Vol.01 Ch.001 それは、まるで結末のような彼らの別れから始まる序章。
1
――3月X日 午前・羽冬 夜良――
「本日午前、ある小学校のサマーキャンプ中に、やけど事故が発生しました。児童の一人がバケツにウォーターサーバーの熱湯を入れ、別の児童に浴びせたことで、その児童は全身に大やけどを負い、現在も病院で治療を受けています。警察の調べによりますと、この二人の児童は○○○○○○○○○○○○の○○○○○○であり、○○○○○を誤って信じたために、そのようなことを……」
去年。2015年8月上旬のニュースだった。
「こんな騒ぎを起こしておいて、よくも○○○○○○○なんて言うのか?」「羽冬さん、○○○の立場からすれば、私たちは……」「○○○○に基づけば、すべては○○○○、すなわち○○○○○○○○の○○を優先すべきです。」「○○○○○○、協議の結果、○○○○○はひとまず○○○○とさせていただくことになりました。」
「中学生なんだから、中学生としての本分を果たせ。○○○○○○○○くらいで、○○○○○○○○○○○とでも思ったのか?」
「今は○○○○○○○○○、とにかく勉強しなさい。将来、東大みたいな大学に入れれば、○○○○○○だって○○○○○になるんだから。私たちはみんな夜良のことを思って言っているんだ……」
大人たちの身勝手と、思い上がり。
「ヨル、本当にそうするの?」
続いて脳裏によみがえったのは、あのとき隣にいた人の、ためらいがちな問いかけだった。何万枚もの紙が燃え、灰になっていく光景が浮かぶ。
この家にいる限り、その記憶はウイルスみたいに全身の細胞へ入り込んでくる。もう思い出せない夢から覚めた朝でさえ、頭がまだ働く前から逃がしてはくれない。
羽冬夜良。「父」と「母」と呼ばれる二人が、僕に与えた名前だ。15歳、神奈川高等学校附属中学校(通称 神高附中)を卒業し、今はただ、あてもなく高校生活の始まりを待っている。
部屋を見回し、視線は中央の机で止まった。机の上は雑多な物で埋まり、ゴミ置き場と見間違えそうなくらいだ。無秩序に積まれた十数冊の試験対策本、無地の服が四、五着。空のペットボトル、ティッシュの空き箱も散乱しており、県内随一の進学校「パンドラ高校」の入学書類が、あの何年も向き合ってきた机の上に散らばっていた。
何年も手をかけてきたとはいえ、中学生にとっては成績が何より大事なんだろう。
ん?県内随一?そう、その通り。僕は神高附中を校内一位で卒業し、唯一パンドラ高校に進んだ優秀な卒業生だ。
「リーン――」
憂鬱な少年ぶって自己紹介していたところに、空気をぶち壊す電話が鳴った。
「どうした?」
電話に出るなり、僕は単刀直入に訊いた。
「お?起きてたのか。じゃあ今日、来るよな?」
受話器の向こうの相手がそう訊いてくる。
「たぶんな。」
「まあな、夢美の水着姿が見られるし。」
「夢ちゃんは関係ない。」
癪に障る言い方だ。特に、君の口から出るとなると。
「ふっ。まあ、そんな感じで。あとでな。」
僕が返事をするより早く、一方的に切られた。
せめて最後まで会話させろよ!適当に女の子の名前を出して、反論もさせずに「ふっ」で切るって、何なんだよ!
それに、僕は女の子一人の水着姿くらいしか楽しみにできないのか?
視線をベッド脇のもう一つの机へ向ける。そこにあった、楕円形の小さな水色の宝石を連ねたブレスレットを左手首につけ、鞄を手に部屋を出た。階段を下り、「家」と呼ばれる建物を後にした。
ん?さっきまでの憂鬱が少し消えていた。クラスの女子の水着姿なんてものを想像して、期待していたからか?
違う、たぶん、さっきの電話のおかげだ。
去年の夏以来、友達といるときだけは、かろうじて世界とのつながりを感じられるけれど……
もう感じられない。自分の、羽冬夜良という命の存在を。
――三月X日 午前・梧原 夢美――
「夢美、おはよう!」
聞き慣れた声に、スマホへメッセージを打つ手を止めて顔を上げる。
「おはよう、若希~」
「松田先輩にメッセージ送ってたの?」
松田誠。二歳年上で神奈川高校に通う、今付き合っている彼氏だ。
「うん。今朝はバタバタしてて、言う暇がなかったの。」
「今日あたしたちとウォーターパークに行くことも、今伝えようとしてたんでしょ?」
「うっ……」
さすが若希。
「まあいいじゃん?あたしだって祐太に何でも話してるわけじゃないし~」
「別にわざとじゃないもん!」
「はいはい~。どうせ松田先輩、夢美のこと大好きなんだし、平気だって~」
「……」
清水若希、神高附中のクラスメイトで、一番仲のいい友達。
でもね……時々、少しだけ慣れないことがある。
だって今、若希が付き合っている相手は、私が小学生のころに付き合っていて、中学に上がる前に別れた相手だから。あ、もちろん、そのことは若希も知っている。
津桐祐太、別れたあともう関わらないと思っていたのに、中学でまた同じクラスになった。三年のあいだに、元恋人同士だった気まずさは薄れて、今では普通に話せる。むしろ、一度付き合っていたからこそ、お互いの感覚が噛み合いやすくて、わりと親しい友達になっていた。
でも、何というか……一番仲のいい友達が、昔付き合っていた相手と付き合って……
最近、胸の奥に良くない感情が芽生えるたび、私は無意識に、左手首の飾りを右手でそっとなぞってしまう。それは、楕円形の小さなピンク色の宝石が連なったブレスレットだ。
私のしぐさに気づいたのか、若希も左手を上げて、自分の手首にある同じデザインの黄色い宝石のブレスレットを見た。
「あ、さっき祐太から聞いたんだけど、羽冬、今日来るみたいだよ。」
「あ……うん……」
朝からもう電話して情報交換してる?
