第69話 四男は再びダンジョンを進む
中継拠点の外では、白い傷の熊が伏せている。
人が行き来しても立ち上がらず、顔だけをこちらへ向けていた。
警備の人たちも、もう熊がいること自体には慣れたらしい。
近くを通る時に少し距離を取るだけで、以前のように武器に手をかける者はいなかった。
大きな熊が拠点のそばにいる光景へ慣れてしまうのも、どうなのだろう。
熊の様子を横目に、僕たちは出発の準備を進めている。
グレン、ミロス、イリスは、普段の武器に加えて弓を持っていた。
まだ慣れた装備とは言えないのか、ミロスは弦の張りを何度も指で確かめている。
「弦に問題があるのか」
グレンが尋ねた。
「いや、ちょっと落ち着かないだけっす」
「気にしすぎるな。かえって外すぞ」
グレンはそう言って、自分の弓を背へ回した。
向こうでは、ラウガたちも準備を進めている。
僕たちが先に出発し、ラウガ、フィン、ミレアは少し遅れてダンジョンへ入る予定だ。
先行する僕たちが、進路にいる魔物を処理する。
強い魔物や異変があれば、無理に進まず、後ろから来る三人と合流する。
前回の反省をもとに考えた、二段構えの試行だった。
全員の顔を見ながら、もう一度確認する。
「一体だけなら、僕が前へ出ます。数が多い時や、正面から倒しにくい敵がいた場合は、その都度、対処を変えましょう」
「承知しました」
グレンが短く答えた。
僕が前へ出ることには、グレンもなかなか納得しなかった。
それでも、ラウガを交えて話し合い、最後は受け入れてくれた。
「では、行きましょう」
森へ続く道を進み始めて間もなく、後ろを振り返っていたバウルが口を開いた。
「熊も、来てます」
熊が身体を起こし、僕たちの後ろを歩いていた。
近づきすぎることはない。
けれど、立ち止まれば熊も止まり、歩き出せばまた動く。
「今日もついてくるんですね」
シリウスの声が、少し弾んだ。
「入口までならいいですが、中へ入ろうとするようなら、少し困りますね」
グレンは熊から目を離さないまま答えた。
ダンジョンの中は、森よりも魔力が濃い。
普通の獣が濃い魔力に長くさらされれば、魔獣化する可能性がある。
「熊が入口から中へ入ろうとしたら、一度戻りましょう」
「戻るのですか?」
シリウスが聞き返す。
「うん。入口から離れるように誘導できるか試します」
「それでも離れなければ?」
「その時は、ダンジョンへ入るのをやめます」
熊を気にしながら、中へ進むのは危険だ。
グレンがうなずいた。
「承知しました」
熊は僕たちの相談を気にする様子もなく、一定の距離を保って歩いている。
やがて、木々の間にダンジョンの入口が見えた。
僕たちは速度を落とす。
熊は、入口から少し離れたところで足を止めた。
こちらを見る。
けれど、それ以上は近づいてこない。
僕たちは熊の動きを警戒しながら、入口へ進んだ。
一人ずつ中へ入っても、熊はその場所から動かなかった。
理由は分からないが、ついてこなかったことに少しだけ安心した。
「行きます」
土と石でできた通路は、前回と変わらず淡い明るさを帯びていた。
空気には湿った土の匂いが混じり、身体の周りへまとわりつくような魔力の重さも変わらない。
僕が先頭に立つ。
少し後ろに、シリウスとイリス。
グレンとミロスは弓を手に、その後ろを進む。
リズ、ニコ、バウルは、後方と左右へ注意を向けていた。
「前、一つです」
バウルが声を落とした。
通路の先に、一体のゴブリンがいた。
こちらには、まだ気づいていない。
「僕が行きます」
刀の柄へ手を置き、前へ出る。
背後で、弓を構える小さな音がした。
僕は魔力を抑えたまま進む。
ゴブリンが顔を上げた瞬間、魔力を巡らせ、一気に距離を詰める。
相手が武器を振り上げきる前に、刀を振り抜いた。
刃が身体を斜めに走る。
その身体が崩れ始めるのを確認し、すぐに魔力を抑えた。
ほどけた跡には、魔石が残る。
戦いは、それだけで終わった。
さらに奥へ進む。
しばらくして、バウルの耳が動いた。
「前、複数います」
通路の先に、三体の魔物が見えた。
「グレン、ミロス。お願いします」
