらっしゃる。もっと研鑽を積み、将来はそれを活かした職を探してはいかがでしょう」
兄弟皆の面倒を見てくれた家庭教師の老人にそう言われて以来、書記官辺りなら自分でもなれるかもしれないとそれを目指して努力もしてきた。
三人目の息子まで大学に行かせる余裕はなさそうだと親に言われて一時は諦めかけていたが、思いがけず次男が俺は体を動かす方が好きだからと騎士学校へ行き、その道を譲ってくれたのも幸運だった。
そして更にそれまでの努力が実って学費の何割かが免除される特待生枠にどうにか滑り込むことができ、それだけは頑張ったので少し自慢できる、と思っている。文字を活かして代筆の仕事などをこなして残りの学費を親に返す事も出来た。
しがない貴族の三男坊としては、周囲に助けられ幸運に恵まれ、結構頑張っている方なのではないかとマーカスは考えていた。後は卒業するまでの間に官吏の試験を受け、とりあえず下級官吏辺りを目指そうと思っていたのだ。
ある日唐突に、名を知る先輩であるが面識の一切なかった、レイローズ侯爵家の嫡男に声を掛けられるまでは。
「マーカス様、次はこれを書いてみて下さいな」
「あ、は、はい……これは、また随分不思議な模様ですね。これも文字なのですか?」
「ええ。古い魔法文字だと言われていますわ。私、ここの線を滑らかに綴るのが難しくて苦手ですの」
マーカスは何故自分はここにいるのだろうと心底不思議に思いながら、示された見本を観察し、より美しく書き直すと言う作業を行っていた。
先日就職したばかりのレイローズ侯爵家の嫡男の執務室で、レイローズ家のご令嬢を目の前にしての作業だ。
先ほどから汗が止まらず、ペンを持つ手が震えていないのが不思議なくらい緊張している。自分が仕える主となったレイルや、先輩の側近の方々、同僚達の視線が刺さってとても痛い。
レイローズ家に就職しないかとレイルに誘われた時には何かの間違いかと思ったし、就職面接を経て、ぜひ君を採用したいと手紙を貰った時には夢を見ているのかとマーカスは思った。雇用契約書に書かれた給与の金額を見た時も夢かと思った。
しかしこうして大学を卒業した後レイローズ家に雇われてみると、やはり自分は実は今もまだ眠っていて夢を見ているのではないかと心の底から疑いたくなる。
そうでなければ先日レイルに我が妹で長女だと紹介された美しいご令嬢が、マーカスが座っている机の脇に立ってにこにこと彼に語りかけ、彼が文字を書くのをうっとりと見つめているのはおかしいだろうと思うのだ。
「マーカス様の文字は本当にお美しいわ。リヴラウス様のご加護を受けていらっしゃるのではと思うくらいね」
そう言ってマリエラは彼が書いた文字を眺め、ほう、と感心したように息を吐いた。生まれてこのかた親族以外の女性と同じテーブルを囲んだ事が無いマーカスは、その吐息まで聞こえる距離に怯えてさっきから下を向いたままだった。しかし黙っているのもまた居た堪れず、恐る恐る顔を上げる。途端にマリエラの花の様な笑顔が視界に広がり、眩しくて目が潰れそうだと心から思った。
「あ、ああありがとうございます……あの、その、不勉強ですみませんが、リヴラウス様というのは?」
ご加護というからには神の名だろうと検討はついたがマーカスはその名を知らなかった。
家に余裕がなかったため、スロウズ家では五歳の祝福の日以降は加護の確認をしていないのだ。
五歳の時にも兄弟の誰にも加護は示されなかったし、どうせ子供のうちは何も出ないだろうから大人になったらそれぞれ自分で確認しなさいと言われたきりだ。マーカスも就職したらいずれ確認しようと思ったきり、まだしていない。そうなると信仰にも熱心というほどでもなく、神のことには詳しくなかった。
「リヴラウス様は言の葉の守護者……あらゆるものと事象に与えられた名、それを現した文字、そしてそれによって紡がれた言葉を司る神様です。知の神々と混同されがちですがそれとは別系統で、眷属のいらっしゃらない珍しい神様なのです。神殿は知の神様の所に合祀されることが多いそうですから、あまり知られていないかもしれませんね」
