<8>
月明かりが部屋を白と黒に分け隔てる。その境目に立つ二人の姿は床に影となって写し出され、それは少しずつ重なりあい、やがて一つになった。
状況についていけないダリアをよそに、王太子の腕がダリアの背中に回り彼女の体は抵抗もなく引き寄せられる。後頭部に添えられた王太子の手がダリアを仰のかせ、より一層、深く深く王太子の中に沈んでいった。
――熱い、と思う。
頭に添えられた手も、身体を引き寄せる腕も、注ぎ込まれる吐息も、伏せられた黄金の眼差しも、何もかもが熱くて………………どうして寂しさを覚えるのだろう。
*
強く抱き締める腕が緩んでも、ダリアは王太子の顔から視線を逸らせなかった。たった今自分の身に起こったことを処理しきれない。
幼子のような無防備さで見つめてくるダリアに対して、王太子は両頬を包み込んで真っ直ぐ視線を返した。深海の奥には己だけが写っている。……顔や振る舞いが変わろうとも、その青は何一つ変わらず。
分かっている。この少女の心は変わらず、迷わない。
決めたはずだ。己も迷わずに在り続けると。
そう、ずっと昔に決めたはずだ。
「…………少し、疲れている」
添えた手がわずかに頬を撫で、それも離れると、王太子は背を向けてソファに身を預ける。
「お前も早く部屋へ戻って休め。あと三日だ、気を抜くな」
それは先ほどとは違い、耳に馴染んだ厳しい主の声だった。
ダリアは一度長く目を閉じ、次に目を開けたときには完全に忠実な影と戻っていた。深く礼をし、今度こそ部屋を出る。
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部屋に戻った影は、いつものように武具の整備を始めた。
ひたすら機械的に正確に。武具の一つ一つを確かめていく。その手に淀みはなく、いつもと全く変わらない時間で作業を終える。
黒装束を脱ぎ捨て、結い上げている髪を下ろす。その時ほつれ一つないはずの髪がやや乱れているのを知って、指先が震えた。
しかしそれも一瞬のことで、水を張った桶にタオルと櫛を浸す。手早く体を清め全てを済ませた。小太刀を抱え、定位置の床に座り込む。
相変わらず物音をほとんど立てず、そのまま浅い眠りについた。
そうして夜は更け朝を迎える。誓いの儀まで、残り三日。
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時間は早くも遅くもなく、ひたすら淡々と流れていく。
鴉は巫女姫の護衛を行う一方で、より情報の精度を高めていく。
影も姫の護衛は変わらず続けていた。しかし誓いの儀が近づくのに従い『影』としての神経が研ぎ澄まされていくのと同じように、影を呼ぶ声はその大きさを増していった。
それは遠くから、ある時は耳の奥から。何一つ不鮮明であるのに、その存在感は絶えず影に付きまとう。
だが心は凪いだまま、常と変わりなく任務を続けた。疑問に思ってもそれを深く考えることをしない。誰に教わるでもなく影はその術を身に付けていたから、難しくはなかった。
そしてその日の夜も、王太子は影が護衛する姫の自室に現れた。
寝台の隣に腰掛け、特に何をするでもなく黙って姫の寝顔を見つめるだけ。影も言葉を発することはなく、それこそ影のごとく闇に紛れて辺りを警戒するだけだ。
今日が夜の護衛最後の日。
ただただ静かすぎる夜の帳が、緩やかにその部屋を包んでいた。
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そして誓いの儀の前日になると、姫はもう、影に形ばかりの微笑みすらかけることが出来なくなっていた。
目線も影には定まらず始終うつむく姿は、しかし変わらず美しかった。
結局、影は最後の日に初めて姫と一言も交わすことなく護衛の、また全ての任務を終えた。
「では、私はこれで失礼します」
「………………」
機械的にあいさつを済ませて姫の部屋を出る。凪いだ青とは対照的に様々な感情で揺れる天の青は、影の辺りを漂い、何も言わずに伏せられた。
部屋を出たところで影に行く場所はない。王太子への報告は既に済ましており、自室も行ったところでやることは限られている。
ほんの一時思考を巡らせ、薔薇園に寄ることにした。最後にあの美しい薔薇たちを見たかった。
