EP.タオ
森の木々が、何かを気にしている。
しきりにお互いの感覚を渡し合い、その場所を確かめようとしているようだ。
根に感じる、地面を踏む圧力。
木の幹に触れる、温かい温度。
葉を引っ張り、裏を確かめる感触。
木々はただ眺めている。
何かを伝えたいのか、しきりに風を待っている。
流れ込んでくる木々の感覚を集めると、そこにいる人が想像できる。
タオは目の前の木に意識を合わせ、受け取っている感覚を辿る。
後ろ姿をうっすらと捉えると――その場所は、湖のほとりだった。
「……コーレン殿、いらっしゃったのですね」
クスの根元にしゃがんでいる背中に、声を向ける。
森の木々が一斉に乗ってくる。
彼らもこの人が好きなのだ。
「ああ、タオ殿か。失礼、またお邪魔しています」
振り返らず声だけを返すその人は、土の感触を確かめているようだ。
小瓶を取り出し、少し掘り起こした湿った土を、小瓶に半分ほど入れた。
この人の声は静かで、肩に注ぐように響く。
一つにまとめられた黒に近い髪は、彼の大きな背中の真ん中辺りだ。
立ち上がり振り向くと、彼は小さく会釈をした。
自分が思うより小柄な身体に、いつも違和感を覚える。
何度会っても、最初のこれは変わらない。
この人は、とても大きい人なのだ。
「ここは……どうですか?」
「ええ、だいぶいいようです。クスももうこのままで大丈夫でしょう」
「そうですか……」
クスを見上げる。
この付近でひときわ大きく、古い樹だ。
広く伸ばされた枝には、黄緑色の葉がみっしりと詰まっている。
その木陰で土が休み、湖の温度が鎮まる。
この樹を中心に、この付近は巡っているのだ。
「やはり、とても強かったですが……さすが、ここを支える樹だ。周りが協力してくれているようでしたよ」
「このクスと私は、同じだけ時を過ごしてきました。もう私は存在として揺らぎませんが……いなくなるのは寂しいと思っていました。感謝しております」
「なるほど、タオ殿の母樹でしたか。強いわけだ」
彼は、湖に映る太陽のようだと思う。
いつの間にかそこにいて、足元からずっと見守っている。
ただ、淡々と。
森を歩き、木々の声を感じ、小さな木の声を頼りに森を調える。
木と共に在る我らよりも、森というものを知っている。
木として80回の巡りを越え、離れてからは250回繰り返している。
それよりも長い時の流れを感じるのだ。
我らは宿った森を離れない。
その土地に根付いて生きる。
彼はどこで生まれ、どこを巡ってここに着いたのか。
人に初めて興味がわいた。
「コーレン殿は……誰、いや、どういう存在……ですか?」
前に視線を向けたまま、微かに笑う。
その質問が嬉しかったのか、珍しく空気が揺らいだ。
森の木々が静かになった。
彼らも聞きたいのだ。
いや、彼の口から、聞きたいのだろう。
「タオ殿が人に興味を持つとは、面白いこともありますね」
「いいえ、人にではない。あなたに、興味があります」
「人は……嫌いですか」
「いいえ、そうは思いません。ただ……通り過ぎていく、景色のようなものでしょうか」
「わたしにとっても、それは同じようなものですよ。仕方のないことですが、人はとても急いで生きる。タオ殿よりも、もっと……今は近付きたくない存在です」
人ではないだろう。
それはずっと感じていたことだ。
時間の感覚、知覚、認識、すべてが人のものではないと思っていた。
その違和感は正しかったようだ。
「私が聞いてはいけないことだったのなら、謝ります」
「いえいえ。たまには、自分のことを話すのも良いかもしれません」
コーレンは湖岸に進み、クスの木陰に腰を下ろした。
湖を眺める彼の横顔には、少しの愁いが見えた。
水面に揺れる太陽は、その表情をより濃くさせるようだ。
ひととき黙った後、彼は口を開いた。
「わたしは、天日人です」
アマヒト。
その存在は、木々を通して知っている。
とても数の少ない種族だ。
太陽のように温かい空気を持ち、生物たちは彼らに寄り添う。