「そ、そうなんですか、マリエラ様は色々な事にお詳しいのですね」
「ふふ、ありがとうございます。本を読むことくらいしか楽しみがなかったものですから」
今マリエラに請われて目の前の紙に書き写している文様は、マーカスも初めて目にするものだった。
大学では結構勉強した方だと思っていたが、魔法関係や古語は専門にしていなかったのであまり詳しくない。
マリエラは貴族令嬢には珍しく随分と博識なのだなと深く感心する。彼女は一体どんな本を読んできたのだろうと興味が湧いたが、それよりもまずは机の上の文字に集中するべくマーカスはしっかりとペンを握りなおした。
自分の自信のあることで失敗したくないし、何よりも期待に輝く瞳を向けてくる美しい令嬢に失望されるのが怖かった。
「変わった文字だから、書き難いと思います。まず、よく見て下さいな。これらのような古い魔法文字は、文字を書くのが上手な方ならじっと見ているとそれが表す理を読み解く事が出来るのですって」
マリエラの涼やかな声がマーカスの耳に心地よく響く。その声に誘われるかのように、マーカスは目の前の複雑な草模様のような、文字だというものを見つめた。
しばらくの間静かに見つめていると、不意にそれに語りかけられたような気がして、ハッと息を呑む。
どこから書き始めればいいのか、どこに力を込めるのが大事なのか、書かれた線の一本一本が何を表しているのか、そしてそれらが組み合わさり絡み合い、どんな事象を現すのか。それらが明確な言葉にはならぬまま、けれど確かにマーカスの魂に伝わってくるような、そんな不思議な気分だった。
やがて何かに導かれる様に、マーカスの手がゆっくりと動いた。
「マーカス様、マーカス様!」
「っえ!? あ、はい!」
細い手に肩を揺すられてマーカスはびくりと跳ね上がった。
「大丈夫か、マーカス?」
声を掛けられて顔を上げれば心配そうに覗き込んでいるレイルと目が合う。一体何を心配されているのだろう、と首を傾げるとレイルがマリエラの方を向いた。
「マリエラ。大丈夫なのかいこれは」
「ええ、多分……マーカス様は思ったよりもとっても才能があったみたいだわ。マーカス様、ご気分は悪くないかしら?」
「え、ええと、別に何も……」
そう言ってマーカスはテーブルの上に持っていたペンを置こうとして、はたと気が付いた。
「な、何ですこれ?」
目の前の机の上は、知らぬ間に大量の紙で埋め尽くされていた。
その全てにマリエラが見本に見せた文様や、それに似ているが少し違うもの、あるいはもっと複雑なものまでが所狭しと描かれている。辺りを見回せば下まで紙は落ちていて、先輩や同僚達が心配そうにこちらを伺っているのが目に入った。
「あの、これは……これはもしかして、全部僕が書いたんですか?」
「ああ。まるで何かに取り憑かれたように一心不乱にペンを走らせていたぞ。マリエラが次から次へと紙とインクを足すものだからちっとも止まらなくてな」
「ごめんなさい、だって、何だかすごく乗っているようだったから止めるのがもったいなくて……」
口では謝罪しつつもマリエラはそれらの紙を一枚一枚大切そうに集めては微笑んでいる。どうやらこうなることは彼女の想定内だったようだとレイルは呆れたため息を吐いた。
「それを一体何に使うんだいマリエラ。別に危ないものじゃないんだね?」
「ただの文字よ。危ないわけないじゃない。こんなに綺麗なのだから、このままこれを下地に縫い込んで刺繍の飾り帯にするわ。きっととても素敵な物が出来上がるわ」
マリエラはまるで宝物のように文字が書かれた紙を見つめ、集めては重ねてゆく。
「この文字を使ってお父様やお兄様の印章を新しく作ってもいいかもしれないわね。きっと素敵に仕上がるわ」
心から楽しい、と言いたげな弾んだ声音でマリエラはそっと文字をなぞって微笑んだ。
けれどその美しい横顔は微笑んでいるのに何故かどこか悲しげで、マーカスの目にはまるで涙を堪えているように見えた。
