Ch.001 それは、まるで結末のような彼らの別れから始まる序章。(表)
「高校に入ってすぐ、君みたいな友達ができて、本当によかった。」
あの関係、あの教室、あのタイミング。
拒めば、彼女を傷つける。
受け入れれば、その先でもっと深く傷つけることになる。
彼女を傷つけないことが目的なら、僕は……
1
「本日午前、ある小学校のサマーキャンプ中に、やけど事故が発生しました。児童の一人がバケツにウォーターサーバーの熱湯を入れ、別の児童に浴びせたことで、その児童は広範囲に重いやけどを負い、現在も病院で治療を受けています。警察の調べによりますと、この二人の児童は○○○○『○○○○○○』の熱心なファンであり、○○の内容を誤って信じたために、そのようなことを……」
去年。2015年8月上旬のニュースだった。
「こんな騒ぎを起こしておいて、よくも○○を続けたいなんて言うのか?」
「羽冬さん、○○○の立場からすれば、私たちは……」
「契約内容に基づけば、すべては未成年者、すなわち甲である羽冬夜良の利益を優先すべきです。」
「○○○○○○、協議の結果、○○の○○はひとまず○○中止とさせていただくことになりました。」
「中学生なんだから、中学生としての本分を果たせ。少し運が良かったくらいで、一生これで食べていけるとでも思ったのか?」
「今はしばらく身を隠して、とにかく勉強しなさい。将来、東大みたいな大学に入れれば、あんたの○○だってもっと話題になるんだから。私たちはみんな夜良のことを思って言っているんだ……」
大人たちの身勝手と、思い上がり。
―「ヨル、本当にそうするの?」
続いて脳裏によみがえったのは、あのとき隣にいた人の、ためらいがちな問いかけだった。何万枚もの紙が燃え、灰になっていく光景が浮かぶ。
この家にいる限り、その記憶はウイルスみたいに全身の細胞へ入り込んでくる。もう思い出せない夢から覚めた朝でさえ、頭がまだ働く前から逃がしてはくれない。
羽冬夜良。「父」と「母」と呼ばれる二人が、僕に与えた名前だ。15歳、神奈川高等学校附属中学校(通称 神高附中)を卒業し、今はただ、あてもなく高校生活の始まりを待っている。
部屋を見回し、視線は中央の机で止まった。机の上は雑多な物で埋まり、ゴミ置き場と見間違えそうなくらいだ。無秩序に積まれた十数冊の試験対策本、無地の服が四、五着。空のペットボトル、ティッシュの空き箱も散乱しており、県内随一の進学校「パンドラ高校」の入学書類が、あの何年も向き合ってきた机の上に散らばっていた。
何年も手をかけてきたとはいえ、中学生にとっては成績が何より大事なんだろう。
ん?県内随一?そう、その通り。僕は神高附中を学年一位で卒業し、唯一パンドラ高校に進んだ優秀な卒業生だ。
「リーン――」
「どうした?」
電話に出るなり、僕は単刀直入に訊いた。
「お?起きてたのか。じゃあ今日、来るよな?」
「たぶんな。」
「まあな、夢美の水着姿が見られるし。」
「夢ちゃんは関係ない。」
癪に障る言い方だ。特に、君の口から出るとなると。
「ふっ。まあ、そんな感じで。あとでな。」
僕が返事をするより早く、一方的に切られた。
せめて最後まで会話させろよ!
適当に女子の名前を出して、反論もさせずに「ふっ」で切るって、何なんだよ!
視線をベッド脇のもう一つの机へ向ける。そこにあった、楕円形の小さな水色の宝石を連ねたブレスレットを左手首につけ、鞄を手に部屋を出た。階段を下り、「家」と呼ばれる建物を後にした。
ん?さっきまでの憂鬱が少し消えていた。クラスの女子の水着姿なんてものを想像して、期待していたからか?
