第1話 魔力なし四男は静かに暮らしたい
貴族の朝というものは、もっと静かなものだと思っていた。
小鳥の声で目を覚まし、侍女がそっとカーテンを開ける。
そんな優雅な朝を、少しだけ想像していた時期が僕にもある。
けれど、実際の屋敷の朝は、なかなか忙しい。
硬い床を打つ足音。
水差しが触れ合う、小さな澄んだ音。
扉が開き、また閉じる音。
遠くで誰かを呼ぶ、控えめな声。
その音で目を覚ました僕は、薄い掛け布をどけて、ゆっくり身体を起こした。
窓の外は、まだ淡く白んでいる程度だ。もう少し寝台の中にいたい時間である。
僕の名前はユキア。
アルドリア王国の地方貴族、ヴァンハルト家の四男だ。
年は六つ。
ただし、この家での扱いは、四男という立場以上に微妙だった。
僕はこの家で、魔力なしの四男と見られている。
魔力、というからには当然、この世界には魔法がある。
前世の僕なら、物語の中だけのものだと思っていた力だ。
この世界では、魔力は魔法を使うためだけのものではないらしい。
走る、物を持つ、姿勢を保つ。そういう普通の動きにも、魔力は大きく関わっている。
だから、魔力が弱い子は身体も弱い。
少なくとも、周囲はそう考えている。
しかし、僕自身には、そこまで身体が弱いという実感はなかった。
それでも、魔力が生活の前提になっているこの世界では、「魔力が少ない」と見られるだけで、かなり困った立場になるらしい。
心配する人もいれば、扱いに困る人もいる。中には、からかう人もいた。
ただ、僕自身はそれを、完全な絶望としては受け止めていなかった。
理由は、ひとつだけある。
僕には、この世界とは別の場所で生きていた記憶がある。
石造りの屋敷ではなく、もっと背の高い建物が並ぶ場所。
魔法ではなく、機械や電気で動く道具に囲まれた暮らし。
そして、直哉という名前で生きていた、別の人生の記憶。
ずっと昔のようで、ほんの少し前のようでもある記憶。
その終わりに、僕はぼんやりとした声を聞いた。
――少し、身体と、この世界の力が噛み合うまで時間がかかるかもしれない。
その声が誰のものだったのか、今でもはっきりとは分からない。
夢だったのかもしれないし、死に際の幻だったのかもしれない。
それでも、あの言葉だけは妙に残っていた。
だから、僕は思う。
もしかすると、自分には何かがないのではなく、まだ何かが噛み合っていないだけなのかもしれない、と。
……まあ、その何かが分からないから困っているのだけれど。
寝台から足を下ろすと、床の冷たさが足裏に伝わった。
六歳の身体は軽い。ただ、思ったように動くかと聞かれれば、まだ頼りない。
前の人生で、僕は身体を思い通りに動かせる方ではなかった。
走ること。跳ぶこと。転ばずに歩くこと。
誰かにとっては何でもない動きが、僕には少しだけ遠いものに見えていた。
この世界で生まれ直してからも、その感覚だけは消えていない。
だから僕は、魔力のことと同じくらい、自分の身体を自分で動かすことを気にしていた。
ちょうどその時、扉の外で控えめなノックが鳴った。
「ユキア様、お目覚めでございますか」
「はい。起きています」
扉が静かに開き、年配の侍女エミリアが入ってきた。
エミリアは子ども部屋の周辺を見てくれることの多い侍女で、僕に対しても柔らかい。
専属というわけではないけれど、手が空いた時にはこうして支度を手伝ってくれる。
「おはようございます、ユキア様」
「おはよう、エミリア」
「朝はまだ冷えますから、もう一枚お召しくださいませ」
そう言って、エミリアは用意していた上着を僕の肩にかけた。
厚手ではないが、肌触りのよい布だった。
「ありがとう」
そう答えると、エミリアは小さく微笑んだ。
それは、子どもを心配する大人の顔だった。
ただ、僕には分かっている。
その心配は、ただ寒さだけに向けられたものではない。
実際、僕は自分が特別丈夫だと思っているわけではない。六歳児だ。転べば痛いし、寒ければ鼻も出る。
けれど、動けないほど弱いかと言えば、そうでもない。
そのあたりをどう説明すればいいのか、僕にもまだ分からなかった。
支度を終え、エミリアに礼を言って部屋を出る。
廊下には、朝の屋敷を動かす人の流れがあった。
侍女が布を抱えて歩き、従者が書類らしき束を運び、下働きの少年が水の入った小さな桶を両手で持って急いでいる。
僕は邪魔にならないよう、自然に端へ寄った。
「す、すみません、ユキア様」
近くを通りかかった従者見習いのニコが、僕に気づいて慌てて頭を下げた。
腕に、折りたたまれた布と小さな木箱を抱えている。
「おはよう、ニコ。急がなくて大丈夫だよ」
「おはようございます。あの、すぐ片付けますので」
「うん。でも、落とさないようにね」
「はいっ」
ニコはわずかに肩の力を抜いて、また廊下を進んでいった。
以前は、僕が声をかけるだけで、背筋をぴんと伸ばして固まっていた。
こっちは六歳の子どもなのだから、もう少し気楽にしてくれてもいいと思う。
けれど、この屋敷ではそうもいかないらしい。
僕が四男で、しかも期待されていない子どもであっても、ニコにとっては仕える家の子息なのだ。
「ユキア様」
落ち着いた声がして、僕は顔を上げた。
廊下の先に、執事のオズワルドが立っていた。背筋の伸びた、感情の読みにくい人である。
「おはようございます、オズワルド」
「おはようございます。朝食のご用意は整っております。皆様も間もなくお揃いになるかと」
「分かりました」
オズワルドは丁寧に一礼した。
僕にも礼は尽くす。けれど、その礼にはきちんと距離がある。
この人は、ヴァンハルト家という器を管理している。
僕個人に冷たいわけではない。ただ、屋敷の順番の中で、僕の優先度はそれほど高くない。
そういうことが、子どもでも分かるくらいには、この家の空気は整っていた。
その中で僕は、できるだけ静かに暮らしていきたかった。