ヨル……来るのか……?
「なんだ?照れてるの?」
「若希!」
「はいはい~もうからかわないって。」
羽冬夜良、小学一年生で同じクラスになって以来、私たちはお互いの成長をずっと見てきた友達だ。いわゆる幼なじみだよね。昔から、私は夜良を「ヨル」、夜良は私を「夢ちゃん」と呼んでいた。ずっと、お互いのことを一番よく知っている存在だったし、家族同士も相手のことをかなり気に入っていたみたいだった。
でも、それだけだ。ヨルは小さいころ――小一だったか、小二だったかはもうはっきりしないけれど――一度私を好きだと言ってくれたことがある。でも、私が返事をする前に、勝手に走って行ってしまった
それから小五で、私が祐太の告白を受け入れたあと、ヨルはもう私のことを好きじゃないから平気だと、どうでもいいことみたいに言った。
あのはっきりした態度は、本心だったのか、強がりだったのか、私にはわからない。しかも成長するにつれて、ヨルもほかの女の子に興味を持つようになっていったみたいで、私はだんだん気にしなくなっていった。
とにかく、それからも私たちはずっとそばにいた。小六で私が祐太と別れたあとも、中二で松田先輩と付き合い始めたあとも、ずっと変わらなかった。
誰も、去年の夏休みにあんなことが起きるなんて思ってもいなかった。そして私は、熱意に満ちていたヨルをあの世界へ連れていったくせに、ヨルがそこから捨てられたとき、ただ緊張して、怖くなって、一言も言えなかった。
もしヨルがもう一度、昔みたいに明るくて、私が憧れの目を向けると少し照れた顔を見せる、あの無邪気な少年に戻ってくれたら......
私の名前は、梧原夢美、ごく平凡な、もうすぐ高校生になる女の子。
ただ平凡であればいい。梧原夢美。
――三月X日 午前・津桐 祐太――
おや、俺の番ってわけか?
津桐祐太。高身長、顔よし、口が達者、運動神経も抜群。要するに、女が好きになる要素を全部まとめて生まれてきた男だ。。
もちろん、欠点はある。たとえば――長所が多すぎ。
なん~てね。冗談冗談。
たとえば、成績が悪いとかさ。どうせ、成績がいいなんて、女にとって取るに足りねぇ、大した加点じゃない属性だ。
けど、そんな頭がよくない俺が、どうして近視なんだか?意味わかんねえ。
ヨルのやつ、今日は来るんだってな。ようやく人間らしい活動に参加する気になったらしい。
それを確認して家を出た俺は、別の相手に電話をかけた。
「デブ。」
「なんだよ?」
声を聞くだけでデブだとわかる声だった。
「もう出た?」
「おう、もう準備できてる。」
その声と一緒に、布の擦れる音と妙に忍ばせた足音が聞こえた。
「てめえ、まだ起きてもいないだろ?」
「バカ言うな!」
「クソデブ。」
「好きに思えよ、俺は構わん。」
「ヨルが来るってよ。夢美の水着姿を見たいんだってさ。」
ツネ――霜目恒久。今日集まる連中と同じ神奈川中学3年F組のクラスメイトで、見た目からしてわかりやすいくらいデブなデブだ。
ヨル、ツネ、そして俺は「ヒロ」、まあそんな感じだ。
しばらくして、ツネが俺の挑発に返した。
「ヨルはそんなことをいわねぇだろ。」
「素直に言うわけないな。」
また沈黙。説教の準備か?
「みんな仲いいのはわかるけどさ、たまには、昔の立場と今の状況くらい考えてやれよ。」
「知るかよ。俺が言ってることだって事実だ。」
「はいはい。そう言うだろうなってのは、前からわかってたし。お前らの小学校時代のごたごたにまで口出す気もないよ」
どうやら言い争うのは諦めたらしい。ナイス。
「いいから、早く出てこいよ。じゃ。」
「じゃな。」
通話を切り、大口駅へ向かう。
昔の立場……
口では気にしてないといったのはやつだろ?なら、なんで俺が気を遣わなきゃならない?
