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遠回りしたぶん、幸せになれる  作者: あーちゃん


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第25話 「もう遅い」は嘘

第24話では、悠斗が佐原の涙に寄り添いました。


泣いても終わらない場所。

泣いた翌日も「おはよう」と言える場所。


今回の第25話では、悠斗がずっと自分に言い聞かせてきた言葉――「もう遅い」と向き合います。

佐原陸が泣いた翌朝、彼はいつもより少し遅れて出社した。


 遅刻ではない。


 始業の十分前。


 それでも、これまで誰より早く来ていた佐原にしては珍しかった。


 朝倉悠斗は、彼がオフィスに入ってきた瞬間を見ていた。


 佐原の目は少し赤かった。

 けれど、昨日のように壊れそうな顔ではなかった。


 席に着く前に、佐原は悠斗のところへ来た。


「おはようございます」


 声は小さかった。


 でも、ちゃんと届いた。


 悠斗は顔を上げた。


「おはよう」


 ただ、それだけを返した。


 昨日泣いたことには触れなかった。


 大丈夫か、とも聞かなかった。


 泣いた翌日に、何事もなかったように扱われすぎるのもつらい。

 でも、腫れ物のように扱われるのもつらい。


 だから悠斗は、普通に挨拶した。


 佐原は少しだけ安心したように肩を下ろし、自分の席へ向かった。


 その背中を見ながら、悠斗は思った。


 泣いた翌日も、人は会社へ来られる。


 泣いた翌日も、朝は来る。


 泣いた翌日も、「おはよう」と言っていい。


 それは当たり前のようで、きっと当たり前ではない。


 自分は長い間、一度崩れたら終わりだと思っていた。


 泣いたら終わり。


 逃げたら終わり。


 失敗したら終わり。


 夢を諦めたら終わり。


 恋人を傷つけたら終わり。


 三十五歳になったら、もう遅い。


 そんなふうに、人生に何度も勝手な終了線を引いてきた。


 けれど、目の前の佐原は昨日泣いて、今日また来た。


 それは、とても小さなことに見えて、とても大きな証明だった。


 もう遅い、は嘘かもしれない。


 福神弥助から渡された紙切れには、そう書かれていた。


『第二十五の宿題。「もう遅い」は嘘やと証明しろ。』


 証明しろ。


 いつものように、宿題は乱暴だった。


 けれど今回ばかりは、悠斗の胸にも強く響いていた。


 もう遅い。


 その言葉は、悠斗の人生に何度も現れた。


 二十二歳の時、小説家になる夢を諦めた。


 就職して、現実を選んだふりをして、心のどこかで思った。


 もう遅い。


 三十二歳の時、美月と別れた。


 向き合えなかった自分に失望し、彼女を傷つけた自分を責めながら思った。


 もう遅い。


 三十五歳になった時、友人たちは家庭を持ち、仕事でも立場を得ていた。


 自分だけが立ち止まっているように感じて思った。


 もう遅い。


 父に本音を言うにも、夢を拾い直すにも、自分を変えるにも、全部もう遅い。


 そう思っていた。


 でも本当にそうだったのか。


 父には会えた。


 美月には謝れた。


 恒一には負けた話ができた。


 西野は新しい場所へ進んだ。


 佐原は泣いた翌日にまた会社へ来た。


 そして悠斗は、夜ごと小説を一文ずつ書いている。


 遅いかどうかは、誰が決めるのだろう。


 昼休み、悠斗はいつもの公園へ向かった。


 ベンチに座り、ノートを開く。


 ページの一番上に書いた。


『「もう遅い」は嘘』


 それから、しばらく考えた。


 嘘だと証明するには、どうすればいいのか。


 ただ「遅くない」と言うだけでは足りない。


 自分自身が、まだどこかで信じきれていないからだ。


 悠斗はペンを動かした。


『もう遅いと思う時、人は本当はまだやりたいことを見ている。

 本当にどうでもいいことなら、遅いかどうかなんて気にならない。

 遅いと思うのは、まだそこへ行きたいからだ。』


 書いた瞬間、胸が少し痛んだ。


 小説。


 自分は、まだそこへ行きたい。


 だから「もう遅い」と思う。


 美月に謝ることも、父と話すことも、自分を許すことも、本当は諦めきれていなかった。


 だから、遅いと思って苦しかった。


 遅いという言葉は、諦めの言葉に見えて、実は願いの裏返しなのかもしれない。


 悠斗は続けて書いた。


『遅いと思うのは、まだ願っている証拠。

 もう遅いと口にする時、本当は「まだ間に合ってほしい」と思っている。』


 そこまで書いた時、スマートフォンが震えた。


 父からだった。


『日曜、少し時間あるか。話したいことがある。』


 父から「話したいことがある」と言われるのは珍しい。


 悠斗は少し緊張した。


『あるよ。昼頃行く。』


