第20話 記憶④
気がつけば、俺は青い扉の前でぼんやりと立っていた。
青いというよりも、藍色とでも言えばいいのだろうか。
その扉には引っ掻いたような傷が無数についており、中でもひときわ大きな爪痕のようなものが真ん中に鎮座していた。
水の底でかなり長く放置されていたのか、青い扉はところどころ塗装が剥げており、木製ゆえに腐っている。やがて上から差し込む日光のような光源によって、俺はここが水面が見える程度の海底にいるのだと分かった。
だが、海の中はどこか見通しが悪く、美しさと不気味さを孕んでいた。
下には白い砂が一面に敷かれており、それはすぐにサンゴの死骸が細かく砕かれて砂になったものだと分かった。なぜ、反射的に漂白地帯の白砂ではないと思ったのかは分からない。見た目はほとんど変わらないはずなのに、なぜ俺はこれが天然の砂だと直感したのだろうか。
そもそも、海が青いなんてことは滅多にないはず。
東京湾はコンビナートの重油と工業廃水によって黒く汚され、それはついぞ俺がコールドスリープするまで改善することはなかった。それは全世界規模でも言えることで、両手に数えるほどのリゾート地を除いてほとんどが赤潮まみれになっていたはず。
俺はそんなことを考えながらも、まるで魂や精神体が剥き出しのまま放置されたようにして、意識がハッキリとしない状態のまま立ち尽くしていた。だが、俺は写真以外で青い海など見たことがなかったが、これが本来あるべき姿なのだと理解した。
夢の世界だからなのかは知らないが、妙に境界線があいまいな感じがする。自分の体の境界線、世界の果ての境界線。すべてが曖昧にぼやけている。俺はそんな光景をひとしきり眺めたあと、もう一度、周囲の水色よりも濃い青色で塗装された扉へと視線を向けた。
扉には何か古代文明の象形文字のようなものが描かれている。文字の一部は経年劣化で欠けており、そもそもが宇宙人が描いたような奇妙な文字だったが、それはどことなく自分を拒否しているような感じがした。
『開けるな』『なぜ、ここに来た』『こっちに来るな』そんなニュアンスの文字であることを、俺は見たことも聞いたこともない言語のはずなのに、なぜかスルリと理解することができた。だが――
『…………』
俺は眉ひとつ動かすことなく、酩酊した者のようにしてふらりふらりと数歩足を進めると、扉の取っ手に手をつけた。水流のようなものが背中を押し、誰かに操られるようにしてそのまま扉を開け放とうとする。
そのとき、扉のわずかに開いたスキマから誰かの泣き声が聞こえてきた。
それを聞いた瞬間、心臓がドクンと大きく跳ねる。
思い出したかのように肺に水が入り、窒息するような息苦しさが訪れる。
それはやがて、誰かの赤ん坊の声だということに気がついた。
まるで幼少期の自分が泣き叫んでいるような声。海中にもかかわらず、赤ん坊の泣き声は扉のスキマからよく聞こえてきた。鼓膜に水が入っていることによる音の聞こえづらさはない。それをあやす者はいない。声をかける者もいないらしい。
俺はふと、自分の左手が扉のドアノブにかかっていることに気がついた。
意識してのことではない。それどころか、この空間において俺の左手だけは完全に自分の意思から切り離されているように感じた。まるで操り人形のようにして、自分の左手だけが勝手にドアノブをひねっていき、そして――
『…………っ』
その瞬間、誰かが向こう側から『バタン!』と扉をすさまじい勢いで閉じるのだった。
水中ではなく空気がある状態での効果音と、扉が乱雑に閉ざされたことで生じた小さな気泡。そんなチグハグな光景に頭がすこし混乱する。変化はそれだけではなかった。
周囲の景色がいっきに暗くなる。
さっきまで真昼間だったのが、夕暮れ、深夜と時間を早送りしたような明暗の変化。あっという間に周囲は薄暗くなり、わずかに月光が射し込んでいるだけとなった。
ふいに、その扉の奥にある海溝のようなものに目がいった。
何かの穴、なのだろうか。
それは海水すべてを飲み干そうとする化け物がパカリと口を開けているような大穴に、俺はすこし扉の向こう側を覗き込もうとした。直後、なぜか海底の白砂を踏んでいたはずの足が浮き、体が上へとあがっていく。
体がぷかぷかと浮かびあがっていく。
体内でガスが溜まり、風船のように水面へと浮上する水死体のように、俺はしだいに眼下へと消えていく青い扉を眺めることしかできなかった。
視界が眩い光で覆われていく――。