違う、たぶん、さっきの電話のおかげだ。
去年の夏以来、友達といるときだけは、かろうじて世界とのつながりを感じられるけれど……
もう感じられない。自分の、羽冬夜良という命の存在を。
2
3月X日、ウォーターパーク。
柔らかな陽光が、桜咲く季節の大地をまた包む。
桜が散っていくにつれ、刺すような寒さも次第に和らいでいく。温暖化のせいか、春休みも昔ほど寒くなく、暑い日すらある。
水遊びに出るにはちょうどいい。
ここに来たのは、これが3年F組で行く最後のクラス旅行だからだ。
クラス旅行とはいっても、集まったのは男子6人、女子8人だけ。クラスの半分にも届いていない。
神高附中ではクラス替えがないから、三年間ずっと同じメンバーで過ごしてきた。
だからこそ、こういう縁を少しでも繋いでおきたいと思うんだろう。
まあ、僕にとって、大半がただのクラスメイトなんだけど。
「同じクラス」じゃなくなれば、この先そこまで関わることもないだろう。
「また一人ぼっちにしてんのかよ。」
「こっちのほうが僕らしいだろ。」
中央プールから離れて座る僕に気づいて、声をかけてきたのは、腹が少しだけ水着のウエストに乗っているぽっちゃり気味の男だった。
霜目恒久。僕はいつも「ツネ」って呼んでいる。一応、神高附中では一番仲のいい友達ってところだ。
「うおヒロ、ずるいな。」
ツネの言う「ヒロ」というのは、今朝わざわざ電話をかけてきて僕をからかった男、津桐祐太のことだ。中央のプールで一緒にはしゃいでいるのは、彼女の清水若希。
ツネ、ヒロ、そして僕は「ヨル」。
「あ、本当だ、彼女持ち最高だな、触り放題だし、たぶんもうやることやったな。」
羨ましそうにするツネに、僕は適当に返した。
意外に、ツネはすぐに乗ってこなかった。少し間を置いてから、口を開く。
「ほら、もう一人ぼっちじゃやめなよ。どうせ中に話したくない奴が一人だけだろ?」
ツネがそう言って立ち去ったあと、僕は思わず鼻で笑った。そういう話で照れるとか、純情すぎるだろ。男同士なのに。
それから、無意識のうちにプールの中の人影を見渡した。
そうだよな。もうすぐ、みんなそれぞれ別の道へ進む。夢ちゃんはそのまま神奈川高校へ内部進学。ツネは黎明大学附属商業高校、ヒロは将帝高校へ。
清水は……特に聞いたこともなかった。
せっかくみんなとの時間を大事にしようと思ってツネについていったのに、結局また本能のまま離れて、人の少ない端に寄りかかっていた。
今日は水遊び日和だ。三月下旬なのに、水は顔にかかっても冷たすぎず、すぐ慣れる。って、夢ちゃん、僕に水かけてるだろ。
「何その顔なの?」
あ? 知らない。たぶん「君がしつこい」って顔。
「よく見つけるな。」
「ヨルならどこにいても見つけられるよ~一緒に遊ぼうよ! きゃっ!」
僕が反撃してくるなんて全く思っていなかった夢ちゃんは、顔に水をかけられ続けて、一気に押される側になった。
「ま、待て、速すぎ!」
「どうだ、降参か?」
「降参降参、やめたやめた!」
白旗を上げたので、僕も水をかけるのをやめて、プール端に寄りかかり、現実離れした青空と白い雲を眺めた。
夢ちゃん、梧原夢美。今朝、ヒロが電話でわざわざ名前を出してきた女子だ。
僕と夢ちゃんは小学一年の頃から知り合っていて、いわゆる幼なじみ 。
ヒロがいつも夢ちゃんのことで僕をからかってくるのは、昔、僕が彼女のことを好きだったからだ。
「私、きれい?」
両手で濡れたツインテールを指で巻き、夢ちゃんが上目遣いに金色の瞳で見上げる。
うん? そんなストレートに聞く人がいる?
「あそう、世界一きれいだ。」
抑揚のない声で返す。
「ありがとう~」
え、今の適当に返したんだけど、なぜそんな素直に受けたのか?
