Vol.01 Ch.002③ 大志を抱く紫木理香は、どうやら何をするにも不器用らしい。
7
「ただいま。」
「おかえり~。まさか放課後すぐに帰ってこないなんてね。」
姉さんは細い肩紐のキャミ姿でソファに寝転び、洋書を読んでいた。
「ああ、学校の中をちょっと見て回ってた。」
そう答えると、姉さんは本を閉じてこちらを見た。
「よいしょ。で、学校どうだった?」
そんな期待した顔するなよ。
「まあまあ。そうだ、風に会った。隣の人、パンドラの生徒だったんだな。」
「知ってたよ~」
「はあ?」
「ふふ~ん♪」
この女、年下には興味ないとか言ってなかったか?
「部屋入るよ。」
「は~い。」
これ以上聞くのも面倒で、そのまま部屋に戻った。
姉さんと二人で暮らし始めて四日。静かな部屋も、声のないリビングも、どこか冷えていた。前は気にならなかった自分の立てる音が、今はやけに耳につく。まるで、一人になった事実を突きつけてくるみたいに。
……僕、あの「家」を懐かしんでるのか?
いや、あり得ない。
「リーン―」
ん?ツネ?
「どうした?」
「よう、何してる?」
「今ちょうど帰ったところ。」
平然と答えたが、内心この電話にありがたかった。
「飯、行かない?」
「『パンドラ商店街』の近くに引っ越したって言っただろ。」
昔はみんな神高附中の近くに住んでいて、放課後も休日もよく集まっていた。僕がパンドラ高校のあるこの辺に引っ越してからは、そこまで遠くはないとはいえ、神奈川区と港北区じゃ前みたいには会えなくなった。
「覚えてるって。あ、ちょっと待て。」
ツネが不自然に言葉を切った直後、向こうで物音がした。
「もしもし、聞こえる?」
この声……
「もし『梧原夜良』さんをお探しなら、たぶんかけ間違いですよ。」
夢ちゃんは一瞬きょとんとしてから吹き出した。
「朝のメッセージのこと?もう、わざと返さなかったくせに。」
「なんで一緒にいるんだ?」
そう聞いた時、向こうではヒロとツネの声もした。
「私、祐太と霜目と今電車の中。もうすぐ日吉駅だけど、ヨルも来る?」
ずいぶんいきなりだな。
食べるものだけ決めて電話を切る。入学初日なのに、こいつらと会えるとは思わなかった。よし、お出かけお出かけ~
「姉さん、夕飯行ってくる。何か買ってこようか?」
「誰と?ずいぶん弾んだ声してるけど。」
「そうか?」
いや、わざわざ玄関まで来るなよ。
「ん~?誰と行くの?」
「ツネ。」
「それで~?」
「……ヒロ。」
「それで~?」
「えっと……夢ちゃん。」
どうやら満足したらしく、姉さんは追及をやめた。
「へえ~。そんなに嬉しそうなんだ。」
「してないよ。」
「昔、あの子のこと好きだったでしょ?」
「だから?」
「今は~?」
「友達だよ。」
「ほんとに~?」
「ほんとだ。」
姉さんはつまらなそうにため息をついた。
「はいはい、分かった。行ってらっしゃい。」
「何か買ってこようか?」
「いらなーい。お姉ちゃんダイエット中~」
「わかった。」
ドアの向こうから「つまんないな~」と聞こえた。弟が退屈で悪かったな、羽冬悠月さん。あんたを楽しませる秘密なんて一つもない。
パンドラ商店街は、学校前に学生向けの店や屋台が集まってできた商業エリアだ。パンドラ高校と日吉駅の間にあり、飲食、服、文具、アクセまで何でもそろう。夜十時を過ぎても開いている店が多く、この辺り特有の夜市みたいな雰囲気がある。少なくとも僕が物心ついた頃には、日吉駅周辺はもう「パンドラ商店街」と呼ばれていた。
待ち合わせのピザ店に着くと、三人はもう店の前にいた。
「お前だけ偉そうに待たせやがって。」
ああ、懐かしい。このヒロ式の言い方。
「もっと早く言ってくれたら、そっち戻ったのに。」
「いや、急に思い出して電話しただけ。わざわざお前に会いに来たとか思った?」
うわ、それは傷つくわ。
「だって、『ヨルにしばらく会ってない』って言ってたの祐太でしょ? 私はね、みんなの制服がまだきれいなうちに記念写真撮りたいだけだよ!」
はい、津桐さん、見事に暴露。
僕もツネも制服をきっちり着るタイプじゃない。夢ちゃんの判断は正しい。
「なんでピザなんだ?」
「Jonathon Pizza」と書かれた看板を見上げながら、三人に聞いた。
「入学初日っていう地獄を乗り切ったんだから、ジャンクフードを食いまくるべきでしょ。」