何故そんな顔をするのかと不思議に思うと同時に、もっと明るい笑顔がみたいな、と思う。そしてその彼女の笑みを自分が守れたら、とマーカスは心のどこかで強く願った。
だが分不相応な願いだ、とすぐに思い直して一人首を振った彼は、その姿をレイルが黙って見ている事には気づかなかった。
人払いをした自室のソファーに座り、テーブルいっぱいに紙を広げてマリエラはそれらをじっと見つめていた。
一枚、また一枚と手にした紙を見つめてはそっと重ねて広げていく。
複雑な文様が描かれているとしか見えない無数の紙を前に、マリエラはくすりと小さく笑った。
そして、リヴィ、と呟いた。
「リヴィ。リヴラウス……お前から、まさか手紙を貰えるなんて。ふふ、なんて久しぶりなんだろう」
古い友の名を呼び、紙の上に手を滑らせてマリエラは天を仰いだ。美しく彩られた自室の天井を透かしてマリエラは記憶の中の星を見ていた。今は自分の手の中にない、無数の輝く星々を。
「ああ、懐かしいな。お前とあの星々一つ一つに名を与えたのはいつの事だった? お前に名を与えられた星が命を宿して輝き出すあの瞬間が、私は何より好きだった」
視線を下げ、一枚の紙を手に取ってマリエラは悲しげに微笑んだ。
「謝罪なんていらないんだ、リヴィ。私の歩いた道は、私の選んだ道だ。何度もそう言ったろう。あれはお前のせいじゃなかった。いつだってそうだ。私が歩いた道が険しくても、それは私に加護をくれた友らのせいじゃない」
リヴラウスはマーレエラナと同じ始まりの神々の一柱だった。
共に仕事をした事も多い、仲の良い友の一人だったのだ。けれどその彼の顔をマーレエラナはもう随分長い間見ていない。
もういつの事だったか忘れたような昔に、マーレエラナは言の葉の神リヴラウスの加護を貰って地上に生を受けたことがあった。
リヴラウスの加護は美しく力を持つ文字や言葉を自在に操ることができる可能性をもたらす。言葉一つで人の心を動かすその力によって、人々に正しい知識や正しくあろうとする心を伝えるという使命を持ってマーレエラナは生まれた。
転生した当初はおおむね計画通りに何事も上手くいっていた。マーレエラナの転生体であった男はその文字の美しさや文才で名をあげ、官吏として勤める傍ら様々な書物の執筆をしてそれらを世に広めていった。彼の書くものは人々の心を強く惹きつけ、力を与えたのだ。
けれどやがてそれは彼に災いを運んできた。強すぎた加護がもたらしたその力に目を付けた権力者に家族を人質に取られ、意に沿わない文字を綴ることを強要されたのだ。
彼は抵抗することができず、嘘で塗り固められた言葉によって人々を騙し世論を操り政敵を追い落とす事に加担させられた。自分の綴った言葉によって結果的に少なくない数の人間を死に追いやってしまった。そしてそれを深く悔いた彼はやがてその苦しみから体を壊し、病の床に就いた。
『ああ、言葉を紡ぎ文字を綴ることの、何と恐ろしいことか』
そして、そう言ってその人生を終えたのだ。
もちろん最後には、権力者に人質を取られ強要された事の全てを丁寧に記録し、もみ消されないように複製を多数作って秘密裏にあちこちに送り付け、さらに周りも知らなかったような醜聞まで余すことなく掘り起こしてばら撒き政権をひっくり返して死んだのだが。
「あの時の計画は悪くなかったはずだけれど、全てが計画通りに上手く行かないなんてことも、いつも通りみたいなものだ。復讐だってちゃんと自分でしたんだぞ。まぁ、あまり気が済んだとは言えないかもしれないが……多少傷が残ったって今更だしな」
その時の傷はマリエラの魂のどこかに今も残ったままだろう。マリエラは今でも、手紙を書くのが嫌いだし苦手だ。それを送ったら誰かに何か悪い事が起こるのではないかという気持ちがうっすらと湧くから。
「それでも、こうして手紙を貰うのは嬉しい。綴られた言葉が繋ぐ沢山の気持ちや、縁があることを、私はちゃんと知っている」
マーカスが操られるようにして綴った沢山の文字はその多くがマーレエラナへの謝罪の手紙だった。