二人が弓を構える。
僕は少しだけ前へ出て、刀に手をかけたまま、二人の呼吸を待った。
弦が鳴る。
二本の矢が、通路を走った。
その直後、魔力を巡らせ、一気に距離を詰める。
グレンの矢が、一体の胸へ当たる。
ミロスの矢は、その横を抜けて壁へ刺さった。
矢が外れたのを見て、イリスとシリウスが、僕に続いて駆け出す。
残った二体の注意が、一瞬だけ矢へそれた。
その間に、一体を武器ごと斬り伏せる。
返した刀で、もう一体の身体を横から切り裂いた。
ミロスが壁へ刺さった矢を見て、口元を引きつらせる。
「ミロス、ちゃんと狙ってください」
イリスが真顔で言った。
「イリスなら当てられるんすか」
「……黙秘します」
わずかな間を置いて返された言葉に、ミロスが目を丸くした。
「そこは言い切ってほしいっすよ」
前回と同じ経路をたどって、そのまま探索を続けた。
一体なら、僕が倒す。
数が多い時は、援護を受けて対処する。
敵が現れるたびに、全員が魔力を強く巡らせることはなくなった。
やがて、通路の先が広くなった。
前回、ゴーレムと戦った広間だ。
崩れた岩と、壁に残った亀裂が目に入る。
あの時の揺れと、帰り道を埋めた魔物の気配が、一瞬だけ身体の奥へ戻ってきた。
広間の中にいたのは、二体のオーガだった。
グレンとミロスが弓を背へ回す。
グレンは剣と盾を構え、ミロスは剣を抜いた。
「二体を分けます。右は私とミロス。左はイリス、ユキア様、シリウス様で」
イリスが盾を構える。
二体のオーガがこちらへ気づき、低い声を上げた。
「あとは後方の警戒を」
ニコが弓を構え、バウルがリズの前へ立つ。
二体はそれぞれ武器を振り上げ、こちらへ向かってきた。
グレンが右の一体へ踏み込んだ。
振り下ろされた武器に、盾を斜めに合わせる。
武器は盾の表面を滑り、グレンの横で床を叩いた。
グレンはすぐに盾を戻し、オーガの正面を塞ぐ。
その側面へ回ったミロスが、剣を振り下ろした。
刃がオーガの脇腹へ食い込み、巨体がよろめく。
もう一撃。
ミロスの剣が肩口から入り、オーガが床へ崩れた。
左では、イリスがもう一体の正面に立っていた。
盾へ武器がぶつかり、イリスの身体がわずかに揺れる。
すぐに膝を沈め、それ以上は押し込ませない。
シリウスが横へ動き、火魔法を放つ。
炎がオーガの顔の前で弾けた。
オーガが炎を防ぐように腕を上げる。
その視線がシリウスへ向いた。
僕は側面を抜けて背後へ踏み込み、膝の裏へ刀を走らせた。
オーガの巨体が沈み、片膝をつく。
低くなった首元へ、返した刀を振り抜いた。
二体目のオーガも、ほどけていった。
広間に静けさが戻る。
グレンとイリスの呼吸は、大きく乱れていない。
シリウスも、すぐに周囲へ視線を戻していた。
前回この広間を越えた時より、まだ皆に余力がある。
「弓を使う形は、悪くなさそうだな」
グレンが静かに言った。
「俺は一本外しましたけどね」
「次は当てろ」
「はいはい。練習するっすよ」
広間の奥には、下へ続く階段があった。
「二層へ進みましょう」
グレンとイリスが、周囲を見た後でうなずいた。
「ただし、初めての場所です。より慎重に行きましょう」
僕たちは隊列を整え、階段へ向かった。
土と岩でできたダンジョンに、整った階段があるのは不思議だった。
人が作ったように見えるのに、誰が、何のために作ったのかは分からない。
階段を下りるにつれ、空気が少し重くなった気がした。
二層へ入ると、壁と天井に細い糸のようなものが付着しているのが見えた。
「蜘蛛、でしょうか」
ニコが上を見上げた。
「可能性はあります。上も見ながら進みましょう」
「ニコ。ここから先の道は、記録をお願いします」
「はい。分かりました」
僕たちは一層よりも歩みを遅くし、周囲を確かめながら進んだ。
「前に一体います」
バウルの声が飛んだ。
淡い光の中を、黒い影が動いていた。
脚を広げれば、一メートルほどになるツムギグモだ。
太い脚を岩肌へ張りつけ、壁から天井へ移っている。
「ミロス、弓で落としてください。僕は下で待ちます」
僕はその真下から外れ、落ちてきたところへ踏み込める位置で刀に手をかけた。