今の状況……
嫌だね。たまにあいつを煽るのは、俺の数少ない楽しみなんだから。
それに、あんなことがあったからって、みんながあいつに変に気を遣ったら、かえって余計に引きずるだろ。末期癌の患者に向かって、「かわいそう」って言い続けるようなもんだろ。
そうだ、誰だって普通の人間として見られたい。まして、一度は何かを成し遂げて、最後に全部失った男ならなおさらだ。
それにしても、あのデブが俺に説教してくるとはな。
ツネも若希と同じく中学に入ってからの友達だが、ヨルはたぶん、付き合いの長い俺よりツネのほうが仲いい。
そりゃあいつがヨルをかばうわけだ。気持ち悪ぃ~。
で、俺はどうなんだろうな?
周りからはずっと、スポーツの道に進めだの、バスケ部の強豪校に行けだの言われてきた俺も、やっぱりそういう方向を目指すべきなのか?
けど、羽冬夜良と梧原夢美に起きたことを見てきた俺が学んだのは、特別なやつは結局妬まれるってことだ。
大げさに取り上げられて、わざわざ粗探しされて、思い上がりな大人やネットの外野に好き勝手言われるって。
確実に、俺はバスケ部がそこそこ強い将帝高等学校に進学したけど、部活に入ること自体が目的じゃない。
バスケ部の部員でもないくせに正式な部員をぶちのめせる――そんな肩書きだけでも、しばらくはそれで気楽にやってけるだろ。若希とは別の学校になるけど、別にそれはそれで構わない。
ポケットに手を突っ込んでいるせいで黄色い光を返せない、左手首につけた宝石ブレスレットを感じて、俺は思わず小さくつぶやいた。
「どうせ高校に入ったら、いつか別れるんだ。」
──三月X日 午前・霜目 恒久──
「よう。」
大口駅に着くと、もうヒロ、清水、梧原、それに何人かのクラスメイトが入口で立ち話をしていた。声をかけて、俺もその輪に入る。
「霜目、遅い!」
梧原が笑いながら言う。
「デブだから歩くのに時間かかるんだろ。」
あ、会って早々、正面からヒロ式の攻撃を食らった。まあ慣れてるけど。
「好きに言えよ、俺は構わん。」
「霜目、おはよ~。ちょっと遅刻だよ~」
そう言って近づいてきたのは、さっきまで別のグループにいた、夏目映璃だった。
「ギリギリ到着のくせに!ぷっ!」
「俺が出る前まで寝てたやつが、よく言うよな、クソデブ。」
ヒ……ロ……俺の腹はお前のサンドバッグじゃないんだ!
夏目……何て言えばいいんだろう。とにかく、俺にとってはちょっと扱いづらい女だ。
前はヨルとかなり仲が良くて、みんなでよく図書館に勉強しに行ったりしていた。
―「ツネ、ヒロ、そのままじゃマジでだめだよ。そんな難しくないんだから、ちゃんとやれよ。」
あのころのヨルは、いつもそんなふうに余計なお世話を焼いて、俺とヒロを引っ張っていって、その日にデートがない梧原も巻き込んでいた。梧原がたまに清水を連れてきて、ヒロとあいつがだんだんいい感じになったのも、たぶんその流れだ。
ヨルと夏目は、前は仲が良かった?うん……そうだ。で、どういうふうに仲が良かったのかって、いまさら言わなくでもいい。とにかく、ヨルにあの件が起きてからほどなくして、中学三年の第二学期が始まったころには、二人は急に袂を分かつようになった。
夏目の視線が、俺たちの腰のあたりに巡っていく。少ししてから、左手を見ていたんだと気づく。俺の場合は、左手首につけている、淡い緑色の宝石のブレスレットだ。
「いいね~友情の証って。私も同じデザインのブレスレット、一本ほしいなあ~」
感情が読みにくくて、その言葉の裏もよくわからない。たぶん、そういうところが苦手なんだろうな。
「夏目も欲しいなら、今日終わったあと一緒に見に行こうよ~」
その沈黙を真っ先に埋めたのは、こういう場を丸く収めるのがうまい清水だった。
「ん~、やっぱいいや。私までつけたら、嫌な顔する人いそうだし~。まあ、その人に嫌がる資格があるのかは知らないけど~」
意味深な言葉だけ残して、夏目は自分のグループへ戻っていった。
さっきの一言より、今の言い方のほうがわかりやすい。皮肉の中に、まだ消えてない苛立ちが混じっていた。
清水の口調は柔らかかったけど、名前じゃなくて苗字で呼ぶあたり、女の世界では「あなたはこっち側じゃない」って意味なんだろう。
たぶん清水は、梧原が「ブレスレット」という言葉に反応して視線を逸らしたのを、夏目に気づかせないように先に返したんだと思う。でも、俺ですら気づくくらいなら……
みんな、夏目とそこまでべったり仲がいいわけじゃないけど、関係は悪くなかったはずだ。それなのに、ヨルの話が絡むと、なんで急にこんな腹の探り合いみたいな空気になるんだよ。
う……うらやましいよな、羽冬夜良。
このブレスレットは、卒業式の日に俺、ヨル、ヒロ、清水、梧原の五人で街に出たとき買ったものだ。言い出したのは梧原で、壊れにくい石に三年間の友情を込めて、これからもつないでいきたいって話だった。
まあ、一番渡したかった相手が誰かなんて、見ればわかるけどな。
でもあの二人が、いったいどういう関係なのか、俺にはさっぱりわからない。まあ、みんなにとってもちゃんと記念にはなるし、ヒロがそのとき不意に「俺らって数合わせかよ」とか言い出した以外は、俺も清水も特に何も言わなかった。
みんな、梧原なりにこういう形でヨルを元気づけたかったんだろうって受け取っていたと思う。
とはいえ、ヒロと清水がちゃっかり同じ色を選んでたのは腹立つ。くそ、俺も彼女ほしいのに!