「この世界では、少し特殊な種族かもしれません。色々な呼ばれ方をしましたが、今は“太陽の民”と呼ばれているようですね。まあ、存在を知っているものは多くないと思いますが」
彼の瞳は動かない。
湖の太陽は変わらず、揺ら揺らと眩しく光を散らしている。
「木々たちの記憶から、なんとなくだけは分かります。霊素を感じ、世界を調える存在……やっと、あなたを知ることができた気がします」
コーレンはこちらに視線を向け、目を細めた。
「それは嬉しいことだ。時間を共有できる存在とは、ありがたいものです」
「……コーレン殿は、どのくらいお過ごしですか」
「340を超えたあたりだと思います」
「そうでしたか……木として過ごした時間を外せば、私よりも長く生きてこられたわけですね」
340。
それだけの時間を生きて、彼が感じた“人”とは……どんなものだろう。
自分の中には、人という存在を想像するほどの記憶がない。
「時間を感じるというのは、とても難しいですね。我々のような長命種は特に、このときがどれほど続いたとしても気にならない」
「アマヒトも長いのですか?」
「ドリアードと変わらないと思います。ただ、我々の場合は、持っている核の時間が生命の時間です。身体の時間はあまり関係しませんね」
ドリアードは長命種といえど、身体が深く傷付けば果てることもある。
アマヒトはそれが起こらないということだろうか。
「アマヒトの体内には、霊核と呼ばれる核があります。それは生命を巡らせる源であり、普通の力で傷付くことはない。同じ性質のもので傷付けられるか、霊核自体の力が尽きるか……ああ、制御を誤り身体を壊してしまえば、巡りは終わりますがね」
コーレンは首の後ろに手を回し、軽くさするように動かした。
「霊核……というのが、あなたから感じる温かさの正体ですか?」
少し驚いたように目を開いた。
ふっと笑い、彼は足を伸ばして空を仰いだ。
その全身に太陽を浴び、その陽射しがなぜか、身体に吸い込まれるようだと思った。
「木々に近いあなたに温かいと感じてもらえているのなら……これ以上の褒め言葉はないですね。アマヒトの持つ霊核は、太陽と同じ素を宿しています。だから身体は良く巡り、疲労も少なく回復も早い。……ようやくわたしも、あの太陽に近付けたということでしょうか」
その表情は、今までのどんな彼よりも満たされたものだった。
太陽の民にとっての太陽は、ドリアードにとっての太陽とは違うのかもしれない。
木々に近いドリアードにとっても、太陽は生命そのものだ。
太陽がなければ我らは生きられない。
それは常に受け取るもの。
心もそうだが、身体がそれを求める。
でも、彼の表情は少し違う。
太陽を求めているのは、彼の魂であり本能。
心の奥深くにある、強い羨望かもしれない。
「太陽は、我らにとっては不変の恩恵です。畏敬の念は絶えません」
空を仰ぎ、目を閉じたまま、コーレンは土に背を置いた。
「わたしは最近まで、そこまで強くこう思うことはありませんでした。もちろん、アマヒトにとって太陽とは、そう在りたいと願う存在です。でも、自身の中に同じようなものを持っていると、少し付き合い方が難しいこともあります。夏は特に……辛い時期ですね」
「なるほど……」
「ですが、10年ほど前から一緒に過ごしている娘が、我らとは逆の霊核を宿しておりまして……彼女にとって太陽は、その霊核を守る唯一の存在です。こんなにもありがたいものだったのかと、実感する日々です」
10年ほど前。
彼がこの森に現れ始めた頃だ。
我らが彼と初めて話をしたのが2年前。
ここに来たときから、もうその娘はいたということだ。
「自分の霊核も、必要とされるものになった。わたしの中に在る小さな太陽が、彼女を温めてくれるのです。こんなに嬉しいことはありません。自分が自分で在ることを、初めて嬉しいと思った」
ドリアードには分からない、親という感覚。
我らも小さな命を愛おしむ思いはあるが、それはもっと広い感覚だ。
