20歳(1):それは――ではなく?
「……そろそろ寝飽きたわ」
はぁ、とため息とともに小さな呟きが部屋に落ちた。
その微かな独り言をきちんと聞き取ったユリエが、座っていた椅子から立ち上がって寝台に寝そべるマリエラを覗き込んだ。
「お気持ちはわかりますが、もう少しの辛抱ですよ、お嬢様」
「わかっているけれど暇なのよユリエ。寝台から出るまであと一日辛抱しないとぶり返すってわかっていても、もう寝ていたくないの」
「お嬢様から寝ていたくないなんて言葉が出るなんて、お丈夫になった証拠でございますね」
暇さえあれば寝ているか本を読んでいかの二択だった昔のマリエラを思い出し、ユリエは嬉しそうに微笑んだ。
「私が寝たくないだなんて、本当に由々しき問題だわ。年を取ったのかしら……」
マリエラは何だか切なくなってまたため息を吐いた。
もう思い返すのも馬鹿馬鹿しいくらいにしょっちゅう引いている季節の変わり目のいつもの風邪で、マリエラが寝込んで今日で三日目になる。昔に比べれば回復するのも随分と早くなったが、その分最近はこうして治りかけになるとマリエラは暇を持て余すようになった。自分の病気予報ではまだ寝ていなくてはぶり返すとわかっているので起きる訳にもいかず、しかし再び眠るにはかなり回復してしまったというこの時間が彼女には苦痛で仕方ないのだ。
ベッド脇のテーブルには沢山の本が積まれているのだが、それらはもう読んでしまったものだった。今すぐもう一度読むには内容が頭に残りすぎている。
風邪とはいえ、油断すればすぐに死にかけるのがマリエラだ。退屈で死にそうでも我慢するしかないと身に染みている。だがこのままでは比喩でなく本当に退屈でうっかり星巡りを変えてしまったりして死にかねないのもマリエラだった。
「もう昔読んだ本でもなんでもいいから適当に何か持ってきてくれるかしら」
「刺繍か編み物の道具もお持ちしましょうか?」
「ううん、今はいいわ。何だか気分が乗らないし」
窓の外はもうすっかり春になろうとしている。暖かくなってくると何となく編み物などの手芸をする気が少なくなるのは何故なのだろう。そんなことを考えながら伸びをした時、マリエラの部屋のドアがトントン、と叩かれた。
「どうぞ」
「お姉さま、具合はどう?」
どうぞと言うが早いかドアを勢いよく開けて入ってきたのはリアンナだった。
「リーナ、扉はもう少し静かに開けてちょうだい」
「はぁい。ね、お姉さま、エリオット様がお見舞いに来て下さったのだけど、呼んでもいい?」
悪びれず明るい声で告げられたその言葉に慌てたのはユリエだった。
「リアンナ様、マリエラ様は寝間着で横になっておられるのに、いくらエリオット様とはいえ殿方をここにお通しするのはちょっと……」
「やっぱりだめかしら? じゃあお見舞いに持ってきてくださった本だけ預かってきた方がいいかしらね」
「入ってもらってちょうだいリーナ」
「マリエラ様!」
本という言葉に反応したマリエラはがばりと起き上ると嬉しそうにリーナに向かって手招いた。ユリエが思わず止めたが、しかし退屈には勝てないのだ。
「良いじゃないユリエ。上着を羽織っていれば問題ないわ。エリオット様はもう半ば家族みたいなものじゃない。ついでに言えばどうせエリオット様は私に興味はないのだし」
「そういう問題じゃありません! まったくお嬢様ったら……」
ぶつぶつ言いつつもユリエは厚手の上着を出してきてマリエラに着せかけてくれた。本を目の前にしたマリエラが折れないだろうこともわかっているのだ。
その間にリアンナは応接室で待たせていたエリオットをさっさと呼びに行っていた。姉の返事などわかりきっていた彼女の行動は早い。やがてマリエラの部屋を訪ねてきたエリオットは期待通り、その両手に沢山の本を抱えていた。
「こんにちは、マリー。突然の訪問ですまない。具合はどうかな」
「いらっしゃいエリオット様。お見舞いに来て下さったそうで、ありがとうございます。もうほとんど良くなりましたわ」
他に人がいるのでとりあえず二人は型通りの挨拶を交わした。お互いむずがゆそうに顔を見合わせたが、こればかりは仕方ない。エリオットも王子の顔とそうでない時との切り替えが随分と上手くなったなとマリエラは挨拶しながら内心で少し感心していた。
「この本、ここに置いても?」
そう言ってエリオットは手にしていた何冊もの本をマリエラのベッドの脇の小さなテーブルに慎重に重ねた。退屈し切っていたマリエラは嬉しそうにそれを見守る。
「こんなに沢山の本、ありがとうございます。皆エリオット様のお見舞いですの?」
「いや、ここに来る前にレイル殿の執務室に用があって寄ったんだ。その時についでにとそこにいた皆に託されてしまって……私のお見舞いはこれとこれだな」
そう言ってエリオットが示した本はマリエラが気に入って良く読んでいる作家らの新刊だった。