しかも、別に宝石ってほどのもんじゃなくて、ただの石だし!
しばらくして、少し離れたところにヨルの姿が見えた。俺たちは改札を通って、ウォーターパーク行きの電車に乗る準備をする。
相変わらず苦い顔のままだ。でも少し前よりは、ほんの少しだけ笑えるようにはなってる。今日が終わるころには、少しでも調子が戻ってくれたらいいんだけど。
最初にヨルを誘ったとき、気分じゃないだの、「あの人」と、って夏目だよ、夏目と同じ場所にはいたくないだの、いろいろ言ってた。俺が梧原の水着姿が見られるかもって言わなかったら、たぶん本当に来なかったと思う。
―「うっ……何で夢ちゃんの名前出すんだよ。やめろって。」
今思い返しても、あれは絶対に動揺してたよな。
まあ、そう考えると、ヒロの言ってたことも間違いじゃないのかもしれん。
ヨルってさ……ああいうふうに、自分の中に理想や目指す先をちゃんと持ってるやつだからこそ、努力してきたぶんだけ、得失心に苦しめられるんだと思う。
そういう人には少し憧れるけど、最後にあんな結果になったのを見てしまうと……それに、赤点回避で精いっぱいの俺には、将来何がしたいかなんて、正直そこまで考える余裕もない。ゲームの時間も確保しなきゃいけないし。
本気で「何がしたいか」って聞かれたら……
やっぱ、彼女がほしいってことになるんだろうな。
2
――3月X日 午前・羽冬 夜良――
柔らかな陽光が、桜咲く季節の大地をまた包む。花びらが舞い落ちるにつれ、刺すような寒さも徐々に和らぎ、桜が散るにつれ、刺すような寒さもやわらいでいく。温暖化のせいか、春休みも昔ほど寒くなく、暑い日すらある。水遊びに出るにはちょうどいい。
3年F組最後のクラス遊び。とはいえ、男子六人に女子八人で、クラスの半分にも届かない……神高附中は一年で決まったクラスが三年間そのままだ。三年分の関わりがあるからこそ、この縁を手放したくないんだろう。
けれど、時間が経てば、人と人をつないでいた感情だって少しずつ冷めていく。ほとんどの人間は、所詮「クラスメイト」でしかないからだ。「同じクラス」という理由を失えば、ただの「クラスメイト」の僕らは、毎日のように顔を合わせることも、何気ない会話を交わすこともなくなって、共通の話題は減っていくし、相手の生活を知ろうと思ったら、その先にある高校での人間関係まで理解しなきゃならない。そんなの、誰だって面倒に決まってる。そのうち、道で会って挨拶することさえ気まずくなっていく。
「また一人ぼっちにしてんのかよ。」
「こっちのほうが僕らしいし。」
中央プールから離れて座る僕に気づき、ツネが隣に座って話しかける。
「うおヒロ、ずるいな。」
清水の、ビキニを難なく着こなしてしまう体つきを見ながら、ツネが羨ましそうに言う。
「あ、本当だ、彼女持ち最高だな、触り放題だし、たぶんもうやることやったな。」
僕は適当に返す。
意外に、ツネはすぐに乗ってこなかった。少し間を置いてから、口を開く。
「ほら、もう一人ぼっちじゃやめなよ。どうせ中に話したくない奴が一人だけだろ?」
ツネがそう言って立ち去ったあと、僕は思わず鼻で笑った。そういう話で照れるとか、純情すぎるだろ。男同士なのに。
それから、無意識のうちにプールの中の人影を見渡した。
そうだよな。もうすぐ、みんなそれぞれ別の道へ進む。夢ちゃんはそのまま神奈川高校へ内部進学。ツネは黎明大学附属商業高校へ。ヒロは将帝高校。
清水は……知らない。特に聞いたこともなかった。
せっかくみんなとの時間を大事にしようと思ってツネについていったのに、結局また本能のまま離れて、人の少ない端に寄りかかっていた。
今日は水遊び日和だ。三月下旬なのに、水は顔にかかっても冷たすぎず、すぐ慣れる。って、夢ちゃん、僕に水かけてるだろ。
「何その顔なの?」
あ? 知らない。たぶん「君がしつこい」って顔。「よく見つけるな。」
「ヨルならどこにいても見つけられるよ~一緒に遊ぼうよ! きゃっ!」
僕が反撃してくるなんて全く思っていなかった夢ちゃんは、顔に水をかけられ続けて、一気に押される側になった。
「ま、待て、速すぎ!」
「どうだ、降参か?」
「降参降参、やめたやめた!」
白旗を上げたので、僕も水をかけるのをやめて、プール端に寄りかかり、現実離れした青空と白い雲を眺める。
「私、きれい?」
両手で濡れたツインテールを指で巻き、夢ちゃんが上目遣いに金色の瞳で見上げる。
うん? そんなストレートに聞く人がいる?
