プロローグ
二十三時過ぎ。
『夜景っていうのは残業で出来ている』とは誰が言ったか。
窓の向こうに並ぶ高層ビルには、こんな時間だというのに明かりがいくつも灯っている。
隣のビルを見れば、中では今日も誰かが歩いている様子が見えた。
毎日本当にご苦労なことだ。
こんな時間まで働いている私も、人のことは全く言えないが。
自販機でコーヒーを買うと、コミュニティーエリアの一角に腰を下ろした。
蓋を開けて一口飲む。苦みと一緒に、もう全く効果がないだろうカフェインが体へ染み渡っていくような気がした。
こんな生活はもう慣れっこだと言いたいが、四十過ぎのおじさんにはキツい。
二十代には平気で出来ていたことも、三十代後半から少しずつ苦しくなってきた。
四十を過ぎた今では、もう地獄だ。
この体は定年までもつだろうか。
転職するにしても、いい加減厳しい年齢になってきている。
それに何だかんだ言いながら、愛着のある今の仕事はできるだけ長く続けたいとも考えている。
憂鬱な気持ちになって大きなため息をつくと、デスクから持ってきたファイルの中身をテーブルへ広げた。
『ネームレスオンライン
新商品
仕様書』
そこには文字と画像が隙間なく並んでいる。
『ネームレスオンライン』とは、サービス開始から二十年以上続いている海外産の超大人気オンラインゲームだ。
……すまん、見栄を張った。
超大人気だったオンラインゲームだ。
サービス開始当初、オンラインゲームといえばリアル志向のグラフィックを採用した作品が多かった。
そんな中でネームレスオンラインは、ポップな見た目のキャラクターやモンスターを前面に押し出したことで大きな反響を呼び、一躍時代を代表するゲームとなった。
内容としては、名前の無い冒険者が『ネームドモンスター』を倒し、名声を上げていく物語になっている。
もっとも二十年以上も続けば魔王も神も倒し終わって、もう上がる名声もないだろってところまで来ているが。
それでも開発元はあの手この手で新しい敵や土地を作り、今もストーリーを続けている。
そんな海外の開発元が作ったゲームを、うちの国で運営する権利を持っているのが私の勤める会社だ。
私も長年このゲームに携わり、デバッグやイベント、アイテム関連など色々な仕事を経験してきた。
そして現在の仕事は、海外から送られてくる仕様を確認しながら国内向けに調整するローカライズ業務。
一般的には『運営』と呼ばれる存在である。
そんな運営が、どうしてこんな時間まで仕事をしているのか。
理由は簡単。ゲーム会社の業務とは、ユーザーが思っている以上に忙しいのだ。
特にオンラインゲームなんて、積み重なったゲームデータは膨大なくせに、現代では下火になりつつあるジャンルだ。
ユーザー数は全盛期から減っている。
それなのに開発費だけは異常にかかる。
二十年物のヴィンテージコードともなれば、一つの調整が五つのバグを生むことだって珍しくない。
保守するだけでも一苦労。
当然、お金だってかかる。
そうなれば『課金圧』も高まっていく。
ゲームがつまらなければお金は払ってもらえない。
面白くするためには開発コストがかかる。
コストがかかるから新しい商品を追加する。
そこにまたコストがかかる。延々と続く循環だ。
ユーザーから『こんなのすぐ実装できるだろ』と言われるような商品追加ですら、実際にはそう簡単な話じゃない。
開発元や各部署の偉い人から承認をもらい、ストアへの登録作業を進め、ゲーム内へ実装して、最後にはデバッグまで行う。
それら全ての工程を、通常の運営業務と並行しながら効率よくこなさなければならないのだ。
それなのに、長年ゲームを支えてきた仕様に明るい人材は転職したり、別のチームへ移ったりして少しずつ減っていく。
今の若い子たちが、二十年以上前にサービスを開始したネームレスオンラインを昔からプレイしているはずもない。
新しく人が入ったからといって、二十年分の知識をすぐに引き継げるわけでもない。
空いた穴は完全には埋まらないまま、残った現場へしわ寄せがやってくる。
――こんな環境に心も体も限界まで来てしまっている。
もう自分を支えているのは、『ネームレスオンラインが好き』という気持ちだけだ。
溜息交じりに仕様書を閉じる。
残っていたコーヒーを飲み干して席を立った。
そろそろ仕事に戻らなくては。
空き容器をコミュニティーエリアのゴミ箱へ捨て、デスクまで戻っていく。
「……ん?」
何だろう。さっき立ち上がった時から、どうにも調子が悪い。
体が重くて頭もぼんやりする。
熱でもあるのだろうか?
今週の土日こそはゆっくり――。
不意に全身から力が抜けた。
「えっ?」
視界が揺れて意識が急速に遠のいていく。
そのまま体勢を維持することができず、私は床へ倒れ込んだ。
バタンと大きな音が響く。
「〇〇さん!?」
「救急車!!」
遠くで誰かが叫んでいる。
声は聞こえているはずなのに、どんどん遠ざかっていくように感じた。
体が動かない。目を開けているのか閉じているのかも分からない。
ああ、死ぬのだろうか。
ふふ、まるで仕事で読み漁った異世界転生物の導入みたいだ。
もし本当に異世界転生なんてものがあるのなら。
私も『ネームレスオンライン』の世界で、自由に――。
そこで思考が途切れる。
そのまま私の意識は、ゆっくりと薄れていった。




