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『技術局・第二実験室』
所々文字が剥げたプレートがぶら下がる扉の向こうでは、およそ平和とは言いがたい物騒な音が絶えず生み出されていた。機械音ならまだしも明らかに人間の悲鳴も混じっている。
影はその扉の前でしばらく思案し、ノックしても無駄と察してノブに手をかけた。
*
七日目の夕方、影は任務を抜けて城の離れにある技術局の棟に来ていた。
王太子からも問題なしと判断され、また誓いの儀前日に最終チェックも入る。しかし念には念を入れておくに越したことはないと、鴉のリーダー格でもある師が進言し、それを受けた王が王太子に、そして王太子が影に命じた次第であった。
「――やあやあ、変わらず麗しいね。調子はどうかな」
「問題ありません」
「じゃあ簡単な検査だけやっちゃおうか。あ、クッキー焼いたんだよ食べる?」
「いいえ」
にこにこと毒々しい塊を差し出す局長をばっさり切り捨て、影は何の躊躇いもなく服を脱ぎ検査台にあがった。途端、甘いものに惹き付けられる虫のように研究員たちが影の身体に群がる。
「うんうん、いつ見ても素晴らしい骨格だねえ」
「皮膚はちゃんと馴染んでますか?」
「やだ髪傷んでない? 本物追求しすぎたせいで耐久性イマイチだわー」
研究員たちはリストらしきものにチェックを入れながら熱心に影の身体を確かめていく。彼らの技術力の結晶とも言える「最高傑作」は、いつだって完璧なのだ。
**
アノニマスの行方は杳として知れない。
鴉が全力で調べあげた情報の中には、ただの一行もあの青年に関する記述はなかった。親衛隊員リストにも『アノニマス』と名前のみ。
「皆さん覚えましたか?」
リーダー格の鴉の声に、黙々と資料をめくっていた他の鴉が顔をあげる。
「これで全員?」
「ええ、ウラも取りました。これで全てです」
「ウラ?」
「ええ、ちょっと」
にっこり。
見えるわけではないが、面の向こうから迫力ある笑顔が答える。大方聖都の上に問い質したのだろう。「ちょっと」力づくで。
聖都が、あの女王陛下が、まさか本当に把握していないわけがないのだから。
親衛隊およびこれに荷担した者は一人残らず口を塞ぐ。親衛隊員にどれだけこちらの情報が握られているかは不明だが、『計画』完遂のためだ。
鴉は標的を定めた。
あとは狩る時を待つばかりである。
***
夜になり、いつものように王太子が姫のもとを訪れた。しかし部屋に入らず、影に任務が終わったら自分の自室に来るよう言い、すぐさま立ち去ってしまった。影はまったく心当たりがなかったが、特に疑問も持たなかった。
呼ばれている。だから行く。
凪いだ青は揺らがず、姫の部屋に落ちる闇を見つめる。そして交代の合図とともに王太子の部屋に駆けた。
*
「参りました」
「ああ、入れ」
「失礼いたします」
確認されることもなく許可はおりた。いつだってそうだった。王太子が自身の従者を間違えることはなかった。
部屋は暗い。唯一の光源である月明かりが入り込む窓辺に背中を預けて王太子は待っていた。
「突然呼び出した件だが、誓いの儀の前日、お前の夜の任務は全て解く」
「全て、ですか」
意外な命令に、瞳は凪いだままでも心が少し揺らいだ。任務を与えられていない自分というのが想像できない。
影の胸中を知ってか知らずか、そもそも興味がないのか、王太子は言葉を続ける。
「何、お前に落ち度があるわけではない。父上が発案者だが、最後にゆっくり過ごさせてはどうかと仰るのでな」
……最後。影の最大にして真のお役目である『計画』の要。誓いの儀での影武者役。
影は目蓋をぎりぎりまで下ろし、少しの間床を見つめる。それからしっかりと頭を下げた。
「勿体ないお気遣い、ありがとうございます」
立ち上がり、もう一度頭を下げる。そして退室しようとした影の目に空っぽの花瓶が留まった。空ということ以上に装飾を嫌う王太子の部屋には似つかわしくなく、影は動きを止めて見つめてしまった。
「………………あぁ」
影の視線の先を追った王太子は、お前は本当に夜目がきくなと笑った。
「申し訳ありません。では私はこれで失礼します」
「気になるか?」
すぐさま身を翻した影は、その問いかけにゆっくりと主へ向き直った。詮索すべきではないと思ったから、主が問うた真意を量りかねた。