「あそう、世界一きれいだ。」
抑揚のない声で返す。
「ありがとう~」
え、今の適当に返したんだけど、なぜそんな素直に受けたのか?
「じゃ、私戻るよ。もっと楽しんでね、ヨル。」
そう言い残して、ツネたちの方へ戻っていった。
黒のワンピース水着か。肩紐が細い線2本の特別なデザイン…腰の肌は見えないのが残念。でも、平たいてもやっぱり似合ってる。
もっと楽しめってか?確かに、毎日何もせず寝るだけの場所にいるより、ここに来ることに意味があるとは言えないけど、少なくとも生きてはいる。
プール端、後ろから近づく足音に振り返るが、あの暗い赤色のサイドテールがちらりと見えて、無意識に視線を逸らしてしまう。向こうも当然、こっちなんて見ない。
名前すら口にしたくない人。これから夢ちゃんと同じ学校に通っても、もう僕の視界に入ることはない。
とはいえ、本能に突き動かされる自分はつい、彼女の身に纏った白いツーピースの水着に目が行く。上は胸を覆うだけの短いタンクトップタイプだ。
うん、以上だ、もう見ない、本当だ。どうせ夢ちゃんよりちょっと大きいだけだし。
「ヨ~ル~」
遠くからヒロの声。え、清水とイチャイチャついてるのかと思ってた。
「一緒に行こうぜ~、ウォータースライダー~ぼっち野郎~」
わかったわかった。頷いて、水中ゆっくり歩き出す。
「若希、一緒に滑ろう、早く! 後ろ座るよ~」
このカップル、目立ちすぎだろ。独り身への嫌がらせか?
「はいはい、しっかり掴んでね祐太!」
わ~僕も抱けよヒロ~君の胸に飛び込みてえ~
「ヤッホー!!」「あああああ~」
「よし、行くぜ。」
ヒロと清水が着水を見て、ツネも滑る気満々だ。
「肉が引っかかったりしないの?」「そんなデカくねえよ!」「絶対引っかかるだろ。」「リスペクト!」「せめて贅肉の摩擦力で満足度は下がるだろ。」「好きに思えよ、俺は構わん。じゃあな~ヨーーーーー」
ほら、二人乗りのヒロと清水より遅い。
「ヨル~」後ろの夢ちゃんが滑り台乗る前に呼ぶ。
「一緒に滑ろうよ?」「いや、彼氏いるの忘れたのか。」「うっ……いいじゃん、私たち、遊園地来るの初めてなんだよ?」「二人きりみたいに言うな。」「お願い~」「はいはい、来い。」
その一言で、夢ちゃんは嬉しそうに僕の前へ座った。けれど、耳元で一言だけ囁いてから、僕が勢いよく背中を押すと、それに続いて夢ちゃんの甲高い悲鳴が響き、そのまま水路の先へ流されていった。
「じゃあ僕と付き合おうか~」「何だよおおおおおおお!!」
僕もさっさと滑るか。後ろの友達と喋る人の近くに1秒もいたくねえ。
「ああ~お前の顔いつも通りつまんねえな。」
着水した僕の反応を見て、ヒロは少しがっかりしたようだった。僕は何に乗ってもこんな生気のない顔だから、ヒロとツネももう慣れてるだろ。他の遊園地も一緒だったし。本心は楽しいんだよ、ジェットコースターもバイキングもこうだ。今さら変えられねえ。
「君みたいにジェットコースター怖がる人よりマシだろ~」
そう、ヒロはこういうの全部だめだからな。
「少なくとも、大人の勝手で自暴自棄にはならないしな~」
「祐太、ひどすぎる。」
「なんだ夢美、そんなに冗談通じないじゃないよ。」
「そうだよ夢ちゃん、僕心広えよ~」
「待ってヨル、どこへ行くの?」夢ちゃんの呼びかけには応えず、背を向けて立ち去った。
離れるとき、清水がヒロに何か言っているのが聞こえた。でも、誰も追ってはこなかった。
と思っていた。
「気にしないでね、本当に直らないんだ。」
「ん? 平気だよ。」
口では言うが、確かに一瞬顔が固まったろ。
「見ちゃったよ。」
それに夢ちゃん、気づかないはずもない。
「ヒロの言うことも事実だな。」
「気にしないで。昔からああいう人だし。若希もそろそろ限界だし。」
うん?