「じゃ、私戻るよ。もっと楽しんでね、ヨル。」
そう言い残して、ツネたちの方へ戻っていった。
黒のワンピース水着か。肩紐が細い線2本の特別なデザイン…腰の肌は見えないのが残念。
ぺったんこだけど、やっぱり似合ってる。
もっと楽しめってか?確かに、毎日何もせず寝るだけの場所にいるより、ここに来ることに意味があるとは言えないけど、少なくとも生きてはいる。
プール端、後ろから近づく足音に振り返るが、あの暗い赤色のサイドテールがちらりと見えて、無意識に視線を逸らしてしまう。向こうも当然、こっちなんて見ない。
名前すら口にしたくない人。これから夢ちゃんと同じ学校に通っても、もう僕の視界に入ることはない。
とはいえ、本能に突き動かされる自分はつい、彼女の身に纏った白いツーピースの水着に目が行く。上は胸を覆うだけの短いタンクトップタイプだ。
うん、以上だ、もう見ない、本当だ。
「ヨ~ル~」
遠くからヒロの声。え、清水とイチャイチャついてるのかと思ってた。
「一緒に行こうぜ~、ウォータースライダー~ぼっち野郎~」
わかったわかった。頷いて、水中ゆっくり歩き出す。
「若希、一緒に滑ろう、早く! 後ろ座るよ~」
「はいはい、しっかり掴んでね祐太!」
わ~僕も抱けよヒロ~君の胸に飛び込みてえ~
「ヤッホー!!」「あああああ~」
「よし、行くぜ。」
ヒロと清水が着水を見て、ツネも滑る気満々だ。
「肉が引っかかったりしないの?」
「そんなデカくねえよ!」
「絶対引っかかるだろ。」
「リスペクト!」
「せめて贅肉の摩擦力で満足度は下がるだろ。」
「好きに思えよ、俺は構わん。じゃあな~ヨーーーーー」
ほら、二人乗りのヒロと清水より遅い。
「ヨル~」
後ろの夢ちゃんが滑り台乗る前に呼ぶ。
「一緒に滑ろうよ?」
「いや、彼氏いるの忘れたのか。」
「うっ……いいじゃん、私たち、遊園地来るの初めてなんだよ?」
「二人きりみたいに言うな。」
「お願い~」
「はいはい、来い。」
その一言で、夢ちゃんは嬉しそうに僕の前へ座った。
けれど、耳元で一言だけ囁いてから、僕が勢いよく背中を押すと、それに続いて夢ちゃんの甲高い悲鳴が響き、そのまま水路の先へ流されていった。
「じゃあ僕と付き合おうか~」
「何だよおおおおおおお!!」
うん、夢ちゃんにはちゃんと彼氏がいる。松田誠。夢ちゃんと同じ神奈川高校に通っていて、この春から三年生になる先輩だ。
僕もさっさと滑るか。後ろの友達と喋る人の近くに1秒もいたくねえ。
「ああ~お前の顔いつも通りつまんねえな。」
着水した僕の反応を見て、ヒロは少しがっかりしたようだった。
僕は何に乗ってもこんな生気のない顔だから、ヒロとツネももう慣れてるだろ。他の遊園地も一緒だったし。
本心は楽しいんだよ、ジェットコースターもバイキングもこうだ。今さら変えられねえ。
「君みたいにジェットコースター怖がる人よりマシだろ~」
そう、ヒロはこういうの全部だめだからな。
「少なくとも、大人の勝手で自暴自棄にはならないしな~」
「祐太、ひどすぎる。」
「なんだ夢美、そんなに冗談が通じねえのかよ。」
「そうだよ夢ちゃん、僕心広えよ~」
「待ってヨル、どこへ行くの?」
夢ちゃんの呼びかけには応えず、背を向けて立ち去った。
離れるとき、清水がヒロに何か言っているのが聞こえた。でも、誰も追ってはこなかった。
と思っていた。
「気にしないでね、本当に直らないんだ。」
「ん? 平気だよ。」
口では言うが、確かに一瞬顔が固まったろ。
「見ちゃったよ。」
それに夢ちゃん、気づかないはずもない。
「ヒロの言うことも事実だな。」
「気にしないで。昔からああいう人だし。若希もそろそろ限界だし。」
ん?限界って、もう別れるつもりってことか?
「清水って、ヒロのことかなり好きなんじゃないの? それくらいで、そんなに深刻になる?」
「祐太は最初から、ずっと一緒にいるつもりで付き合い始めたわけじゃなかったし、若希も少しずつ考えが変わってきてるみたい。」
まあ、元カノの君なら当然わかってるよな。
夢ちゃんとヒロは、小五の頃にしばらく付き合っていた。
どうして別れたのかは僕もよく知らない。ただ、小六の頃だったってことだけは知っている。
関係がちょっと複雑?まあ、小学生だったし、あの頃の幼い三角関係なんてそこまで大した話でもない。
それに、もう昔のことだ。今はみんな普通に仲のいい友達だ。
「君は?」
「私?」
「彼氏とは。今のところうまくいってるのか?」
問いを聞いて、夢ちゃんは少し考え込んだ。
「ずっと続いてくれたらいいな。」
「なんだよその答え。」
「そう?だって私、ヨルみたいに大人じゃないもん。」
卒業したばかりの中学生が、ずっと年上の先輩と付き合ってきた人より大人ってことになるのか?
