いよいよ慶応二年 〈其の五〉
六月七日、周防大島沿岸に集結した幕府艦隊が先制の砲撃を開始し、この長幕戦争の文字通り火蓋が切って落とされた。
この長州再討伐の戦役は、結果的に見れば一時幕府優位に傾きかけた時勢を再び倒幕派の側に流れを引き込む以外の効果を齎さなかったと言えるだろう。何せ幕府と譜代大名、それに対する長州藩といった当事者同士以外は頑として中立を表明し、薩摩に至っては裏で長州と手を組んで同盟を成立させていた上に、この騒動のせいで政局が常に倒幕佐幕の間で左右に揺れ動いていた長州藩内において、本格的に徳川と事を構える気構えが藩内全土で完全に定着したからである。
数の上で圧倒的に優位な幕軍は四方から攻め込んでくるが兵士の士気は著しく低く全軍の統制が取れておらず、加えて戦略目標が明確ではない、要するに作戦の基本的な指針が決まっていないのである。彼等が意図する所は、只漠然と幕府の権威を見せつけるという抽象的な目的だけしか決まっていなかった。その上一部を除いてその装備は元亀天正そのままの鎧兜に刀槍弓矢、風にはためく勇壮な馬印、特に榊原家と共に芸州口から侵攻した井伊家に至っては、その陣構えは家康が武田信玄から学び取った甲州流軍法といった、戦国時代でさえそろそろ時代遅れになりかけていた古色蒼然たる屏風絵巻さながらの陣容だったから堪らない。井伊の『赤備え』と言えば滅亡した武田家の家臣を大量に召抱えさせ、信玄の元で諸国の武士どもを震え上がらせた一騎当千の強兵と一糸乱れぬ陣立てで周りから畏怖されたものだが、三世紀近く経って未だにその同じ姿で戦場に姿を現し、赤と黒のエクスタシーに酔い痴れているのではお話にもならない。新型小火器を手に、勝海舟がカミクズヒロイ、と称した運動性に富んだ簡素な出で立ちで匍匐前進しながら物陰から狙撃してくる長州軍の軽装歩兵の前にたちまち劣勢に追い込まれ、あえなく敗走した。
翌年にはその太く短い劇的な生涯を閉じる事となる高杉晋作などは、既に死期を悟っていたのかまさしく革命の天才振りを如何無く発揮して常識破りの戦術で敵を散々に翻弄し、西洋兵学に精通した大村益次郎の堅実な指揮と相乗効果をなして各地で奇跡の大勝利を呼び込んでいた。当然、彼等長州軍の主力は晋作が組織した奇兵隊を始めとした、一般徴募兵による“諸隊”であった。この戦いこそ、まさしく明治維新が単なる幕府から朝廷への政権移譲の抗争ではなく、次なる時代を、新たなる日本を築き上げる“革命”である事を明確にした象徴的な一戦である。日本の歴史に於いて旧来の秩序が一時的に崩壊し、下克上が顕在化した時代は何度か訪れた。しかし、それは権力序列そのものを突き崩す階級闘争ではなく、氏素性の知れない者が権力者として成り上がるだけの、それこそ権力争いに過ぎなかった。この時代で言えば、新撰組のような野心家である。
幕府側と長州側の決定的な違いはここにあっただろう。先に述べたように今回の長州征伐に際して物価が高騰し、庶民による無秩序な反政府活動(明確な意思によるものではなかったが)が頻発したと言う事実を、幕府閣僚は殆どが見過ごしていた、つまり時代の移り変わりに鈍感だったのである。勝海舟のようにそれを見通していた人物も居るには居るのだが、そう言った先鋭的な意見は危険思想の持ち主として退けられた。組織と言うものの弊害と言うか、動脈硬化がそろそろ起き始めていたのである。それについては寧ろ、実務を担当する幕閣よりも一橋慶喜のような徳川家の連枝の方が敏感だった。現代にも、当然この種の支配階層は存在する。現代に於いて、支配階層と言えるのは政治家と言うよりも寧ろテレビ局や大手新聞社など報道関係者であり、彼等による“支配者の横暴”は昨今目に余るものが有る。