「清水って、ヒロのこと好きなんじゃないの? それくらいでそんなに深刻になる?」
「祐太は最初から本気で考えて始めたわけじゃなかったし。若希も考え変わってきた。」
まあね、元彼女の君がもちろん僕より知ってんだろ。
「君は?」
「私?」
「彼氏とは。今のところうまくいってるのか?」
問いを聞いて、夢ちゃんは少し考え込んだ。
「ずっと続いてくれたらいいな。」
「なんだよその答え。」
苦笑。
「そう?だって私、ヨルみたいに大人じゃないもん。」
卒業したばかりの中学生が、ずっと年上の先輩と付き合ってきた人より大人ってことになるのか?
松田誠……やっぱ認めない。
散々夢ちゃんに好意を見せて、自分から告白してきたくせに、いざ夢ちゃんが受け入れたら、実は自分には彼女がいる、少し時間をくれ、前の関係をちゃんと片づけるからって……
その話はある日、夢ちゃんの部屋で一緒に宿題を終えたあと、彼女から教えてくれた。好きになってはいけない相手を好きになってしまった無力さと、自分の過ちへの罪悪感。それを抱えきれず泣く夢ちゃんを前にして、僕は驚きながらも、肩に頭を預けてくる彼女のそばに静かにいてやることしかできなかった。
これからちゃんと向き合って、大事にし合えればいい――そんな本心でもない慰めを口にしながら。
「ここに来たら、少しは雰囲気変えるのかと思った。」
どう返せばいいか一瞬わからず、話題を夢ちゃんのツインテールに移す。
「ツインテール? 昔、可愛いって言ってくれたから、変えたくなかったんだよね。」
あ?
「五、六年前だろ? 僕のことがそんなに大事なくせに、他の人と付き合うのかよ~?」
「もう、そういうこと言わないでよ。」
小三のある日、夢ちゃんは今のツインテールで学校へ来た。
クラスの男子は、見慣れなかったのか、小学生特有の悪ふざけなのか、変だの似合わないだの好き勝手言っていた。好きな子を元気づけたくて、それに自分はそういう髪型が好きだって伝えたくて、たしかに僕はそう言った。
―「実は、可愛いと思うよ。」
しょんぼり夢ちゃんが顔を上げ、涙目で僕を見る。
―「本当?」
泣き声抑え。
―「本当だよ、僕が嘘ついたことある? 彼らに見る目がないだけ。夢ちゃん一番可愛い。」
―「じゃあ今後、毎日こうで登校する!」
―「いいよ! 指切り!」
悲しみ笑顔に、いつもの元気が復活。
青い思い出だ。夢ちゃんが僕の気持ちを知ってるって分かってて、「夢ちゃん一番可愛いよ」なんて平気で言っちゃうなんて。ああ、思い出しただけで死にたくなる。
あそう、小学の頃に夢ちゃんを好きだったが、もう昔の話だ。
「ヨル。」
思い出に沈みかけた僕を、もう一度呼ぶ。
「どうした?」
「ひとつ、約束してくれる?」
絵みたいにその美しい瞳に、少しだけ哀しみを宿した目で見つめられると、まるで縫い留められたみたいに視線を外せなくなる。
「高校に上がったら、前みたいな笑顔に戻ってね!」
……?
「笑ってるよ、ずっと。」
回りくどい返事をしてから、無理やり口元を持ち上げてみせた。
でも、僕の返しを受け流して、そのまま言葉を続ける。
「ヨルには、新しい場所でちゃんとやり直して、心から笑えるようになってほしい。」
「これからも、ヨルが必要なら、私はずっとそばにいるから。」
「だから、約束してね?次に会うときは、もうそんな顔しないでね!」
彼女はいつもそうだ。
梧原夢美は、いつもそんなに優しい。人が思わず気を許してしまうくらい優しい。
だからこそ、僕はその優しさに溺れて、何も知らなかった頃、何の迷いもなく全部を差し出した。いつか気づく、相手が好きなのは自分じゃない。いつか気づく、傷つくのはいつも自分だ。いつか、やっと思い知る……
好きにならないことだけが、自分を救う。
3
――三月X日 夜・羽冬 夜良――
そこは、とっくに温度を失った空間だった。
―「夢美、一人じゃ少し危ないだろ?ヨル、お前にご褒美。送ってやれよ。」
ウォーターパークを出たあと、僕ら五人で近くで夕飯を済ませ、電車で大口駅へ戻った。解散前、ヒロにそう言われて、先に夢ちゃんを家まで送り、そのあとここへ戻ってきた。
「家の扉」と呼ばれる仕切りを開けると、ソファでテレビを見ている一組の男女がいた。「母」は一度だけ僕と目を合わせ、すぐ逸らした。「父」は一度もこちらを見なかった。
いつからだろうな。「ただいま」も「おかえり」もなくなった家。。
室内履きに履き替え、僕はそのまま二階へ向かった。
「おかえり、ヨル。」
部屋のドアを開けようとしたとき、隣の部屋から姉さんの声がした。
「うん。」
短く返した直後、姉さんの部屋から慌ただしい足音がして、勢いよくドアが開いた。その勢いに驚いて、部屋に逃げ込む間も失った。
「前に何て言ったか、また忘れたの?」
「……ただいま。」
姉さんが言っているのは、たぶん「悪いのは私じゃないし、パパとママはともかく、姉さんに挨拶しないつもりなら、やってみなさいよ。」みたいな。
「一日あるかないかね。ずいぶん私に叱られてないみたい。」
「ご……ごめん……」
いつの間にか少しだけ僕より背が低くなった姉さんを見ていると、そんなセリフでびびる自分も、なんだか可笑しかった。もう僕のほうが背は高いのに、それでも効くらしい?
