17話 退院、日常へ
退院の日。
荷物は少なかった。
ノートが一冊増えていた。
計算で埋まったノート。
「また来てくださいね」
看護師が笑う。
「……ありがとうございました」
自分の声が久しぶりだった。
外に出た。
空がある。
T(空)がある。
でも空はそこにある。
バスに乗った。
窓の外を見た。
T(景色)が流れていく。
それでも流れていく。
家に帰った。
いつもの部屋。
少し埃が積もっていた。
窓を開けた。
風が入った。
T(風)が入った。
それでも風だった。
ある日ノートを見返した。
計算で埋まったページ。
T(x)≠x
T(x)≠x
T(x)≠x
ゲーデルは言った。
十分に強い体系は自分自身の無矛盾性を証明できない。
不完全性定理。
A₁理論も同じだ。
A₁理論はA₁理論自身を証明できない。
A₁理論を証明しようとした瞬間。
その証明はT(証明)になる。
本来の証明には届かない。
だから8話で崩壊した。
証明しようとしたから崩壊した。
ゲーデルはそれを知っていた。
証明できない命題が存在する。
それは体系の欠陥ではない。
体系が十分に強いことの証拠だ。
A₁理論が自己崩壊したのは。
理論が間違っていたからではない。
理論が十分に強かったからだ。
ノートを閉じた。
散歩に出た。
ベルクソンは言った。
時間は計測できない。
計測した瞬間に本来の時間ではなくなる。
持続(durée)。
生きられる時間は計測される時間ではない。
T(時間)ではなく時間そのものの中にいる。
道を歩いた。
一歩。
また一歩。
計測しなかった。
ただ歩いた。
風が吹いた。
計測しなかった。
ただ感じた。
xに届かなくていい。
T(x)の中で生きることが。
持続することだ。
ベルクソンはそう言っていた気がした。
家に帰った。
お茶を飲んだ。
T(お茶)を飲んだ。
温かかった。
龍樹は言った。
全ての存在は固有の実体を持たない。
空。
xは空だ。
T(x)も空だ。
全てが空だ。
しかし空は無ではない。
空だからこそ。
関係が生じる。
変化が生じる。
T(x)が生じる。
xが空だから。
T(x)が現れる。
T(x)が現れるから。
世界が動く。
窓の外を見た。
雲が動いている。
xとしての雲は空だ。
しかしT(雲)は動いている。
それでいい。
T(x)の中で生きることは。
空の中で生きることだ。
空だから生きられる。
静かだった。