「君、いつもそうだろ。」
「好きに言えよ、俺は構わん。」
懐かしい。本当に不思議だ。ウォーターパークに行ったのはついこの前のはずなのに、やけに久しぶりな気がした。違う制服を着た三人を見ながら、神高附中の制服姿が頭の中で重なる。これが成長ってやつか。そう思ったら目に涙が……う、くそ、出てこない。
店に入って、夕食が始まる。
「Jonathon Pizza」――ピザ食べ放題の店だ。店員が各テーブルを回ってピザを配り、ドリンクバーやフライドチキン、パスタもある。酒まであれば完璧なんだけど……
……ん? 今、酒って言ったか? いや、言わなかった。僕まだ高校生だよ。酒なんか飲むわけないだろ。
「そういえば、清水は?」
ヒロの手についた黄色い宝石のブレスレットを見て、もう一人の持ち主を思い出した。
「別れた。あんな面倒な女とずっと一緒にいたくねえ。」
ほんの一瞬、0.5秒にも満たないほどだけ、空気が凍った。僕も夢ちゃんも、ピザを頬張るツネも、互いの反応をうかがったが、目が合うとすぐ逸らした。
「なんでそんな顔してんの?」
ヒロは無表情のままこっちを見た。
「みんなの学校って、もう授業始まってる?私たちは……」
そのあと夢ちゃんが別の話題を振ってくれて、僕らの意識も次第にその二人から離れ、空気も戻っていった。
全員の腹が限界になった頃、Jonathon Pizzaを出て日吉駅へ向かった。前をヒロとツネ、少し離れて後ろを僕と夢ちゃんが歩いた。
「あの二人のこと、前から知ってたのか?」
「若希から聞いてた。」
「そっちに行かなくてよかったのか?」
「少しは話したよ。でも、自分で向き合わなきゃいけないこともあるし。」
「そっか。」
「どうしたの?」
「いや……その、僕らと一緒にいて平気なのか?」
こういうのって、どっちかについたみたいに見られかねないだろ。
「大丈夫……たぶん?」
その目、僕の同意を求めてるのか?
「知らないよ。そういう女同士のこと、僕には分からない。」
夢ちゃんは少し考えてから言った。
「少しは気にすると思う。でも今日はヨルに会いに来たんだし、若希も怒らないと思う。」
「そ、そうか……?」
僕はとっさに視線をそらし、道沿いの看板を頭の中で何度も読んだ。そうでもしないと、急に速くなった鼓動が収まらなかった。
いきなり直球投げてくるなよ、梧原夢美。僕らはただの友達だろ。
人混みの中、僕と夢ちゃんはふと目を合わせ、二人きりの時にだけ浮かぶ、下唇を少し噛んで口元をゆるめるあの笑みを交わした。その瞬間、僕らは何も言わず、ただこのひとときの静けさに身を委ねていた。
「電車もう来るって!どこ行くの、こっそりデート?」
こういう静かな時間が長く続かないことくらい、分かっている。この時間、この場所は、僕らが長く留まっていいものじゃない。夢ちゃんには待っている相手がいる。あちらこそ彼女の居場所だ。
ヒロと清水を見て、僕はますます思う。恋愛なんて、今の僕らには扱いきれない感情だ。根本にあるのが本気の想いじゃなく、ただの原始的な衝動なら、きれいでも脆い陶器みたいなものだ。どうせ「永遠」には届かないのに、そんな壊れやすい形を選ぶのが、本当に相手を大切にすることなのか。
僕には分からないし、分かる必要もない。
同じ状況でも、僕はそうしない。
それは、大切な人を守るやり方じゃないからだ。
8
4月5日火曜。パンドラ高校1年D組。
「紫木。」
「どうした?」
「眼鏡。」
朝どれだけ慌てたら、眼鏡を上下逆のまま出てこられるんだよ。
「えっ!? なんで……恥ずかしい……」
うん、恥ずかしいよな。というわけで皆さん、出かける前は鏡で最終確認をしましょう。
今日も授業はまだ本格的には進まず、先生の自己紹介や軽い説明が中心だった。午後に昨日と同じ科目で少し進んだくらいで、気づけばもう放課後だった。
「よっ。」
ん? 珍しいな。……いや、そもそも僕に話しかけてくる人なんてほとんどいないんだから、珍しいも何もないか。
「どうした、高木くん?」
「おっ、こっそり見てたのか?ちゃんと名前覚えてるじゃん。」
「バスケ好きって言ってた人、あんまりいなかったし。」
思ってた返事と違ったらしく、高木は少し眉をひそめた。