彼女の転生体が死んだ後、リヴラウスもまた己の加護がもたらした結果を深く悔やんだ。
ありとあらゆるものや事象の原初の名、力ある文字と言の葉を司る彼はその恐ろしさも誰よりも知っていた。それ故にそれまで人間に直接の加護を与えたことは一度もなかったのだ。
そしてそのたった一度が友に与えた苦しみを彼は許せなかった。
「リヴィ。今もお前は、あの寂しい場所で降ってくる言葉を眺めて座っているのか?」
地上から戻り、すぐに訪ねたリヴラウスの神域で見た光景をマリエラは思い出す。
濁った色の砂でできた砂漠が遥か彼方まで続いているような景色だった。その砂山の一つに座り、リヴラウスはただ空を見上げていた。灰色の空からさらさらと新しい砂が山の上に落ちるのを彼はただ眺めていた。手で掬えばその砂が無数の小さな文字でできている事に気が付く。様々な色の無数の文字が空から細い筋となって降り、砂漠を作っていたのだ。
それをただ眺めている友の背中に、マーレエラナは幾度も呼びかけた。けれど喉から出るはずの声は砂の世界に吸い込まれ、一言も届くことがなかった。無音の世界で無数の文字に埋もれる友に懸命に走り寄ろうとも、マーレエラナの手がその背に届くことはなかった。
神域ではそこを作り出した神の意思が全てだ。世界に触れる事の全てを拒絶し、ただ流れる文字を眺める事をリヴラウスは望んだのだ。
それっきり、マーレエラナは彼に会っていない。
「お前の声が聴きたいよ、リヴィ。小さな声で、大事に大事に紡がれたお前の言葉が聴きたい」
そう呟いて手の中の紙にもう一度目を落とす。
マリエラの瞳に映る綴られた文字はちかちかと金色に瞬き、今にも動き出しそうだ。
「けれどきっと、お前がもう一度人に加護を与えたという事こそが、今のお前の精一杯の言葉なんだろうな」
年経ても、その魂に曇り一つなく輝きを宿したままのマーカスの姿をマリエラは思い描いた。
生まれてから過ごす時間の中で周囲から与えられる沢山の言葉によって、人の魂は容易く曇り、傷つき疲れ汚れてゆく。あの歳まで輝きを宿したままというのがどれほど稀有な事なのか。
マーカスの輝く魂こそが、言の葉を司るリヴラウスから届いた長い長い手紙のようにマリエラには思えた。
「お前からの贈り物はちゃんと届いたよ。だから、還ったら久しぶりに会おうな、リヴィ」
手の中の紙は、その言葉に応えるように静かに光り輝いていた。
そしてその後。
マーカスによって書かれた沢山の文字の中からマリエラは役に立ちそうなものを選び出し、それを様々な物へと刺繍し、加工した。体力を回復し健康を保つような効果を入れたハンカチや、仕事が捗り邪魔が入らないような効果を綴ったタイ、安産を願う枕カバーや、知性や美しさを磨くリボン、体の制御をしやすくし、力を上げ、意識の集中や分散の切り替えがしやすくする飾り帯などなど。
最後のそれがもたらした恐るべき効果によってレイローズ家の破壊神カインは更なる力を得て小さな武神へと生まれ変わり、その鍛錬の相手をさせられる護衛騎士たちを恐怖に陥れたりもした。
魔法のような効果をもたらすそれらの品は大変役に立ち、レイローズ家の家族や献身的に仕える家臣たちにそっと贈られ密かに語られ、時に騒動の種にもなったのだが、それはマリエラも知らない話だ。
古い友から届いた生きた手紙は、マリエラの強い主張と彼女が生み出した副産物の効力によってレイローズ家の執務室で大切に守られ、周囲を幸せにするための言葉だけを綴る幸せな仕事を今日も真面目にこなしている。
おまけ
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「リヴラウス様って、ここにいる誰か会ったことある?」
「ない」
「ない」
「ない」
「同じく」
「存在自体初めて知った」
「お前知の神だろ! 親戚みたいなもんじゃねーか!」
「一体何年引きこもってるんだろう……」
紙と神と髪の変換に毎回大変悩まされています。絶対一回で望む奴が出てこない。
間違ってたらそっと教えてください。




