03 耳元の一言
二 耳元の一言
二〇一〇年一月。
コンドリーザ・ライスは、スタンフォードの自室で目を開けた。
机には昨夜のまま書類が積まれていた。窓の外では散水装置が芝を濡らしている。時計も電話も正常だった。
ニュースを開いた。
リビアはまだ一つだった。
ベンガジの市場は開いている。トリポリの空港も動いている。
カダフィーは生きていた。
白い国の証拠は何もない。
数日後、リビア側の非公式な連絡経路へ短い伝言を送った。
《二〇〇八年の夕食について、続きを話したい》
返事は早かった。
《夕食の献立を覚えているか》
《あなたよりは》
ライスは画面を見て笑った。
それで十分だった。
会談は、表向きには米国とリビアの正常化について意見を交換する民間会合として組まれた。ライスは元国務長官で、スタンフォード大学教授。カダフィーはアフリカ連合議長の任期を終えるところだった。
場所はローマになった。
会議室には双方の外交官、警備担当者、通訳が並んだ。石油、航空路、学生交流、装備品の保守、アフリカへの投資。話すことはいくらでもあった。
白い国の話だけはしなかった。
会談が終わり、記念撮影になった。
カダフィーは濃い褐色の長衣に細い金糸の縁取りを入れ、肩へ砂色の布を掛けていた。ライスは黒いスーツだった。
握手をした。
ライスは手を離さなかった。
半歩だけ近づく。
写真の構図を整えるために寄ったようにしか見えない距離で、彼女はカダフィーの耳元へ口を寄せた。
「私と一緒にフロリダへ来ない?」
カダフィーは動かなかった。
シャッターの音が続く。
「亡命しろと言うのか」
「亡命ではないわ。あなたはリビアの指導者のまま」
「なら、なぜ行く」
「来年、あなたがリビアにいると、多くの人が死ぬ」
「私がいなければ反乱が起きる」
「あなたがいるから、全員があなたを殺すために集まる」
別のカメラが光った。
「ハワイではないのか」
ライスは思わず彼を見た。
「考えたわ」
「なぜやめた」
「アフリカとヨーロッパから遠すぎる。あなたが海を眺めているうちに、リビアが別の国になる」
「フロリダにも海はある」
「ワシントンから離れている。空港もある。暖かい。土地も広い。リビアとの往来もできる」
「CIAもいる」
「どこにでもいるでしょう」
カダフィーは正面のカメラを見たまま言った。
「君は、フロリダへ来い、ではなく、私と一緒に来いと言った」
「英語の細部にこだわるのね」
「外交では一語で国境が動く」
「今回はあなたを動かすの」
撮影が終わった。
二人は手を離した。
翌日の会談で、リビア側から奇妙な提案が出た。
米国との関係正常化を象徴するため、カダフィーが米国内に長期滞在施設を置く。リビアの統治は複数承認制へ移し、本人は必要時に帰国する。米国政府は身辺の安全を確保し、通信の手続きを公開する。
外交官たちは、誰が最初に思いついたのか分からない顔で、法的な名称を考え始めた。
リビア国内では、カダフィーが米国を取り込んだと説明された。
米国では、米政府の監視下へカダフィーを置いたと説明された。
両方とも、半分くらいは正しかった。
会談の最後に、カダフィーがライスへ言った。
「一度だけ従った」
「まだフロリダへ着いていないわ」
「次は何だ」
「ワニに近づかないこと」
「それが国家政策か」
「家庭内規則になるかもしれない」
カダフィーは一瞬、返事を忘れた。
それを見て、ライスは少しだけ満足した。




