第102話 やさしい夜
辺境の町グランベル――。
ようやく辿り着いた小さな温泉郷は、まるで戦いの記憶だけを優しく洗い流すような場所だった。
白い湯けむりが夜空へと溶けていく。
石畳の道。
木造の宿。
遠くから聞こえる人々の笑い声。
火の神殿での激戦が、まるで遠い昔の出来事のように感じられた。
「……生き返るね」
リナが小さく息を吐く。
隣を歩くフェルは不満そうに鼻を鳴らした。
『湿気は好かん』
「猫なのに?」
『神獣王だ』
即答だった。
「はいはい」
『適当な返事をするな』
そんなやり取りに、イグニアが楽しそうに笑った。
やがて女性陣は温泉へ案内された。
脱衣所で服を脱ぎ、湯気の向こうへ足を踏み入れる。
「わあぁ……!」
最初に声を上げたのはイグニアだった。
夜空の下。
大きな露天風呂。
湯面には月が映り込んでいる。
「すごーい!」
ぱしゃぱしゃと湯を叩きながら駆け回る。
「走ると転びますよ」
エリオスが苦笑した。
「はーい!」
返事だけは元気だった。
その隣でセレフィーナは少し緊張した表情を浮かべていた。
「こういう場所は……初めてかもしれません」
リナが振り返る。
「温泉?」
「はい」
「じゃあ今日は温泉デビューだね」
何気ない一言。
けれど、それだけで少し空気が柔らかくなった。
セレフィーナも微かに笑う。
「そうなりますね」
湯に身体を沈める。
じんわりと温かさが広がっていく。
張り詰めていた身体から力が抜けた。
思わず吐息が零れる。
「……あたたかい」
王女でもない、指揮官でもない、ただの少女の声だった。
「きもちいいー!」
イグニアは両腕を広げる。
「ずっと入ってたい!」
「のぼせますよ」
エリオスが即座に返した。
「えー」
頬を膨らませるイグニア。
その様子にリナたちは思わず笑ってしまう。
穏やかな時間だった。
戦いも、侵食も、今だけは忘れられる。
しばらくして、イグニアがふと首を傾げた。
「ねえ」
三人が振り向く。
「みんなは友達なの?」
あまりにも真っ直ぐな質問だった。
セレフィーナが少し目を瞬く。
リナは笑った。
「うーん」
「私はそう思ってるよ」
「私もです」
エリオスが頷く。
イグニアはセレフィーナを見る。
「セレフィーナは?」
突然話を振られたセレフィーナは言葉に詰まった。
友達ーー。
その言葉は遠かった。
王女として生きてきた人生の中で、そんな関係を持ったことがない。
周囲にいたのは臣下。
護衛。
教師。
貴族たち。
けれど――。
友達はいなかった。
「私は……」
言葉が続かない。
そんな彼女を見て、イグニアは首を傾げる。
「違うの?」
その無邪気な一言に、セレフィーナは思わず笑ってしまった。
「いえ……」
「違わないと思います」
その瞬間、リナが嬉しそうに笑った。
「うん」
「友達だよ」
エリオスも頷く。
「もちろんです」
静かな沈黙、けれど不思議と苦しくない。
むしろ胸が温かかった。
セレフィーナは湯面を見つめる。
揺れる月。
揺れる自分の顔。
そして小さく呟く。
「私は……ずっと王女でいなければならないと思っていました」
誰も口を挟まない。
「失敗してはいけない」
「弱音を吐いてはいけない」
「泣いてはいけない」
「笑う時ですら、王女らしくなければならない」
湯けむりが揺れる。
「だから――」
声が震えた。
「友達なんて、できないと思っていました」
その時、イグニアが当たり前のように言った。
「でも今いるじゃん」
セレフィーナが顔を上げる。
イグニアはにこっと笑った。
「リナもいるし」
「エリオスもいるし」
「わたしもいる!」
あまりにも自然な言葉。
だからこそ胸に響いた。
セレフィーナの目が揺れる。
ぽろりと涙が落ちた。
「あ……」
自分でも驚く。
どうして涙が出るのか分からない。
するとリナが優しく笑った。
「簡単じゃないよ」
「ずっと頑張ってたからだよ」
その言葉に、堪えていたものが溢れた。
セレフィーナは肩を震わせる。
王女ではなく、象徴でもなく、ただの一人の少女として、初めて仲間の前で涙を流した。
イグニアは何も言わない。
ただ隣にぴったりくっついていた。
それだけで十分だった。
その夜。
温泉宿の廊下。
セレフィーナの表情はどこか晴れやかだった。
王女としてではなく、一人の少女として笑えるようになった夜。
その始まりだった。
そして誰も知らない。
遥か北方――。
眠れる大地の神殿が、静かに目覚め始めていることを。
その運命が、すぐそこまで迫っていることを――。
第102話 終わり
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