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 握り締めた母の手は、とても冷たかった。


 縋るような思いで振り返る。

 涙で歪む視界の中、見下ろす父と交わした視線は無言で逸らされた。その背後で──紅い唇が三日月みたいに弧を描き、嘲り嗤う。


 自分の中の何かが音を立てて崩れ、砕け散っていく。

 真っ黒な闇に、心が塗り潰されそうだった。




「薬をすり潰すの、もうそれくらいでいいんじゃないですか? ジェイク様」


 自分の名を呼ぶ声にがっかりした。

 思い出したかったのは、こんな底抜けに明るい声じゃない。


 ジェイクは、窓の外で逆さにぶら下がっている部下をちらりと見た。


「……フェルドか。お前、いつからそこにいた?」

「もうかれこれ十分くらい経ちますよ。その薬、魔法で粉にしたほうが早くないですか?」

「これはクラリスのための薬だ。だから夫の僕が心を込めて丁寧にすり潰している。看病とは、本来そういうものだろう?」

「夫⁉︎ け、結婚したんですか? ジェイク様。いつの間に……」

「いや、まだ婚約だがじきに結婚する。──今、魔法を解除するから、もう少しそうしていろ」


 すり鉢の薬を紙に移し、きちんと封をしてから窓枠に手を翳す。

 このシュバルツア城の窓という窓にはすべて、何重もの魔法障壁が張られている。外敵の侵入を一切許さない、鉄壁の守りだ。

 もっとも──家出する妻に対しては全くの無意味だったが。


(まさかあのクラリスが、二階から出て行くとは思わなかった)


 何もない所で躓くくらい、運動音痴なはずなのに。

 そうまでして逃げるほど、幼稚な自分が嫌だったのか。ショックを受けつつ、また彼女の新しい一面を知ることが出来た、と浮かれてしまう。


(僕は狂ってるのかもしれない)


 自嘲しながら魔法障壁を解除する。──そんなのは、とっくに分かりきってる事なのに。

 水差しと薬をトレイにのせると、冷徹な黒の聖騎士の顔に戻り、キッチンに入って来た部下と向き合う。


「ブランフォード公爵は無事、家に送り届けてきました。あと念のため、数人の隊員に屋敷の周囲を見張らせています」

「報告書は王城に提出してきたのか?」

「はい、さっき。……ところで城を出た時、汚物まみれの女性とミカエル様が噴水に落っこちて来たのを目撃しちゃったんですけど、その報告書も作成したほうがいいですか?」


 フェルドが少々気まずげに、見たものを何でも記録してしまう自身の『結印の瞳』を指差しながら言う。

 そういえば情報収集だけでなく、事件や事故を目撃したら欠かさず報告しろ、と言ってあったっけ。

 誰もが目をそむけるような光景だっただろうに。見なかった事にはせず、きちんと報告してくるとは……相変わらず律儀な男だ。


「その件はお前に任せる。好きにしろ」

「それじゃ一応、簡単にまとめたものを出しておきます。おふたりに聴取をお願いしても大丈夫ですかね?」

「怪我はしてなかったのか?」

「え、ええまあ。駆け付けた医官も大笑いしてましたし。ただ全身ドロッドロで、無事とは言えない状況でしたけど」


 五分間は何とか生き残れたか。だが魔獣の親たちからそれなりの報復は受けたようだし、これで少しは反省するだろう。

 しかし──なんだか、まだ胸の中がもやもやする。

 さっきミカエルに、グリームの話をしたあたりからずっとだ。


(やっぱり、十分にしておけば良かったかな)


 無意識にぽつりと呟く。


「いや、十分はいくらなんでもやり過ぎですって。それに、薬の量も少し多くないですか?」

「それは別に薬の事じゃ──お、おい、何するんだフェルド!」


 トレイを漁り始めた部下を慌てて止めに入るも、時すでに遅し。


「もう開けちゃいました。……あーあ、やっぱり。これ、必要量の二倍くらいありますよ」

「だ、だって、クラリスがすごく痛そうにしてたし……多めにしたほうが効くかと思って」

「体に負担がかかるからダメです。特に頭痛薬は強い薬なんで、何か腹に入れてから飲まないと……リンゴかなんかありませんか?」


 フェルドはさっさとマントを脱ぎ捨て、掛けてあった花柄エプロンを取ると、手慣れた様子で身に付けた。リボンも後ろ手できちんと結んでいる。

 呆然とするジェイクを尻目に、ちょうどやって来たフェンからリンゴの在処を聞き出す。さすがは優秀な情報機関員、やることが素早い。──というのは、関係あるのだろうか?

