23歳無職の英傑
「柳恵華、君に任せたい仕事がある」
私が県令の董粛様に呼ばれて部屋に行くと、そう切り出された。
董粛様はどぷっと太った初老の男で、ここで県令となってからもう10年が経っている。つまり偉い人である。
「明日から、県丞として陸寧という者が着任する」
「はい」
私は頷いた。県の役人たちの間で、そのことは評判になっていた。郡太守である雷辛様の推挙で登用された方らしい。雷辛様といえばいずれ中央で栄達するだろうと言われている俊才、その彼が推挙した人物となれば並大抵の人材ではないはずだ。
男たちはひそひそと、女たちはわくわくしてその話をし合っていた。
「君には書佐として彼の補佐を頼みたい」
「私が?」
自慢ではないが私は書類仕事が苦手だし、数字にも弱い。行政文書や帳簿を取り扱う県丞の補佐役として適任だとは我ながら思えなかった。
私は、どちらかといえば女だてらに腕っ節担当なのだ。
「これには理由があってな。実は―――」
董粛様が声を潜めた。その内容を聞いて、私は驚きを禁じ得なかった。
翌日、私は県廷(県令の役所)の門前に立ち、陸寧様が出仕してくるのを待った。
(遅い……)
時刻はもう11時に差し掛かろうかという頃合いである。
役所への出仕は午前9時が定めだから、既に大遅刻だ。
「恵華何やってんの?」
同僚が声をかけてきた。
「今日から来るらしい陸様を待ってるのよ」
「あぁ、噂のイケメン秀才か」
「イケメンなの?」
「知らない、そう言う話だけど見た人はいないね」
「適当な噂しないでよ」
「そうだね。がんばってね」
同僚は手を振りながら去って行った。
本当に噂というのは適当なものだ。誰も見ていない人物をイケメンにまでしてしまう。本当にイケメンだったら多少は嬉しいけれども、期待はできない。
それから1時間経っても、陸寧らしい者は来なかった。
(まだなの?)
いい加減待ちくたびれてきた。
「あのう」
声をかけられて顔を向けると、いかにも平凡な男がいた。
知らない顔だ。
このあたりではまず見かけない薄いグレーの髪が雑にまとめられている。目はやる気が無く、体もひょろっとしているようだ。
服も素材は悪くないものなのに着方が崩れていて実にだらしがない。
「県廷に何かご用?」
私は役所に陳情か何かに来た男だと思いそう聞いた。
「県令様はおられるだろうか」
「董様なら、約束のない人には会わないわよ」
私は当然の返答をした。偉い人に会いたいならまずアポイントを取っておくべきだ。
「いや、大丈夫だ。私は、今日からここで働かされることになった者だ。姓は陸、名を寧、字を子安という」
凡夫はそう述べると、ゆっくりと拱手した。
私は彼を上から下まで改めて見た。
イケメンではなく、秀才そうでもなかった。
俺の名は陸寧という。字は子安である。
齢23歳、もういいかげん働いてくれと親に頼まれる年齢である。
早い者では10歳を超えた頃から仕事を手伝う。15歳になればほとんどの者が農作業など何らかの仕事につき、20歳ともなればごく一部の例外を除けば働いている。
23歳無職、それは『働け』という度重なる圧力にもめげず働かないことを選び続けた一握りの英傑のみがたどり着く境地なのだ。今年に入ってとうとう親が懇願してくるようになった。
ははは、やだよ。働きたくない。
俺はそう返事をして祖父と囲碁を打ち続けていた。
だがとうとう、俺にも働かなければならないときが来てしまった。
ある日、親から頼まれたのだろう、旧来の友人である雷辛が我が家を訪ねてきた。
「子安、お前相変わらず囲碁ばっかり打っているのか」
「そうだよ。最高の人生だ」
「そんなお前に仕事を持ってきてやったぞ」
「やだ帰れ」