弦が鳴り、矢が天井へ走った。
矢は胴体の端へ当たる。
身体が大きく揺れ、岩肌へ張りついていた脚が外れた。
ツムギグモが脚をばたつかせながら落ちてくる。
その途中で、口元から白い糸が伸びた。
横へ避ける。
糸が床を打った直後、その身体も鈍い音を立てて落ちた。
身体を起こす前に距離を詰め、刀を胴体へ突き入れる。
ツムギグモの身体がほどけ、魔石が床へ転がった。
「上も見ないと危ないですね」
ニコが、天井と魔石を交互に見る。
「うん。でも、魔物自体は、それほど強くなさそうだね」
さらに進むと、通路が少し広くなった先で、複数の影が動いた。
今度はゴブリンだった。
一層で見たものより一回り大きく、先頭の一体が剣と盾を持ち、その後ろに弓を持った二体がいる。
後方の一体がこちらに気づき、弓を構えた。
イリスが盾で矢を防ぎながら、少しずつ距離を詰める。
十分に近づいたところで、シリウスの火魔法と、グレンとミロスの矢が同時に放たれた。
僕もそれに合わせ、イリスの横から飛び出す。
炎が先頭のゴブリンの体勢を崩し、二本の矢が後ろの二体へ突き刺さった。
陣形が乱れたところへ踏み込み、まだ立っているゴブリンを斬り伏せる。
その先で現れたのは、ロックビートルだった。
正面と背中を、厚い殻が覆っている。
近づこうとした瞬間、突進してきた。
横へ避ける。
僕のすぐ脇を抜け、そのまま後方へ走った。
「止めます!」
イリスが盾で受け止めた。
足が床を滑ったものの、突進は止まる。
シリウスが横から剣を振るったが、刃は殻に弾かれた。
すぐに距離を取り、今度は火魔法を放つ。
火が横腹へ当たると、ロックビートルは激しく暴れた。
身体が大きく傾き、殻に覆われていない腹側が見える。
すかさず踏み込み、その腹へ刀を深く突き刺した。
やがて脚が止まり、ロックビートルの身体がほどけていく。
「魔法が役に立っています」
シリウスが少し得意そうに言った。
「うん。練習の成果が出たね」
褒めると、シリウスは大きくうなずき、顔をほころばせた。
その時、バウルの耳が後ろへ向いた。
「誰か来ます」
「やあ、お待たせ」
来た道の先から、フィンの声が返ってくる。
やがて、ラウガ、フィン、ミレアが姿を見せた。
「追いついたな」
ラウガが僕たちの周囲を見回す。
「いやあ、何もせず歩いているだけだと、かえって疲れる気がするよ」
フィンが肩を回した。
「歩いただけで疲れるなら、冒険者を辞めろ」
「ラウガにしては、ずいぶん普通の返しだね。緊張してるのかい?」
「ぬかせ」
「な、何も起きない方がよいと思います」
ミレアが困ったように補う。
「この先は、皆さんを頼りにしています」
僕が言うと、フィンが笑った。
「任せておくれ。暇だった分まで働くよ」
僕たちは改めて隊列を整え、二層の奥へ進んだ。
途中で何度か魔物に遭遇したが、その都度、必要な者だけで手早く対処できた。
進むほど、壁や天井に付いた糸が増えていく。
最初は細い線だったものが、何本も重なり、足元や通路の左右へ伸びていた。
「奥に、大きいのがいます」
バウルが鼻を動かす。
「僕にも分かるよ。かなり大きそうだ」
通路の先は、広い場所へつながっている。
けれど、その中には蜘蛛の糸が張り巡らされていた。
床と壁を結ぶもの。
天井から斜めに下りるもの。
左右へ何重にも渡されたもの。
そのまま入れば、前衛が動ける場所はほとんどない。
「先に戦える場所が必要だな」
ラウガが張り巡らされた糸を見る。
「動ける範囲があればいい。焼いてくれ」
「はい」
ミレアの返事が、普段より短い。
ミレア、フィン、シリウスの三人が糸へ手を向けた。
放たれた火が、行く手を塞ぐ糸へ走る。
白い糸が縮れ、黒くなり、焼け落ちていく。
焦げた匂いと煙が広がった。
正面と左右へ動ける空間ができる。
その奥で、何かが動いた。
天井から、太い脚が一本ずつ下りてくる。
現れたのは、オオツムギグモだった。
脚を広げれば、三メートルをゆうに超える。
胴体にも脚にも厚みがあり、先ほど倒したツムギグモが小さく思える。
巨体が天井から地面へ降りた。