振り返れば背後に白金の月を従え、こちらを真っ直ぐに見つめる鷹の目と目が合った。逆光のなか、その黄金はまるで自ら発光しているかのように影を射る。
その姿を見て、この御方は本当に生まれながらの王なのだと改めて実感する。これが自分の主だと、心が、身体が叫ぶ。
ほとんど無意識に膝をつき、頭を垂れる。主の真意は分からない。でも主が会話を許しているなら知りたいと思った。慎重に口を開く。
「失礼ながら、殿下にしては珍しい、と。……花をお生けには?」
一時、沈黙が二人の間に落ちる。影は頭を下げていたから、主がどんな表情だったか見えなかった。しばらくして、空気が動いた。椅子が軋む音で主が花瓶に近いソファに腰かけたのだと察する。
「一輪……昔な。確かに美しく咲いていて、ただの切り花のくせにそれは見事だった」
だが、と王太子は自嘲気味な吐息をもらす。
「花が落ちてしまったんだ。やけにあっけなかったな」
そう呟く王太子の声はひどく平淡なものだった。影は話の行き着く先が分からず、ただ黙って耳を傾けるしかなかった。
「この花瓶に生ける花は一つだけだと決めている。それがない今、この花瓶にはさして意味はないのかもな。その花はもう二度と私の手に戻ってこないのだから」
「……殿下が手に入れられないものなど私には想像できませんが」
「そんなことはない。本当に欲しいものは、ただの一つだって掴めなかった」
肩を揺らして王太子は笑った。きっとまた、片頬だけ歪んでいるのだろう。無力な己に対する侮蔑と僅かな苦い思いが、影にも伝わってくる。王太子は手を目線の高さに掲げた。
「私には、何もない。鷹の王子と言われても獅子王たる父上に遥かに劣る。自分の無力さには嫌になるな」
「そんなことはありません。私はずっと見ておりました。殿下は誰よりも王たるに相応しい御方です」
影は勢いよく顔をあげて、珍しく饒舌になる。語る言葉にも熱が入った。代わりに王太子の声はより一層冷えていく。
「それが幻想だと、私がお前にそう思わせているだけだと何故思わない。私がお前から何を奪ったのか、忘れたのか。本当は恨んでいるだろう?」
「……殿下からは、多くのものを頂きました。感謝しております」
本来なら与えられるはずもないのに、個室が用意された。
整形のとき、瞳の色だけはそのまま残された。お前の色だと主に言ってもらった色。
姫と同等の教養をと、貴族が受けるような教育も受けさせてもらえた。
それら全てが主の指示だと知っていた。
他にも多くの……身に余る幸せを頂戴してきた。最高の誉れであるお役目をもらった。優しい姫と穏やかに笑い合う主を見ることもできた。十分だった。満たされていたはずだ。これ以上何を望むというのだろう。恨むわけが、ない。
「そして、殿下はこの帝国を統べる御方です。全ては殿下の手に」
真摯に答える影をじっと王太子は見つめる。影は濃く襲ってくる畏敬の念に視線を逸らしそうになるが、耐えて次の言葉を待った。
鷹の目と称される、世界を見渡す瞳は数瞬だけ虚空を漂い、再び焦点が定まったときには強い光を灯していた。
「……そうだな」
くっ、と笑い、王太子は立ち上がる。
「そうだったな。失ったなら、また捕らえればいいだけの話だったはずだ」
……そして二度と逃れられないよう、鎖で縛って、閉じ込めてしまえたら。
王太子は一心に自分を見つめる影の前まで寄ると、そのまましゃがんで視線を合わせた。
影はただ主を見つめ、次の言葉に耳をすます。相変わらずその瞳は凪いだままで、迷いも疑いも、何一つない。それを満足げに確認した王太子は"その名"を呼んだ。
「ダリア」
――影は最初、何と言われたのか分からなかった。
「……ダリア」
主が肩をつかみ無理矢理立たせた時も、せいぜいあの花瓶に生ける花を自分に命じているのだろうかとしか思わなかった。
「私の……俺だけの、ダリア」
主の瞳の奥で昏い炎が揺らめくを認めて、漸くその名がかつての自分の名であったことに思い当たった。
そしてそれを理解するよりも前に、熱く柔らかな感触に口を塞がれたのを感じた。それは鳥が戯れるように二度三度と唇を啄む。
「ダリア……」
窺い知れない感情が籠められたその名前を聞きながら、己の首に顔を埋めてくる主を、熱い吐息を、影……ダリアは呆然と受け止めていた。