松田誠……やっぱ認めない。
散々夢ちゃんに好意を見せて、自分から告白してきたくせに、いざ夢ちゃんが受け入れたら、実は自分には彼女がいる、少し時間をくれ、前の関係をちゃんと片づけるからって……
その話はある日、夢ちゃんの部屋で一緒に宿題を終えたあと、彼女から教えてくれた。
好きになってはいけない相手を好きになってしまった無力さと、自分の過ちへの罪悪感。
それを抱えきれず泣く夢ちゃんを前にして、僕は驚きながらも、肩に頭を預けてくる彼女のそばに静かにいてやることしかできなかった。
これからちゃんと向き合って、大事にし合えればいい――そんな本心でもない慰めを口にしながら。
「ここに来たら、少しは雰囲気変えるのかと思った。」
どう返せばいいか一瞬わからず、話題を夢ちゃんのツインテールに移す。
「ツインテール? 昔、可愛いって言ってくれたから、変えたくなかったんだよね。」
あ?
「五、六年前だろ? 僕のことがそんなに大事なくせに、他の人と付き合うのかよ~?」
「もう、そういうこと言わないでよ。」
小三のある日、夢ちゃんは今のツインテールで学校へ来た。
クラスの男子は、見慣れなかったのか、小学生特有の悪ふざけなのか、変だの似合わないだの好き勝手言っていた。好きな子を元気づけたくて、それに自分はそういう髪型が好きだって伝えたくて、たしかに僕はそう言った。
――――
「実は、可愛いと思うよ。」
しょんぼりしていた夢ちゃんが顔を上げ、涙目で僕を見た。
「本当?」
「本当だよ。僕が嘘ついたことある? 彼らに見る目がないだけ。夢ちゃん一番可愛い。」
「じゃあ今後、毎日こうで登校する!」
「いいよ! 指切り!」
悲しげだった笑顔に、いつもの明るさが戻った。
――――
青い思い出だ。夢ちゃんが僕の気持ちを知ってるって分かってて、「夢ちゃん一番可愛いよ」なんて平気で言っちゃうなんて。ああ、思い出しただけで死にたくなる。
あそう、小学の頃に夢ちゃんを好きだったが、もう昔の話だ。
「ヨル。」
思い出に沈みかけた僕を、もう一度呼ぶ。
「どうした?」
「ひとつ、約束してくれる?」
絵みたいにその美しい瞳に、少しだけ哀しみを宿した目で見つめられると、まるで縫い留められたみたいに視線を外せなくなる。
「高校に上がったら、前みたいな笑顔に戻ってね!」
……?
「笑ってるよ、ずっと。」
回りくどい返事をしてから、無理やり口元を持ち上げてみせた。
でも、僕の返しを受け流して、そのまま言葉を続ける。
「ヨルには、新しい場所でちゃんとやり直して、心から笑えるようになってほしい。」
「これからも、ヨルが必要なら、私はずっとそばにいるから。」
「だから、約束してね?次に会うときは、もうそんな顔しないでね!」
彼女はいつもそうだ。
いつもそんなに優しい。人が思わず気を許してしまうくらい優しい。
だからこそ、僕はその優しさに溺れて、何も知らなかった頃、何の迷いもなく全部を差し出した。いつか気づく、相手が好きなのは自分じゃない。いつか気づく、傷つくのはいつも自分だ。いつか、やっと思い知る……
好きにならないことだけが、自分を救う。
3
三月X日、夜、「家」。すでに温度を失った空間。
─「夢美、一人じゃ少し危ないだろ?ヨル、お前にご褒美。送ってやれよ。」
ウォーターパークを出たあと、僕ら五人で近くで夕飯を済ませ、電車で大口駅へ戻った。
解散前、ヒロにそう言われて、先に夢ちゃんを家まで送り、そのあとここへ戻ってきた。
「家の扉」と呼ばれる仕切りを開けると、ソファでテレビを見ている一組の男女がいた。
「母」は一度だけ僕と目を合わせ、すぐ逸らした。「父」は一度もこちらを見なかった。
いつからだろうな。「ただいま」も「おかえり」もなくなった家。
室内履きに履き替え、僕はそのまま二階へ向かった。
部屋のドアを開けようとしたとき、隣の部屋から姉さんの声がした。
「おかえり、ヨル。」
「うん。」
短く返した直後、姉さんの部屋から慌ただしい足音がして、勢いよくドアが開いた。
その勢いに驚いて、部屋に逃げ込む間も失った。
「前に何て言ったか、また忘れたの?」
「……ただいま。」
姉さんが言っているのは、たぶん「悪いのは私じゃないし、パパとママはともかく、姉さんに挨拶しないつもりなら、やってみなさいよ。」みたいな。
「一日あるかないかね。ずいぶん私に叱られてないみたい。」
「ご……ごめん……」
いつの間にか少しだけ僕より背が低くなった姉さんを見ていると、そんなセリフでびびる自分も、なんだか可笑しかった。
もう僕のほうが背は高いのに、それでも効くらしい?