「今日も何も言わずに上がってきたの?」
「……」
「はあ。友達と遊びに行ってたんでしょ?少しは機嫌よくなってるかと思ったのに。」
姉さんはため息をついた。
「まあいい、荷物はもうまとめた?」
「うん。」
「じゃあ、あと数日だけ我慢しなさいね。この自意識過剰なガキ~」
左手で僕の頭をガシガシ撫でると、姉さんは自分の部屋へ戻っていった。
羽冬悠月。三つ上の姉だ。今年は僕と同じく卒業の年で、県立高校を卒業し、パンドラ高校の近くの大学に受かった。そのおかげで、僕も一緒に家を出ていけることになった。
さっきの「荷造り」はそのことだし、「あと数日だけ我慢」は、あの二人と同じ屋根の下で過ごす残り時間のことだ。
それと、ツネもヒロも姉さんは美人だと言っていたけど、僕にとってはただの家族でしかない。
残った、たった一人の家族だ。
あの日から、どうやってここまで来たのか。
最初は、夕食のときだった。僕の話をされても、何か聞かれても、全部聞こえないふりをしていた。そのうち父は「話す気がないなら同じ食卓で食うな」と言い、母にも僕の分を作るなと命じた。それからは、夕食の時間に家へ戻らなくなり、自分で貯めていた金で済ませた。
次は、ある日帰宅すると玄関がわざと内側から施錠されていた。でも予想していたから、その場で鍵屋を呼んで開けてもらった。それが何度か続き、一か月ほどで父はそんなやり方もやめた。
最後は、父が完全に堪えきれなくなったあの日だ。いつものように僕がそのまま二階へ上がろうとすると、父は僕の手首をつかみ、延々と説教を始めた。僕に聞く気も返す気もないとわかると、壁に突き飛ばし、胸ぐらをつかんで押しつけてきた。
もう小学生じゃない。あの頃の体格なら、やり返そうと思えばできたから、家庭内暴力ってほどでもない。むしろ男同士の喧嘩の前触れみたいなものだった。
でも、やり返さなかった。
あいつらの独善で負わされた傷に比べれば、そんな体の痛みは苦痛ですらなかったからだ。
父が拳を振り上げようとしたのを止めたのは、母の声だった。そのあとは二人の口論になった。僕は結果を待たずに二階へ上がった。どうせ僕には関係なかった。
あれが、僕に説教しようとした最後だった。あいつらが欲しかったのは「対話」じゃない。自分たちは間違っていないと思っていた。
要するに僕は、父と殴り合うことすら拒み、あいつらとのやり取りそのものを断った。空気みたいにこの家で暮らし、今に至る。
たぶん、その後あいつらが何も言わなくなったのは、僕の模試の順位がずっと校内一位だったからでもある。そう、僕は恨んでいても勉強は捨てなかった。むしろ、それで最低限の牽制にしていた。
つまり、もしあいつらがまた何か言うなら、あいつらが大事だと思っているもの、僕にとって一番大事だと決めつけているものを、僕は全部壊して、投げ出せるということだ。
けれど表向き、あいつらの望む通りに動き、課された項目を一つずつこなしてきた。今さら、もうあいつらに僕を止める理由はない。それでも心に残った傷も、そこから生まれた憎しみも、消えない。受験を終え、あいつらの望んだ結果を出したからといって、僕が夢を追っていた道に戻ることもない。なぜなら……
全部、お前たちのせいだ。羽冬日茂。羽冬澄花。
4
――4月1日 午前・羽冬 悠月――
「ヨル!」
隣の部屋のドアを開けても、そこには誰もいなかった。
やっぱり、先に出てたんだ。
朝起きてスマホに入っていたメッセージを見た瞬間、私はベッドから飛び起きた。スリッパもろくに履かないまま、よろけながら確かめに来たけど、もう遅かった。
「姉さん 先に出る またあとで」
最後まで、あの子はパパとママとちゃんと話せなかったんだよね。
どうしてこんなふうになっちゃったんだろう。両方とも私には今まで通りなのに。
間に挟まれるのって本当にしんどい。だから、引っ越しのは、私にとっても一種の解放かもしれない。だって、私はお姉ちゃんでしょう?どっちかを選ぶなら、やっぱりいつも問題ばかり起こす羽冬夜良の面倒を見るしかない。
「悠月、起きたのね。」
階段を下りると、ママのやさしい声が聞こえた。
「おはよう、ママ。ヨルは先に出たみたい。」
そう言いながらソファに座る。
「ヨル」の名前を聞いたお母さんの目元が、ほんの少しだけ引きつった。。
「わかった。」
やっぱり、自分から触れるより、向こうが聞いてくるのを待ったほうがいいんだろうな。
あああああああ、もう!本当に面倒くさい!なんで十八になったばかりの超絶美少女な私が、こんなことに付き合わなきゃいけないのよ!もう知らない、私は私でやる!!