灯りのない薔薇園は、夜になるとまったく人が寄り付かない。薔薇たちも寝静まり、静謐な空間がぽっかりと闇を生み影を待っていた。
中に入る気はないがすぐに立ち去る気も起きず、影は奥に続く闇を見つめていた。
その均衡は闇から滲み出るように姿を表した鴉によって崩れた。
影は鴉の任務全てを把握しているわけではない。城外警護か、または単に任務帰りか。面から師であることは分かったが特別感慨は湧かず、目礼だけで済ませて踵を返した。
「……私はとても惜しいと思っているのですよ」
しかし不意にかけられた言葉に、影は足を止めて振り返った。鴉は近くの薔薇を見下ろしたまま言葉を続ける。
「貴女は鴉としても王太子の臣としても、これ以上ない逸材です。貴女ほど殿下に忠誠を捧げた者はいないでしょう」
もちろん私も忠誠を誓いましたけどね。小さく笑うその人を見て、影は不思議な気分だった。この人にも感情があるのかと、当たり前のことを意外に思う。
「だからこそ、貴女を憐れに思います。貴女は揺らがない、迷わない、疑問すら抱かない。それは貴女の美徳であり優秀さを示す最たるものです。けれど」
そこでいきなり言葉を切って、軽く頭を振る。
「……いいえ、忘れてください。もう貴女の運命は変えられない。今、私が貴女に望むのはただ一つ。……どうぞ、そのまま。心のままにお役目を果たしなさい」
その言葉を最後に、鴉は闇に溶けていった。一瞬目が合った気もしたが定かではない。常らしからぬ師の心の機微を読み取るには影はあまりにも師を知らなかったし、必要もないと思った。
最後の言葉、お役目を果たすこと。それだけわかっていれば十分なのだから。他は、己には関係ない。関係のないことだ。
冷たく眠る薔薇を見つめながらもう一度つぶやく。関係ない。小さな小さなつぶやきは、影の心に深く落ちていった。
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部屋に帰れば習慣化している武具の整備を始める。明日は巫女姫として立つわけだから本当に最低限、仕込み針一本で十分だった。けれどいつものように武具の一つ一つを手にとってきれいにしてやる。むしろいつも以上に念入りに行った。
己で調合し、目を輝かせる技術局の連中に一日預け、一層毒々しさを増した特製の猛毒を針に塗り込み、薄膜で慎重に針全体を覆う。光を反射せず、人間の血液に反応して溶ける特殊な膜である。
最後に愛用の小太刀を手にとる。刀身に自身を映すと、深い青がこちらを覗き込んでいた。それと目が合うと、脳髄にあの声が響いた。いつも自分を呼ぶ、謎の声……二日前から一層近く聞こえてくる。もう、隣で話しかけてくるようだった。額に手をやる。頭が割れると思った。誰。一体、誰が……
……――ダリア。お前さえ望むなら、私は
強くつむっていた目を大きく開く。細く鋭く息を吸い込んだ。
……あぁ。思わずその場にしゃがみこみたくなる。何故、忘れていたのだろう。……何故、思い出してしまったのだろう。
『ここから逃がしてやることができる』
『お前のお役目は王妃の身代わりだ』
遠い記憶が蘇る。かつて父と呼び敬愛していた壮年の男性の声が、今でははっきりと聞こえる。
ふたを開けられたそこからは捨てた……否、抱くこともなかったはずの感情まで引きずり出されて影の前にさらした。だが影はそれを認めたくはなかった。
ありえない、ありえない、そんな。
『どうか国のために死んでくれ』
おとうさまにすてられたなんて、思ったことは。
「…………っ」
自分は。
自分は、なんて愚かなのだろう幼いのだろう。あんなに愛されていたのに。
そう、あの時も。あの人は言ってくれた。こちらに手を伸ばしてくれていた。たとえ彼にとって絶対の主を裏切ってでも味方であろうとしてくれたのに。
師も、ただの弟子以上に気にかけてくれていたのだろう。姫も、自身のことよりも影の身を愁いていたではないか。
そうやって心を向けてくれた周囲に見向きもしなかった。すべて締め出して、ただ王太子だけを見ていた。自分の世界には王太子しかいなかった。
それで、もうそれだけでよかった。
思考を中断して忘れたはずの感情が芽生えるのを押し殺し、束の間の休息をとる。夜明けはすぐそこだった。




