Ch.011① これは、彼らの心を乱すゴールデンウィークだった。
「羽冬、もし私たちが付き合ったら、どうなるか考えたことありますか?」
それは、今の僕らの関係では口にしてはいけない問いだった。
けれど、もしあらゆる障害が取り払われて、ただ僕ら二人だけを見たなら。
共通点の多い僕らなら。
その問いには、答えを出せるようになるのだろうか。
1
「うぅ……」
けたたましいアラームの音に、ベッドへ突っ伏したまま呻いているのは、ゴールデンウィークだというのに友達に連れ出されて勉強しなければならない哀れな高校生だった。
僕は羽冬夜良。パンドラ高等学校1年D組の生徒だ。
青春と熱気に満ちたパンドラ祭が終わって、まだ二日しか経っていない。実行委員だった僕は、不本意ながら普通の学生に戻り、どれだけ遅れているのかも分からない勉強を取り戻そうとしていた。
今日は5月3日。中間試験まであと二週間。
左手に水色の宝石のブレスレットを着け、部屋を出ると、リビングから声が飛んできた。
「ヨル、おはよ~起きたんだね。」
「おはよう、姉さん。また徹夜で試合見てたの?」
羽冬悠月。僕より三歳上で、なぜかいつも家にいる大学生の姉だ。
細い肩紐のキャミにショートパンツ姿でソファに寝転がり、横向きに持ったスマホで動画を見ている。
弟の僕からすれば別にどうということもないが、客観的に見れば姉さんはかなりの美人だ。
「そうよ~試合終わっても眠れなくて、そのままドラマ見てた。」
姉さんは野球好きで、特にメジャーリーグのボストン・レッドソックスの大ファンだ。この連休は夜中まで試合を見ながら暇を潰して、生活リズムを完全に壊していた。
何が暇つぶしだ。寝る時間には大人しく寝てろよ!
「朝ごはん作っといたよ。テーブルにあるから。」
「ああ。」
適当に返して、そのまま玄関へ向かう。
だが靴を履こうとした瞬間、背後から、姉さんの冷たい声が刺さった。
「姉さんの言ったこと、無視するつもり?」
「し、していません……」
「せっかく姉さんが作ってあげたのに?」
姉さんの「優しい」視線に負け、僕は食卓へ戻った。まだ温かい目玉焼きを一気に口へ放り込み、トーストを一枚持って玄関へ戻る。
僕が出かけると分かると、姉さんもだらだらとソファを離れてついてきた。
「今日も勉強?」
「うん。」
「若いっていいね~で、紫木さんはいつ正式に連れてきてくれるの?」
「そんな日は来ない。」
「まあね~ヨルって意外と一途だもんね~」
僕は呆れて振り返った。
「行ってきます。」
「いってらっしゃ~い。」
こういう時だけは、無視されてもあっさり引くらしい。
一途になる相手なんていませんよ、羽冬悠月。つまらない弟で悪かったな。
さっきの「優しさ」は皮肉だが、わざわざ朝食を作ってくれたこと自体は素直に嬉しかった。
僕と姉さんは、今年四月の進学を機に、パンドラ高校近くのアパートへ引っ越してきた。家賃は半分ずつ。
正確には、「僕」が半分、姉さんの分を払っている「両親」が半分だ。
こうして家を出て暮らすと決めたのは、僕自身だった。
もちろん、あの二人に許可なんて取っていない。
去年の夏、あの出来事が起きてから――僕とあいつらは、もう家族ではなかった。
日吉駅の前を通りかかると、無料の家庭教師もちょうど駅から出てきた。
「羽冬、おはよう!」
「おはよう、紫木。」
紫木理香。僕と同じ1年D組。
深緑の髪をすっきりとしたポニーテールにまとめ、黒縁眼鏡の奥には明るい茶色の瞳。見た目だけなら、知的で落ち着いた優等生だ。
見た目だけなら。
「紫木。」
「なに?」
「靴下。」
「あっ!またちゃんと履けてない!」
そう。彼女は服すらまともに着られない生活音痴だった。
入学したばかりの頃は、五日のうち三日は袖や靴下がおかしく、眼鏡まで上下逆にかけてくる始末。前には掛け違えた制服のボタンを直そうとして、僕の前で全部外したことまである。(意外と大胆な淡い緑色だ。)
男女の距離感もかなり怪しい。
紫木も僕と同じく、D組代表のパンドラ祭実行委員だった。
その間に僕らの関係は少し微妙になったが、祭りの最後、僕は絶妙な一言で、無事に「仲のいい友達」の位置へ着地させた。
―「高校入ってすぐに、君みたいな友達ができて、本当によかった。」
ただし、それが正解なのは「今」の話だ。
「今日もちゃんと勉強する準備できてる?」
「できてなかったら、今から帰っていい?」
紫木はゴミを見るような目を向けてきた。
「はいはい。」
生活面と人付き合いを除けば、紫木は極めて優秀だ。
神奈川県内随一と呼ばれるパンドラ高校でも上位に入り、先日の数学小テストでは、他の成績上位組すら90点を切る中、一人だけ96点だった。
僕?61点。
中学時代は何度も学年一位だった僕が、人生で初めて落第の恐怖を味わっている。
変な話だろ?一応、元学年一位だろ。
だがここには、中学時代ほとんど努力せず三年間ずっとクラス一位、場合によっては学年一位だったような怪物。僕程度の「優秀」は珍しくない。全員が満点を取らないよう、試験の難易度も当然地獄になる。
だから61点は僕のせいじゃない!