 すぐに既読がついた。


 返事はなかった。


 その無言すら、少し父らしくて笑えた。


 日曜日、悠斗は実家へ向かった。


 電車に揺られながら、少し前の自分を思い出す。


 父の名前を口にするだけで苦しかった。


 実家へ帰ることすら怖かった。


 それが今は、緊張しながらも自分から向かっている。


 人生は、劇的に変わったわけではない。


 でも、確かに少しずつ変わっている。


 実家に着くと、母が迎えてくれた。


「よく来たね」


「うん」


「お父さん、庭にいるわよ」


 庭に出ると、父は植木の前にしゃがんでいた。


 古い作業着を着て、剪定ばさみを持っている。


「来たか」


「うん」


 父はしばらく枝を見ていた。


 そして、ぽつりと言った。


「喫茶店の話を覚えてるか」


「覚えてるよ」


 父が若い頃、小さな喫茶店を持ちたかったという話。


 悠斗にとって、あれは父を一人の人間として見る大きなきっかけだった。


 父は枝を一本切った。


「最近、母さんと話していてな」


「うん」


「店を持つのはもう無理だ。体力もないし、金もない」


 父は淡々と言った。


 悠斗は黙って聞いていた。


「でも、近所の公民館で、月に一度だけコーヒーを出す集まりがあるらしい」


「コーヒー?」


「ああ。退職した人たちが集まって、趣味でやっているそうだ」


 父は少し照れくさそうに視線を逸らした。


「母さんが、行ってみたらどうかと言う」


 悠斗は胸が熱くなった。


「行ってみれば?」


 父は少し苦い顔をした。


「今さらだろう」


 その言葉が、悠斗の胸に刺さった。


 今さら。


 もう遅い。


 父もまた、その言葉を抱えていた。


 悠斗はゆっくり言った。


「父さん」


「何だ」


「俺が小説を書き始めた時、父さんは“書くなら書け”って言ってくれたよね」


「ああ」


「今度は俺が言うよ」


 父が顔を上げた。


「コーヒーを淹れたいなら、淹れればいい」


 父は黙った。


「店を持つこととは違うかもしれない。でも、父さんがやりたかったことの一部は、まだできるかもしれない」


 父の手が止まった。


「もう遅いって、俺もずっと思ってた。でも最近、少し違う気がしてる」


「違う?」


「遅くなったから、同じ形では叶わないことはある。でも、形を変えて始めることはできる」


 父は、剪定ばさみをゆっくり下ろした。


 庭に沈黙が落ちる。


 遠くで鳥が鳴いた。


 父はしばらくして、低い声で言った。


「怖いな」


 悠斗は驚いた。


 父が、怖いと言った。


「何が?」


「下手だったらどうする。笑われたらどうする。こんな年で何をやってるんだと思われたらどうする」


 その言葉は、悠斗自身の言葉でもあった。


 小説を見せるのが怖かった時の自分。


 夢を語るのが怖かった自分。


 父も同じ場所にいる。


 悠斗は小さく笑った。


「怖いってことは、まだ大事なんだと思う」


 父は少し眉を動かした。


「誰の言葉だ」


「俺の言葉。たぶん、弥助さんから習ったけど」


「変な人か」


「うん。かなり」


 父は少しだけ笑った。


 ほんの少し。


 でも確かに笑った。


「行ってみる」


 父はそう言った。


「公民館のやつ」


 悠斗は胸が熱くなった。


「うん」


「店は無理でも、コーヒーくらいなら淹れられるかもしれん」


「きっと」


「まだ、遅くないか」


 父が小さく言った。


 悠斗は、はっきり頷いた。


「遅くない」


 その言葉を、父に言いながら、同時に自分にも言っていた。


 遅くない。


 帰り道、悠斗は電車の中でノートを開いた。


『父が、コーヒーを淹れる集まりに行くと言った。

 父も“今さら”と言った。

 父も怖がっていた。

 でも、行ってみると言った。

 もう遅いは、父にも嘘だった。』


 書きながら、悠斗は胸が熱くなった。


 夢は、若い人だけのものではない。


 形を変えてもいい。


 規模が小さくなってもいい。


 誰かに拍手されなくてもいい。


 自分がまだそこへ行きたいなら、始めていい。


 翌日、会社で佐原が言った。


「朝倉さん、昨日少し考えました」


「何を?」


「前の会社を辞めたこと、ずっと失敗だと思ってました」


「うん」


「でも、ここで少しずつやり直せるなら、あれで全部終わりじゃなかったのかなって」


 悠斗は頷いた。


「終わりじゃないよ」


 佐原は少し笑った。


「まだ遅くないですかね」


「遅くない」


 悠斗はすぐに言った。


 迷いなく言えた自分に、自分で少し驚いた。


「佐原は、まだ始めたばかりだよ」


「朝倉さんもですか?」


 佐原の問いに、悠斗は少し笑った。


「俺も、たぶん始めたばかり」


 その日の夜、悠斗はバス停へ向かった。