「今日も何も言わずに上がってきたの?」
「……」
「はあ。友達と遊びに行ってたんでしょ?少しは機嫌よくなってるかと思ったのに。」
姉さんはため息をついた。
「まあいい、荷物はもうまとめた?」
「うん。」
「じゃあ、あと数日だけ我慢しなさいね。この自意識過剰なガキ~」
左手で僕の頭をガシガシ撫でると、姉さんは自分の部屋へ戻っていった。
羽冬悠月。
三つ上の姉だ。今年は僕と同じく卒業の年で、県立高校を卒業し、パンドラ高校の近くの大学に受かった。そのおかげで、僕も一緒に家を出ていけることになった。
さっきの「荷造り」はそのことだし、「あと数日だけ我慢」は、あの二人と同じ屋根の下で過ごす残り時間のことだ。
それと、ツネもヒロも姉さんは美人だと言っていたけど、僕にとってはただの家族でしかない。
残った、たった一人の家族だ。
あの日から、僕はもう二度とあいつらと口を利かなかった。あいつらも、僕を屈服させようといろいろ手を尽くしたが、最後には諦めた。
たぶん、その後あいつらが何も言わなくなったのは、僕の模試の順位がずっと校内一位だったからでもある。
そう、僕は恨んでいても勉強は捨てなかった。むしろ、それで最低限の牽制にしていた。
つまり、もしあいつらがまた何か言うなら、あいつらが大事だと思っているもの、僕にとって一番大事だと決めつけているものを、僕は全部壊して、投げ出せるということだ。
そして今、受験を終え、あいつらの望んだ結果を出した。
だが。
僕がもう夢を追っていた道に戻ることはない。
なぜなら……
全部、お前たちのせいだ。
4
4月1日金曜、午前、パンドラ高校近くのアパート。
今朝は、まだ誰も起きていないうちに荷物を引いて家を出て、電車でパンドラ高校の向かいにある日吉駅までやって来た。
アパートの前まで着くと、近くのベンチに腰を下ろし、両親と姉ちゃんが来るのを待った。
「いい人だったな。」
大家さんとの話が一通り終わったあと、父がそう言った。
「でしょ~?前にも言ったじゃん。急に二人部屋にしたいって言っても、全然文句言わなかったんだから~」
姉さんが得意げに返す。はいはい、今の嫌味は聞かなかったことにしておく。
「部屋の日当たりも間取りも気に入ったわ。悠月も本当に大きくなったのね。」
母のその一言で、姉さんは急に目を赤くした。
「な、なんで急にそんなこと言うのよ……ヨルが家を出るって言わなかったら……私だって、まだ……迷ってたのに……うわああぁ……」
化粧を崩しながら、姉さんは母の肩にもたれて泣き出した。
ああ、無理やり引っ越させたみたいになってたのか。それは知らなかった。悪かったな。
「いい子ね、いつでも帰ってきていいのよ。」
母がそう言っても、姉さんはしばらく泣きやまなかった。
その間に父は無言で僕の横を通り過ぎ、車のほうへ向かっていった。最後まで、一度もこちらを見なかった。
上出来だ。
これが僕とお前たちにふさわしい、赤の他人みたいな結末だ。
お前たちへの恨みは消えないし、こんな別れ際だからって、態度を変える気もない。
家賃を自分の貯金で払うなら、お前たちも何も言えない。
姉さんが落ち着いてから、母もエンジンのかかった車に乗り込んだ。出る直前、母は窓を下ろした。
「姉ちゃん、あとは頼んだわね。」
「わかったよ。この自意識過剰なガキは、ちゃんと私が面倒見るから~気をつけてね。」
そう言って姉さんは、ただ黙って立っているだけで、「気をつけて」の一言すら言う気のない僕を、からかうような目で見た。
父の車が遠ざかっていくのを見送りながら、僕と姉さんの、支え合うような暮らしが始まった。
今の僕には、何が必要で、何を望んでいて、何を取り戻したいのかもまだわからない。
できるのは、この国が未成年に用意した教育を、おとなしく受け入れることくらいだ。
たぶん、彼女が言ったように、新しい場所で新しいつながりを作れば、何か答えが見つかるのかもしれない。
どうせ僕らは、強い社会性を持ちながら、一人では生きられない可笑な生き物だ。
こうして、僕の高校生活は幕を開けた。