まだほとんどの店が開いていない「パンドラ商店街」を抜け、8時20分ごろ、僕らは学校の図書館へ入った。
勉強中、僕は時々、図書館仕様の小声で紫木に話しかけた。
だが向かいの紫木は一度も本から顔を上げないので、僕は毎回、頭頂部の髪の毛に向かって話すことになる。
「紫木。」
「ん?」
「試験って、席替えしないよな?」
「たぶんね。どうしたの?」
僕の席は窓側の後ろから二番目で、紫木はその真後ろだ。
「左後ろの脚がA、右後ろがB。背もたれの左がC、右がD。どう?」
よく考えたら、先生に気づかれず椅子を叩くのは難しいな。ほかに方法は……
「どういう意味?」
最初は僕の言葉をまだ脳内で処理しきれていなかった紫木も、意味に気づいた瞬間、珍しく顔を上げた。
「私にカンニング手伝わせる気!?」
「しーっ!声、声!」
「んっ!」
自分の声量に気づき、紫木は慌てて口を押さえた。
ゴールデンウィークで先生が図書館をうろついていないことに感謝すべきか。
「冗談だよ。ちょっと暇だっただけ。」
「ちゃんと勉強して!」
今使っている参考書は紫木が買ってくれたものだ。
中間試験で全科目平均80点以上取れれば、そのままタダでもらえる約束になっている。
最初は90点だったのを、必死に頼み込んで80まで値切った。
まあ、もう代金は用意してあるけど。
また集中が切れて周囲を見回していると、ふと誰かと目が合った。
風仙。
パンドラ高校野球部のエース兼主将で、二年A組。体育以外でも学年一位を取り続けている男だ。
ちなみに僕の隣人でもある。どうやら一人で、僕と姉さんの隣の部屋に住んでいるらしい。
目が合った瞬間、風は一度だけ固まり、なぜか得意げに笑った。そのまま隣の女子を連れて、僕から離れた席を探しに行った。
わざと距離取った?
一緒にいたのは1年G組の加藤奈子。野球部のマネージャーだ。
まだそこまで詳しくは知らないが、彼女の目にはどうやら、世界一かっこいい風先輩しか映っていない。
あの二人、もうそこまで進んだのか?
そう考えて、危うく笑いそうになった。
一緒に勉強してるだけで何が進展だ。僕と紫木だって同じじゃないか。
ちなみに僕も野球部のマネージャーだ。選手じゃないのは、単純に野球ができないから。
入部した理由も、もう一人の可愛いマネージャー(加藤ではない)と仲良くなりたかっただけだった。
昼になり、僕らはいったん図書館を出て軽く食事を済ませた。
戻る途中、マナーモードにしていたスマホがポケットの中で震えた。
画面の名前を見て、電話に出た。
「夢ちゃん?どうした?」
「ヨル~、篠原先生がみんなに声かけて、同窓会やるんだって!今週の土曜のお昼に決まったけど、空いてる?」
篠原由佳乃。中学時代の担任だ。
同窓会か。
紫木から休みをもらうには、かなりいい理由だな。
「いいよ。誰が来るの?」
「分かんないね。田中さんに誘われたんだけど、ヨルの連絡先知らないから私から伝えてって言われて。」
……ぼっちで悪かったな。
「分かった。場所決まったら教えて。」
「やった!じゃあまたね~!」
電話を切るまで僕の左手を見ていた紫木が、スマホをしまったところで淡々と聞いた。
「夢ちゃんって、パンドラ祭のとき琢磨楼で会った小学校の同級生?」
琢磨楼、二年生の校舎だ。
「そう。土曜の昼、中学の同窓会に行くから、その日は学校来ないよ。」
「じゃあ、その分この数日は真面目にやって。もうよそ見しない!」
気づいてたのか。頭のてっぺんに目でもついてる?
そこまで紫木の表情はまったく変わらなかった。
ただの友達なんだから、それが普通だ。
夢ちゃんについて聞いたのも、自分の記憶が正しいか確認しただけだろう。
図書館へ戻ってから、さっきまで少し楽しみにしていた同窓会のことを改めて考えた。
篠原先生も来る。たぶん、クラス全員が誘われている。
……ちょっと返事が早すぎたかもしれない。
それでも僕は昔から、夢ちゃんの頼みだけはなかなか断れなかった。
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