この森全体で、新しい命を喜ぶ。
ただ一人として、ただ一人を愛する。
その強く深い感情が、コーレンから伝わってくる。
森の木々にも、静かにそれが届いている。
彼らからも、どこか穏やかな風が流れている。
「いつか、タオ殿にも会ってもらいたいものだ。彼女はわたしよりもずっと深く、森や世界を感じています」
「お嬢さんは、まだ10回……なのに、ですか?」
「ええ。理屈ではないのだと思います。彼女の……ルティナの霊核は、世代を重ねて受け継がれてきたわたしたちの霊核とは違う。そのものとして、直接ルティナに宿った。世界との近さも、純粋さも、まるで違うのだと思います」
コーレンは起き上がり、再び湖を見つめる。
「わたしが水面に映る太陽なら、彼女は月そのもの。わたしでは想像できないほど、わたしひとりでは受け止められないほどに深いのだと思います」
太陽と月。
月もまた、森に癒しと安らぎを与える生命の源。
この世界の象徴として対極にある存在。
だが、その二つは絶対に隣に在ることはない。
それだけ大きな力を身に宿し、その少女は生きているのか。
まだ10回。
我らならまだ静かに眠っているときだ。
「ぜひ、お会いしてみたいものです」
タオはその少女にも興味が沸いた。
コーレンがこれほどまでに思う娘。
コーレンからは、少女への愛と共に微かな畏怖を感じる。
「もし出会うことがあったら、見守ってやって下さい。まだ芽も出ていない種のような状態ですが、ルティナはきっと……この世界に見つかってしまいます」
「……一緒には、いらっしゃらないのですか?」
「それも良いですね。長い時の中では、そんなことも起こるかもしれない」
そうは思っていない。
それがなぜなのか、タオには分からない。
木々はその子を知っているようだ。
森が幼子を見守るような、温かい空気がこの森に溢れた。
「さて、そろそろ次の場所に向かいましょうか」
立ち上がると、コーレンは森の奥へと歩き出した。
コーレンは、1000回生きた大きな切り株の前に立つ。
その根元の土は、まだ生きていない。
ドリアードにはどうしようもないもの。
巡りの中で時折溜まる森の淀みが、2回前の冬にその場所にあった。
それはどこまで広がるか分からない、森を蝕む毒のようなものだ。
淀みは魔素を遠ざけ、森を徐々に止めていった。
我らはその時、すでに諦めていた。
ここを離れて生きることを考えなければならないと思い始めた頃、コーレンは現れたのだ。
彼は淡々と、魔素がないその場所の土を取り除いた。
毎日毎日、朝に訪れては夜戻っていく。
取り除いた土の上に薪と枯葉を積み上げ、土をどんどんと燃やしていった。
そこから煙が立たない日は無かった。
土と灰を混ぜ、更に枯葉も加えて混ぜ込んでいく。
陽の射さない森の冬は、しんしんと寒い。
その寒さの中、彼はその作業を続けていた。
彼がいる場所は、なぜか温かかった。
近くの木々が彼を眺める様子が変わったのは、それが始まって10日が過ぎた頃だろうか。
毒を含んだ土が、何もない土になっていた。
我らには見えていない何かが、彼には見えていた。
私は彼に声を掛けた。
何をしているのかと尋ねたら、壊素を取り除いていると言った。
我らには見えない森の毒は、壊素という名前が付いた。
壊素を取り除けば、この森はまだ生きられる。
時間はかかるが、いつか元の巡りに戻っていくと。
彼は森を、ひとつの生命として考えているようだった。
我らは彼を手伝うことにした。
最初は私だけだったが、一人、二人と増えていき、この森に暮らすドリアードがここに集まるようになるまで、そう時間はかからなかった。
木々が彼を受け入れたからだ。
周りの土や木、小さな植物たちから壊素を取り除く頃には、芽吹きの季節に近付いていた。
ようやくこの場所から、煙が立たなくなった。
皆がほっとする中、彼だけが顔を強張らせていたのを覚えている。
彼は声を震わせて言った。
――この大樹を、伐らねばならない。