「バスケ?野球キャラと思ってたな。昨日、グラウンドの横でずっと見てたし。なんで降りてこなかったんだ?」
君も僕をこっそり見てたのか。
「一年って、高木くん以外みんな落ちたんじゃなかったの?」
あとから考えれば、あの実力差はたぶん入部テストで、高木だけ受かったんだと思っていた。だから先輩たちと練習していたんだと。けど、高木がもう一度眉をひそめたのを見て、どうも違ったらしいと気づいた。
「落とされた?いや。入りたい人は誰でも入れるよ。ただ、俺のほうが強いから先輩たちと練習してただけ。」
「なるほど。」
あっさり「俺のほうが強い」って言えるあたり、ずいぶん自信だな。
「とりあえず来てみれば?やるかどうかはそのあとでいいし。どうせ暇なんだろ?」
くそ、なんで分かるんだ。そんなにぼっち感出てたのか、僕。
「まあ、行ってもいいけど。」
「よ~し、決まり。行こうぜ。望月と加藤、もう外で待ってるから。」
何だって? そんなうまい話あるか。
窓の外を見ると、たしかに望月と黒髪の女子がいた。
「まったく、大事なことは先に言えよ!」
「Oh~no~、そこが大事だったのかよ。しょうがないな。じゃ、早く来いよ。俺は先に行くから。」
変なしゃべり方だな。
高木が出ていったあと、背中に妙な寒気が走った。
「ど……どうした?」
振り向くと、紫木は慌てて参考書に視線を落とした。今の、睨まれてたか?
「さすが羽冬くんですね。大人気で、まるで有名人です。」
なんで急に敬語なんだ。その評価もよく分からない。
「今日クラスでまともに話したの、君とさっきの高木くらいなんだけど。」
言ってて気づいた。僕、ほんとにぼっちだな。
「あの二人も羽冬くんを待ってたんでしょう?大人気大人気~」
……煽ってるのか?
―「たぶんナンパのつもりだったんだろうけど、ありがとう、羽冬くん。」
あんなこと言ってたくらいだし……
「妬いてる?」
その一言で、紫木はさっきまでの勉強モードを一瞬で捨てた。
「誰があんたなんかに妬くのよ、羽冬夜良!さっさと野球場に行け!」
やっぱり怒った。ペンを持ったまま机まで叩いてる。インク、無事だといいけど。
それと、さっきの音で教室に残ってた何人かがこっちを見たことに、紫木は気づいてるんだろうか。
「冗談だって。怒るなよ。」
「そういう冗談、やめて。」
そう言って、また勉強に戻った。
「はいはい。じゃ、また明日。」
「また明日。」
声はもう落ち着いていた。どうやら収まったらしい。
教室を出ると、三人はもう待っていた。
「待たせたな。行くか。」
野球場へ向かう途中、高木が言った。
「さっきの、カップルケンカ?」
質問そのものはいいとして、主語に妙な悪意がある。
「そう見えたか?」
「羽冬くん!昨日どうして名前を間違えたって教えてくれなかったの!?さっき高木くんに聞いてやっと気づいたの!」
望月、その無邪気な笑顔を一生守りたい――って、危ない危ない。ええと、今の話は……そうそう、たぶんさっき紫木が「羽冬夜良」って叫んだから気づいたんだな。
「だって、言ったら気まずいかなって思ったし~。じゃあ飲み物一本で許してあげるよ。」
「いいよ! 絶対おごる!」
ついでに、加藤にも話を振った。
「羽冬夜良。この二人と同じのD組。そっちは?」
「加藤奈子。G組。」
加藤は一度こっちを見ただけで、また前を向いた。
「……」
「……」
え、終わり?
さっきまで高木や望月とは普通に話してたのに。僕が空気壊したか?
歩きながら、さっきの紫木の反応を思い出した。けど、途中で考えるのをやめた。
さすがに反応が大きすぎる。たった二日で妬くなんてあるのか?僕は、ヒロや風みたいに、自然に女子を惹きつける人じゃない。
だって僕は、ただの普通の人だ。見た目も能力も普通。少し軽口を叩いたくらいで、誰かに好かれるような人じゃない。実際、今まで一度もなかった。
だったら紫木は、ただ友達として「軽薄すぎる」って注意しようとして、少し感情的になっただけなんだろう。まあ、本人も平気でナンパとか言うけど。
他人がどう思ってるかなんて、いちいち気にしたくないし、気にしきれない。知り合ったばかりの大して重要でもない相手より、今僕はただ、自分が少しでも楽に過ごせればそれでいい。
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