 福神弥助は、ベンチでたい焼きを食べていた。


「今日はたい焼きですか」


「もう遅いと思った日には、たい焼きや」


「なぜ?」


「冷めても温め直せる」


 悠斗は思わず笑った。


「今日はちょっといいですね」


「毎回いいやろ」


 悠斗は隣に座った。


「証明できたか?」


「少し」


「誰で?」


「父さんと、佐原と、自分で」


 悠斗は父の話をした。


 喫茶店を持ちたかった父が、公民館でコーヒーを淹れる集まりに行こうとしていること。


 「今さら」と言いながらも、行ってみると言ったこと。


 佐原が、前職を辞めたことを終わりではないと思い始めたこと。


 弥助は静かに聞いていた。


 そして言った。


「もう遅い、はだいたい嘘や」


「だいたい?」


「全部が同じ形で間に合うわけやないからな」


 弥助はたい焼きを割った。


「戻らん時間はある。会えん人もいる。やり直せん出来事もある。せやけど、始め直せる形はたいてい残っとる」


 悠斗は頷いた。


 その通りだと思った。


 美月との恋は戻らない。


 父の若い頃の喫茶店は戻らない。


 悠斗の二十二歳は戻らない。


 でも、感謝は伝えられる。


 コーヒーは淹れられる。


 小説は今日も書ける。


「もう遅いって言葉はな」


 弥助は言った。


「ほんまは“同じ形ではもう無理”って意味のことが多い」


「同じ形ではもう無理」


「でも、幸せは形を変える。夢も形を変える。人生も形を変える」


 悠斗はその言葉を胸に置いた。


「兄ちゃんの小説もそうや」


「俺の?」


「二十二歳で書いてた小説とは違うやろ」


「はい」


「三十五歳の今やから書ける話がある」


 悠斗は息を止めた。


 三十五歳の今だから書ける話。


 遠回りして、負けて、逃げて、泣ける場所を作って、ようやく書ける話。


 それは、二十二歳の悠斗には書けなかったかもしれない。


「次の宿題や」


 弥助は紙切れを渡した。


『第二十六の宿題。人生を変える小さな習慣を作れ。』


 悠斗は紙を見つめた。


「習慣……」


「人生はな、大きな決意より小さな習慣で変わる」


 弥助は立ち上がった。


「兄ちゃん、そろそろ一発逆転を諦めろ」


「きつい言い方ですね」


「ええ意味や」


 弥助は笑った。


「毎日一文。毎朝ひとつ挨拶。週に一度、誰かに本音。そういう小さいことでええ」


 家に帰ると、悠斗は机に向かった。


 新しく買った白い花が、静かに咲いている。


 悠斗はノートを開いた。


『「もう遅い」は嘘。

 ただし、同じ形では戻らないものもある。

 二十二歳の自分には戻れない。

 美月との時間も戻らない。

 父の若い頃の夢も戻らない。

 でも、形を変えて始めることはできる。

 謝ること。

 感謝すること。

 コーヒーを淹れること。

 一文を書くこと。

 泣いた翌日に、おはようと言うこと。』


 続けて書く。


『遅いと思うのは、まだ願っている証拠。

 もう遅いと言いたくなったら、まだ行きたい場所があるのだと思い出す。』


 小説ノートを開く。


 今日の一文を書く。


『男は、“もう遅い”という言葉の裏側に、“まだ間に合ってほしい”という願いが隠れていることを知った。

 同じ形では戻らなくても、人生は別の形でまた始まる。』


 ペンを置く。


 その夜、父からメッセージが来た。


『公民館のコーヒーの集まり、来週行くことにした。』


 悠斗は画面を見て、静かに笑った。


『いいね。今度、父さんのコーヒー飲ませて。』


 少しして返信が来た。


『まずくても文句を言うな。』


 悠斗は声を出して笑った。


『言わない。たぶん。』


 送信してから、胸の中が温かくなった。


 父も始める。


 佐原も始めている。


 自分も始めている。


 もう遅い、は嘘だった。


 少なくとも、今日の悠斗にはそう思えた。


 人生は、いつでも同じ場所から始め直せるわけではない。


 でも、今いる場所からなら、また始められる。


 遠回りしたぶん、見える景色がある。


 遠回りしたぶん、書ける言葉がある。


 遠回りしたぶん、誰かに渡せる優しさがある。


 悠斗は机の上の歩の駒を指で一つ前に押した。


 一歩。


 また一歩。


 遅くても、進んでいる。


 それが、今の悠斗にとっての証明だった。

第25話を読んでくださり、ありがとうございます。


今回のテーマは「『もう遅い』は嘘」でした。


同じ形では戻らないものがあります。

でも、形を変えて始められることもあります。


父はコーヒーを。

佐原は新しい職場での一歩を。

悠斗は小説を。


遅いと思うのは、まだ願っている証拠なのかもしれません。


次回は、第26話「人生を変える小さな習慣」へ続きます。

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