 剣を果物ナイフに持ち替えた部下の、手捌きが半端ない。

 テキパキと八つに切り分け、皮をウサギの耳に見立てて飾り切りされたリンゴが、次々と皿に並べられていく。


「「じー」」


 いつの間にかキッチンに入って来た双子の侍女も、興味津々な様子でフェルドの手元を覗き込む。

 この侍女たち、黒髪ツインテールの可愛らしい少女の見た目ではあるが、正体は古いビスクドール。

 なので──基本的に、まばたきはしない。


「「じーーーーっ」」

「な、なんかやり辛いですね。こう……思いっ切り凝視されちゃうと」

「ごめんなさい。(われ)があとでちゃんと教育しておきます」


 出してきたフォークを手に、執事兼世話係のフェンがぺこりと頭を下げる。だが、「いえいえ」と恐縮するフェルドが、出っぱなしの魔狼のしっぽに注目している事には、どうやら気付いてないらしい。


(……こいつにも、人型維持のための再教育が必要だな)


 この森にしょっちゅう出入りし、魔獣にも慣れているフェルドだから良かったものの、他の客なら卒倒しているところだ。

 ため息をつきつつ、ジェイクは皿のリンゴをつまみ上げた。──ピンと立った耳の切り口が美しい、見事なウサギさんである。


「素晴らしい腕だな。王城のコックに欲しい」

「妹によくやらされるんで、慣れてるだけです。──部隊をクビにしないでくださいよ。ジェイク様」

「冗談だ。今お前に抜けられては、僕のほうが困る」


 それは本音だった。だが口を突いて出た言葉に、自分自身で驚く。

 『困る』? 困るって──誰がだ?


 滅多な事で崩れはしない鉄面皮に、はっきりと動揺の色が浮かぶ。皿をトレイにのせるため、フェルドが目を逸らしてくれたのに、心底ホッとした。

 自分も疲れてるのかもしれない。甘そうなリンゴのウサギをひと口かじり、糖分を補給しておく。


「ははは、分かってますって。──サーヴェの同盟国であるグレイシア公国の密林の件、噂が本当かどうかきっちり調べてまいります」

「頼んだぞ。神殿に祀ってある黒竜の卵に、ヒビが見つかったと言うのが本当の話であれば、捨て置けん」


 二年前の対戦でジェイクが全滅させた竜騎兵は、すべて魔力の弱い青竜。──ようするに、雑魚である。

 現在把握できているサーヴェ帝国が子飼いにしている竜は青竜と、それより多少魔力の強い赤竜。しかし赤竜は生む卵の数が少ない上、寿命も短いため、その頭数は十に満たない。全滅させた青竜などは、巣に残っていた卵がなんとか孵ったものの、戦闘用としてはまだまだ使えない。よちよち歩きの子竜ばかりだ。

 神聖域結界が上空から国を加護し、王太子であるジェイクを総督とした聖騎士団と部隊が地上を護る、ディアルクト王国の敵ではない。


 だがもしも──千年に一度生まれるという伝説の黒竜が孵ったとなれば、話がだいぶ違ってくる。


「バルドル神の加護を受けた聖騎士の剣ですら斬れぬ硬い鱗と爪を持つ、神の化身とまで言われる邪竜だ。奴の吐き出す黒炎は、神聖域結界をも凌駕するかもしれない」

「そ、そんな恐ろしい竜がいるんですか?」


 足の間から出したしっぽを抱きしめ、フェンがブルブルと震える。

 もはや隠す気ないだろう。さすがに拳を固めたが、話に乗っかったフェルドに遮られる。


「そう。まあ、俺も実物を見た事はないんだけどね。伝説によると、その鱗は黒曜石のように美しく、獰猛な金眼には千里を見通す魔力があるとか。それから……ええっと。とにかく、馬鹿デカいらしい」

「で、でで、デカい……!」

「そうそう。誇張だろうけど、城くらいデカいらしくて──って、大丈夫? 顔、真っ青だけど」


 腰を抜かしたフェンを気遣い、フェルドが手を差し伸べる。

 が、見開いた目は一点を見つめたきりで動かない。ガタガタと震えながら、首を傾げるフェルドの背後を指差す。


「ほ、本当です! 本当にデカい……! ジェッ、ジェイク様! 竜が──真っ赤な竜が、窓の外からこっちを睨んでます!!」

「──どけ、フェルド!」


 ジェイクが剣で窓ガラスを貫いた瞬間、深紅の竜が暴風を巻き起こしながら翼を広げ、その巨体にそぐわぬ速さで空へと飛び立っていった。

 その後ろ姿を窓から確認し──ジェイクの血の気が失せていく。


「……クラリス?」


 自分の一番聞きたい声が、空の彼方で聞こえた気がした。


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