「ここの土は、もう少し時間がかかりそうですね」
コーレンは切り株の前にしゃがみ、根元の土を小瓶に詰めている。
「傷が深かったせいでしょうか」
「ここは陽が届きにくいですから、土の回復に時間がかかるのです。でも、少しずつ魔素は生まれ始めているようです」
タオは意識を集中すると、ほんの僅か、微かな魔素の気配をそこに感じる。
「本当だ……」
タオは喉の奥で言葉が詰まる。
「そしてほら、ここに」
コーレンが指差した切り株の根元には、小さな新芽が芽吹いていた。
黄緑色の双葉は、しっかりと土から芽を出している。
「土から、出ていますね」
「はい、これは良い兆しです」
土が、生命を育み始めている。
こんな日がまた来るとは、正直想像もしていなかった。
コーレンには、この森の声が聴こえている。
森の意思が届いている気がするのだ。
森がこう在りたいと思う姿を、寄り添いながら目指していく。
だから森は彼を愛し、彼に寄り添うのだろう。
「お久しぶりです、コーレン殿」
いつの間にか切り株の奥に立っていたのは、この1000回巡った切り株の宿り主、タヤだ。
ここにあった大樹から離れ、この森で一番長く生きているドリアードだ。
「タヤ殿、ご健勝のご様子で何よりです」
コーレンは立ち上がる。
右手を胸に当て、膝を折り目を伏せる。
彼ら特有の、アマヒトの礼だ。
「土が、生き始めましたな」
タヤは後ろに手を組んだまま、森がざわめくような声だ。
木々はタヤとコーレンの会話に聞き入っている。
静かに、風さえも通さぬように静まった。
「はい。巡り出せば、あとは時間がこの森を導きます」
「……コーレン殿、この森を救ってくださったこと、深い感謝を申し上げる」
タヤが頭を下げると、木々は動きを止めた。
タオもまた、彼に倣う。
「森が生きたのです。わたしはその意を汲み、手伝っただけです」
タヤが笑うと、森が鳴る。
この森全体が、タヤに乗っているのだ。
「あなたは本当に不思議な方だ。木々よりも森を理解している。我らも見習わなくてはなりません、我らと森が生きていくために」
「何をおっしゃいますか。あなたの母樹が、森を教えてくれたのです」
コーレンが切り株を見るとき、いつも眉間に力が入る。
彼はこの大樹を、誰よりも切りたくなかったのだ。
この森の始まりの樹。
悠久を過ごした記憶と、この森の象徴を守りたかった。
「この樹の在った証は、この森です。それが残ったのは、紛れもなくあなたのお陰だ。我らからの信頼の証を、受け取って下され」
タヤは懐から笛を取り出した。
ここのところずっと、タヤはこれを作っていた。
「これは……」
掌に乗せた小さな木彫りを、コーレンは不思議そうに見つめている。
「これは、我らの呼笛。これを吹いて下されば、我らがお力になれることをお手伝いいたしましょう。エルゼドの中であれば、我らに届きます」
「そんな大変な物……受け取れません」
「……信頼の証です。必要がなければ忘れて下さって構わない。これは我が母樹から作ったものです。あなたに持っていていただきたいのです」
コーレンは呼笛を見つめたまま、しばらく黙っていた。
笛の感触を確かめるように、丁寧に表面を撫でる。
それを見つめるコーレンが、肩の力を抜くように穏やかに笑った。
「……では、これはタヤ殿に預けておきます。いつか、わたしの娘にこれが必要になったとき、あなたのお眼鏡に適うならば、渡してやって欲しい」
タヤはコーレンを見つめる。
コーレンから差し出された手は、まっすぐにタヤへ向かっている。
彼の手のひらに乗った呼笛は、淡い光を帯びている。
その光は、母樹の光か、コーレンの光か、その両方だろうか。
「……分かりました。お嬢さんが森を求め、森が応えたなら、お渡ししましょう」
コーレンは清々しく、太陽のように笑った。
「それならば、いつか必ず、ルティナの元に渡るはずです」
――森が沸いた。
タヤが笑い、コーレンが笑い、森が笑った。
この大森林の荘厳な合唱を、タオは生涯忘れないだろう。