「パパ、荷物運ぶの手伝ってくれる?」
さっき通り過ぎた部屋のドアが開く音がしたから、私はわざとパパにも聞こえるように、甘えた声でママに聞いた。
「頼んでみたら?」
話題が変わったからか、ママもさっきの穏やかな笑顔に戻った。
私が声をかける前に、パパは足音を立てて二階――私とヨルの部屋がある階へ上がっていった。
今日こそ、わがまま娘でいられる最後の日なんだから!サボろうなんて思わないでよね!
……うう、なんで急に鼻の奥がつんとするの。別にお嫁に行くわけじゃない!ただ、手のかかる弟の面倒を見るために出ていくだけなんだから!
パパの車で神奈川区から港北区まで走ること三十分。アパートに着くと、入口で待っているヨルが見えた。
……うわ。気まず。
大丈夫、羽冬悠月。今日で最後。パパとママさえいなければ、弟もあなたに嫌な顔はしない。みんな余計なことをしなければ、ちゃんと元に戻れる。
それでも、私は信じてる。同じ血が流れているんだから、いつかはわかり合えるって。だからその日までは、私もできる限り、大人の役目をちゃんと果たさなきゃいけない。
だって、私たちは家族なんだから。
――4月1日 午前・羽冬 夜良――
「いい人だったな。」
大家さんとの話が一通り終わったあと、父がそう言った。
「でしょ~?前にも言ったじゃん。急に二人部屋にしたいって言っても、全然文句言わなかったんだから~」
姉さんが得意げに返す。はいはい、今の嫌味は聞かなかったことにしておく。
「部屋の日当たりも間取りも気に入ったわ。悠月も本当に大きくなったのね。」
母のその一言で、姉さんは急に目を赤くした。
「な、なんで急にそんなこと言うのよ……ヨルが家を出るって言わなかったら……私だって、まだ……迷ってたのに……うわああぁ……」
化粧を崩しながら、姉さんは母の肩にもたれて泣き出した。
ああ、無理やり引っ越させたみたいになってたのか。それは知らなかった。悪かったな。
「いい子ね、いつでも帰ってきていいのよ。」
母がそう言っても、姉さんはしばらく泣きやまなかった。
その間に父は無言で僕の横を通り過ぎ、車のほうへ向かっていった。最後まで、一度もこちらを見なかった。
上出来だ。これが僕とお前たちにふさわしい、赤の他人みたいな結末だ。
お前たちへの恨みは消えないし、こんな別れ際だからって、態度を変える気もない。家賃を自分の貯金で払うなら、お前たちも何も言えない。
姉さんが落ち着いてから、母もエンジンのかかった車に乗り込んだ。出る直前、母は窓を下ろした。
「姉ちゃん、あとは頼んだわね。」
「わかったよ。この自意識過剰なガキは、ちゃんと私が面倒見るから~気をつけてね。」
そう言って姉さんは、ただ黙って立っているだけで、「気をつけて」の一言すら言う気のない僕を、からかうような目で見た。
父の車が遠ざかっていくのを見送りながら、僕と姉さんの、支え合うような暮らしが始まった。
これは僕の物語だ。正確には、羽冬夜良と、その周りにいる人間たちが、高校生活の中で、正しい選択と間違った選択のあいだで揺れ続ける物語。ただそれを、すべてを失ったあとで生きる意味を探そうとしている一人の高校生である僕の視点から語るだけだ。
今の僕には、何が必要で、何を望んでいて、何を取り戻したいのかもまだわからない。できるのは、この国が未成年に用意した教育を、おとなしく受け入れることくらいだ。たぶん、彼女が言ったように、新しい場所で新しいつながりを作れば、何か答えが見つかるのかもしれない。
どうせ僕らは、強い社会性を持ちながら、一人では生きられない可笑な生き物だ。
こうして、僕の高校生活は幕を開けた。
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