「隣の緑県の県丞のポジションが空いててな、そこにお前を推挙しといた」
「友達だと思ってたのに。なんて仕打ちだ。絶交だ」
「やらないのか?」
「やりたくないんだ」
「そういうと思ってな、もう命令書を出して貰った。逆らったら死罪だぞ」
「悪魔め」
俺は抵抗むなしく、県丞の職を受けるしかなかった。
だから、初日から俺は寝坊した。
俺は悪くない。やりたくもない県丞なんて仕事を押しつけてきた雷辛が悪い。
だが俺だって最低限の義務というものは分かっている。職場に行かないのはさすがにまずいということだ。
だから俺は、昼近くになったとはいえ県廷に向かうことにしたのだ。
県廷の門が見えてきた。
1人の女役人がぼーっと突っ立っている。門番だろうか。
うらやましい。俺もあんな仕事がしたい。何もせず立っていれば仕事になるなんて夢のようだ。あれなら碁のことを考え続けていたってバレない。
俺はうらやましい気持ちが顔に出ないように注意しながら近づいていった。
その女役人は、小柄なものの立ち姿は安定していて、なにか武芸の心得があることを思わせた。茶褐色の髪をしていて、目つきは険しかった。
彼女は門の正面を向いて立っていて、橫から歩いてくる俺に気付いていないようだ。
「あのう」
俺は彼女に声をかけた。彼女はそれでようやく俺の方を見た。
「県廷に何かご用?」
ぶっきらぼうに聞いてきた。
「県令様はおられるだろうか」
「董様なら、約束のない人には会わないわよ」
どうやら陳情に来た者と間違われているらしい。
県令となればこの辺り一帯に責任を持つ県の長官だ。約束がなければ会わないのは当然のことだろう。
「いや、大丈夫だ。私は、今日からここで働かされることになった者だ。姓は陸、名を寧、字を子安という」
俺は拱手をして彼女に告げた。
俺が来ることはもう伝わっているはずだから、これで分かってもらえるはずだ。
彼女は俺のことを上から下までぶしつけに眺めると、ため息をついた。
失礼なやつだな。
そう思ったが俺は何も言わなかった。遅刻しているのは俺の方だという自覚はあるのだ。
彼女は俺の方へ向き直り拱手を返してきた。
「陸様、お待ちしておりました。私は陸様の補佐を命じられました、柳瑛です。どうぞ柳恵華とお呼びください」
この失礼なやつが補佐役か。
元々ないやる気が、さらになくなるな。
だが俺は大人なのでそんなことは顔に出さない。
「よろしく、恵華殿。それで、董様にお会いできるだろうか?」
「董様は本日、外出されております」
「え、そうなの。じゃあ来なきゃ良かった」
「……お部屋にご案内しますね」
柳瑛は俺の本音を聞かなかったことにしたらしい。
俺は柳瑛に連れられて執務室に足を踏み入れた。
壁の棚には書類が山のように積み上がり、中央に大きなテーブルがある。
(あぁ、囲碁を打つのにちょうど良い大きさだな)
そのテーブルを見て俺はそう思った。
そう思ったら、今すぐ囲碁を打ちたくなってしまった。
「なあ、恵華殿」
「はい、なんでしょう」
「君、碁は打てるか?」
「打てますけど」
「よし、今から打とう!」
「え、なんでですか?」
「補佐役との親睦を深め、互いの性格を把握するためだ。ささ、はやく碁盤持ってきてくれよ。県丞命令だぞ!」
柳瑛は渋々ながらも言われたとおり碁盤を持ってきた。
俺はウキウキと心躍らせながら白石の入った箱を取った。
「俺は囲碁やりこんでいるから、君が黒番な」
この職場は意外と良い職場かも知れない。俺はそう思い始めていた。
「わかりました。お願いします」
こうして俺と柳瑛は一局打つことになった。楽しい。
「……陸様」
「……なんだよ」
「囲碁、弱いんですね」
圧倒的な俺の負けであった。そんなバカな。