「あら、新しいのが出ていたのですね。嬉しいわ、ありがとうございます!」
その気の利いた贈り物にマリエラは嬉しそうに微笑んだ。
エリオットの本以外は、兄の側近たちがそれぞれお見舞いにと貸してしてくれたものらしい。堅そうな内容のものも混じっているが、それでも暇つぶしにはなる。マリエラはその中の一冊を何となく手に取って、ぺらぺらとめくってくすりと笑った。
「ふふ、これはマーカス様が貸してくれたものね」
「え、お姉さま何でわかるの?」
不思議そうに覗き込んだリアンナに、マリエラはほら、とはさまっていた一枚の栞を見せてくれた。
署名があるわけでもない、ただ白い紙に幾つかの複雑な模様が美しく描かれた栞だ。マリエラはそれを大切そうに指でするりと撫でた。
「これは私がマーカス様に教えた古い魔法文字なのよ。こんなに美しくこれを書けるのはあの方だけだわ」
「何て書いてあるの?」
「そうね、要約すると、『早く良くなりますように』っていうところかしら。すごいわよね。私、あの方にこの文字を書いてもらったけれど、その意味は教えていないのよ?」
それなのに文字から大体の意味を自分で読み取り、それが言葉としてきちんと機能するように並べることができているのだ。正しく綴られた魔法文字は確かな力を持っている。多分こうして傍にあるだけで本当にマリエラをいくらか癒すことだろう。
「ふぅん、すごいのね?」
そのすごさがまったくよくわからないらしいリアンナは、そう言いつつもそうは思っていなさそうな口調で首を傾げた。一方でマーカスに最近大変お世話になっているエリオットはその言葉にうんうんと何度も頷く。エリオットには当然リヴラウスの加護者の力がどれほどのものか良くわかっているという事もある。
「そういえば兄の執務室に寄ったということは、エリオット様はまたマーカス様に恋文の返事の代筆を依頼しに来ましたの?」
「……いや、まぁ……ちょっと、うん」
「エリオット様また貰ったの? すごいのねぇ。私恋文なんてもらったことないわ」
幾つになっても無邪気なリアンナの言葉がエリオットに刺さる。しかし事実なので返事のしようがない。
ちなみにリアンナ宛ての恋文は父と兄がそっと握りつぶしている事を彼女は知らなかった。
十五歳になったエリオットは以前よりさらに美しくなっていた。まだ完成するには少し早いが、まさに傾国という言葉がぴったりの容姿になりつつある。
しかし同時に愛と美の女神の加護を自分で制御できるようにもなったので、以前より騒動を起こす事は減っている。
それに本来の知の神としての能力も発揮できるようになった。その加護の性質から学校に通う事は諦めたが、大学くらいまでの勉強ももう終えて家庭教師にももう教える事が無いと太鼓判を貰っているのだ。第三王子はただの騒動の種ではなく、神童であったかと王宮内での評価もだいぶ改まっている。
その優秀さを見込まれ、もうすぐ社交界に出入りできる年齢になることもあって最近は比較的年の近い外国からの客人の案内などの外交関係の仕事を任される事も増えてきた。しかし、そうなれば当然新たな厄介ごともやはり生まれる訳で。
「マーカス様に断りの手紙を書いてもらう案は上手く行っているみたいですね?」
「ええ……ものすごく。マリーが彼の事を紹介してくれて本当に助かったよ。彼に代筆してもらうと、ものすごくさっぱりと諦めて貰えるんだ」
外交の仕事に関わるようになってから、客から貰う恋文や贈り物はエリオットの悩みの種になっていたのだ。
困った挙句にマリエラに相談したところ、彼女はエリオットにマーカスを紹介してくれた。突然第三王子に引合わされた彼は、本来なら多分一生会う事もなかっただろう相手にものすごく冷や汗をかいていたが。
マーカスはこと文字や文を書くことに関しては天与の才能がある上に努力家だ。おまけにマリエラに誘導されて最近それをさらに開花させてきている。彼は冷や汗をかきつつもエリオットの貰った恋文をざっと読むと、さらさらと大変美しい字で全く失礼に当たらないキッパリとしたお断りの返事を書いてくれたのだ。
そしてその断りの手紙は絶大な威力を発揮した。
彼が代筆した手紙を送ると、エリオットに懸想した要人たちは何故か皆大変さっぱりと諦めてくれるのだ。
それまでは断っても諦めてくれず粘着質に付きまとわれたり、更に日に十通も恋文を送られたり、行く先々で待ち伏せされたりして、危うく外交問題になりかねないところだったので本当に助かっていた。国内の人間から崇拝されるだけなら問題は少なくて済むが、外国の要人を虜にしてしまったとなるとさすがに洒落にならない話だったのだ。
「私もリヴラウス様のご加護が欲しかったよ……」
エリオットの呟きには心からの思いがこもっていた。
「ふふ、マーカス様に感謝しないといけませんわね」
結局まだ確かめてはいないが間違いなくリヴラウスの加護を受けているだろうマーカスは、侯爵家では密かになくてはならない存在になりつつあった。マリエラが彼の書いた文字を使って護符を作っている事もそうだが、それよりも彼が作成した書類を使うとあらゆる交渉が格段に上手く行くのだ。
契約書も報告書も申請書も、彼の手になるものを使うと確実に話がうまくまとまると来ている。それによって今では、重要な案件の書類は絶対にマーカスに書かせろというのが侯爵家での暗黙の了解になっている。
本人はそんなことはまったく知らず、重要な仕事を任せてもらえるようになって字の練習を沢山しておいて良かったな、としか考えていないのだが。字を書く仕事だけで親よりも良い給料をもらっているのがちょっと申し訳ないくらいらしい。
そんな彼の素朴な姿を思い返しながら微笑むマリエラに、リアンナはまた首を傾げた。彼女には姉の事で以前から気になっていた事があった。
リアンナはしばらく考え、その気になっていたことをとうとう今日は素直に姉にぶつけてみる事にした。
「ねぇ、お姉さま。お姉さまは、マーカス様が好きなの?」
「え? なに、突然」
「だって、お姉さまはマーカス様の事を話す時、いつもとっても嬉しそうだわ。あんなに普通の人なのに、ちゃんと顔も名前も憶えているし、お姉さまの方から近づく男の人って彼の他にはほとんどいないじゃない? だから、好きなのかと思って」
それはこの一年ほどの間、マリエラの家族が彼女に対してずっと気にしていたことでもあったのだ。他の誰に対してよりも嬉しそうにマーカスに近寄りつつも、しかしいつも文字を書いてもらい、お礼にとお菓子を渡したりするだけでマリエラはすぐに去ってしまう。明らかに気にかけているのに、それ以上の親しさはあえて見せないようにしている風にも見え、家族は彼女の心を計りかねていた。
「リ、リーナ、いきなり直接過ぎるんじゃないかな、それは……」
「あら、でもこういう事はお姉さま相手ならなおさらはっきり聞かないと! ね、どうなのお姉さま」
姉の事を良く理解しているリアンナは、真っ直ぐ切り込まないと誤魔化されるだろうと予測していた。
そしてその予測通りごまかし損ねたマリエラは、真っ直ぐな妹に困ったように笑って見せた。
「好きか嫌いかでいったら、好きだとは思うわ。でも、それだけよ。だからどうってわけじゃないの」
「どうして? お姉さまが望むなら、お父様たちは喜んで縁談を調えてくれると思うわ。そういう好きじゃないの? 彼に恋をしているんじゃないの?」
そのリアンナの言葉にマリエラはゆるりと首を横に振った。
「そうね……私にも本当はわからないのよ。これがどういう気持ちなのか。私は恋なんてしたことがないけれど、これは少し違うものじゃないかっていう気もするの」
好きだという事は確かだろうと思う。マーカスを見ているとその輝きを守ってやりたいと思うし、そのむこうにリヴラウスの影を見て懐かしく慕わしい気持ちになる。けれどそれはマーレエラナがリヴラウスに抱くもので、マーカスへのものではないのだ。
女神としてのマーレエラナは恋などした事が無い。ならば人として生まれた時はどうだったのかといえば、もうそんなことはすっかり忘れてしまっている。このところ生まれる度に恋などしているような社会情勢や立場じゃなかったり、する前に死んでしまったりしたので全くした覚えがないのだ。
そうなるとなおさらマリエラの意識はマーレエラナの記憶に引きずられ、自分と恋を結びつける回路など存在していない気がしてしまう。
けれど、時折彼がこうして本や書類に忍ばせてくれる、マリエラの身体を気遣い元気づけるようなささやかな言葉をとても嬉しく思っているのも事実だ。それらは皆そっと机の引き出しにしまってある。
しかしマリエラには、父に頼むなど申し訳なくてできない理由もあった。
「それに……こんなに体の弱い女を貰っても、マーカス様が困るだけではないのかしら。多分子供も望めないでしょうし」
「そんなことないよ! お姉さま、前よりずっと元気になったじゃない! きっと子供だって生めるよ!」
「そうだよマリー、そんな事を言わないで。リーナもいるしきっと大丈夫だよ!」
「……ありがとう二人とも。けれどやっぱり彼に押し付けるような真似はできないわ。だって、私がお父様たちに相談したら、もうそれは彼にとっては断れない命令になってしまうじゃない」
侯爵家に雇われているマーカスにとっては、主家からの縁談と言えば断るなどという選択肢はないに違いないのだ。
「それはそうだけど……でも、マーカス様だってお姉さまのこと想ってるかもしれないじゃない」
「そんなことわからないわ。かもしれない、では私からは何も言えないわ。……ごめんね」
その謝罪が何に対してのものなのかは語らず、マリエラは困ったように微笑んでいた。
そして、彼女が眠りから目覚めなくなったのはその夜のことだった。
私も一番その加護が欲しい。
長くなったので分けています。




