第10話 幸せそうな人間ほど泣いている
第9話では、悠斗が父の背中を思い出し、父を「怖い人」だけではなく「不器用に生きてきた一人の人間」として見つめ直しました。
今回の第10話では、悠斗が周りの人の“見えない痛み”に気づいていきます。
幸せそうに見える人。
仕事ができる人。
いつも笑っている人。
そんな人ほど、本当は誰にも見せない場所で泣いているのかもしれません。
昼休みの公園は、いつもより少しだけ風が冷たかった。
朝倉悠斗は、ベンチに座ってコンビニで買ったお茶を両手で包んでいた。隣には後輩の西野がいる。西野は弁当の蓋を開けたものの、箸を持ったまま、しばらく何も食べようとしなかった。
いつもの西野なら、昼休みに入るなり「腹減りました」と言って、勢いよく食べ始める。仕事の愚痴も、くだらない冗談も、軽い口調で話す。
けれど今日の西野は違った。
朝から妙に静かだった。返事はする。仕事もしている。ミスをしているわけではない。それでも、どこか心が遠くにあるように見えた。
少し前の悠斗なら、気づかなかったかもしれない。
いや、気づいても声をかけなかっただろう。
人の事情に踏み込むのが怖かったからだ。面倒なことになるのが嫌だったからだ。何より、自分が誰かを助けられるような人間ではないと思っていたからだ。
でも今の悠斗の中には、福神弥助の言葉が残っていた。
「幸せそうな人間ほど泣いている、と覚えろ」
西野は仕事ができる。
明るい。
周囲からも可愛がられている。
若くて、未来があって、悠斗から見れば眩しい存在だった。
でも、それは西野の全部ではない。
仕事ができるように見える人にも、焦りはある。明るく見える人にも、誰にも言えない夜がある。
恒一がそうだったように。
山口さんがそうだったように。
父がそうだったように。
悠斗は、お茶のペットボトルを膝の上に置いた。
「西野」
「はい」
「無理に話さなくてもいいけど、朝から少し様子が違う気がした」
西野は苦笑した。
「そんなに顔に出てました?」
「少しだけ」
「朝倉さん、最近そういうの気づくようになりましたね」
「前は全然気づかなかったと思う」
「そうですね」
西野は少し笑った。
その笑いは、いつもの軽い笑いではなかった。どこか疲れていて、自分でもどうしていいかわからない人の笑いだった。
「実は昨日、母親から電話があって」
「うん」
「実家の父が倒れたって」
悠斗は息を呑んだ。
「大丈夫なのか?」
「命に別状はないみたいです。軽い脳梗塞で、今は入院してます」
「そうか……」
「でも、なんか急に怖くなって」
西野は箸を弁当の上に置いた。
「父って、ずっと元気なものだと思ってたんです。うるさいし、頑固だし、たまに腹立つし。でも、倒れたって聞いた瞬間、あれ、この人もいつかいなくなるんだって思って」
悠斗は何も言えなかった。
父親。
倒れたという知らせ。
自分も、昨日父と会ったばかりだった。
少し丸くなった背中を見たばかりだった。
「実家、遠いの?」
「新潟です。帰ろうと思えば帰れるんですけど、今ちょうど案件が立て込んでて」
「帰った方がいいんじゃないか」
悠斗が言うと、西野は苦しそうに笑った。
「そうですよね。でも、チームに迷惑かけるし」
「迷惑って」
「僕、今の案件、メインで持たせてもらってるんです。ここで抜けたら、村瀬さんにも朝倉さんにも負担かける」
その言葉は、悠斗にとって聞き覚えがありすぎた。
迷惑をかけたくない。
自分が抜けたら困る。
弱音を吐いてはいけない。
そうして、どんどん自分を追い込んでいく。
少し前の自分と同じだった。
「西野」
「はい」
「俺、前にお前に助けてもらったよな。資料の数字とか、先方対応とか」
「そんなの、全然」
「でも、俺は助かった」
悠斗は西野を見た。
「だから今度は、こっちが助ける番だと思う」
西野は目を伏せた。
「でも」
「村瀬さんには俺からも話す。案件は分担すればいい。家族のことなら、帰った方がいい」
「……」
「仕事は大事だけど、父親が倒れた時に帰れない仕事の仕方は、たぶん長く続かない」
言いながら、悠斗は自分にも言っている気がした。
仕事を理由に、どれだけ大切なことから逃げてきただろう。
美月との時間。
父との会話。
友人との関係。
夢を書く時間。
仕事が忙しいから。
そう言ってしまえば、それ以上誰も責めない。
でも、本当は自分が自分を置き去りにしていた。
西野はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「僕、ちゃんとしてる人に見られたいんです」
その声は、とても小さかった。
「若いのにしっかりしてるとか、仕事できるとか、任せられるとか。そう言われるのが嬉しくて、ずっと頑張ってきました」
「うん」
「でも、最近ずっと怖かったんです。期待されてる自分に追いつけなくなるのが」
悠斗は静かに聞いていた。
「本当は、わからないことも多いし、不安だし、家に帰ったら何もできない日もあるし。なのに、会社では大丈夫な顔をしてる。そうしてるうちに、どっちが本当の自分かわからなくなってきて」
西野は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「父が倒れたって聞いて、本当はすぐ帰りたかった。でも、帰りたいって言ったら、責任感がないと思われるんじゃないかって」
「思わないよ」
悠斗はすぐに言った。
その声が思ったより強く出て、自分でも驚いた。
「少なくとも俺は思わない」
西野は顔を上げた。
「大切な人が倒れた時に帰るのは、責任感がないことじゃない。むしろ、ちゃんと大切なものを大切にすることだと思う」
西野の目が少し赤くなった。
「朝倉さん、変わりましたね」
「最近よく言われる」
「前なら、たぶん一緒に抱え込んでました」
「そうかも」
悠斗は苦笑した。
「でも、俺も色々あって。父と話してきた」
「お父さんと?」
「うん。ずっと避けてたんだけど、昨日会って、昔傷ついたこととか、認めてほしかったこととか言った」
「すごいですね」
「すごくない。めちゃくちゃ怖かった」
悠斗は正直に言った。
「でも、言ってよかった」
西野は黙って頷いた。
「だから西野も、帰った方がいい。後悔しそうなら」
その言葉で、西野の表情が少し崩れた。
「帰りたいです」
「うん」
「父に会いたいです」
「うん」
「でも、怖いです。弱ってる父を見るのが」
「怖いよな」
「はい」
悠斗は、自分が実家へ向かった日のことを思い出した。
父の丸くなった背中。
昔より小さく見えた姿。
強いと思っていた人が、実は年を取っていると知る怖さ。
「怖くても、会っておいた方がいい時がある」
悠斗は言った。
「俺は、そう思った」
西野はしばらく俯いていたが、やがて小さく頷いた。
「村瀬さんに、相談してみます」
「一緒に行こうか?」
「いいんですか?」
「うん」
昼休みが終わる頃、西野は弁当を半分以上残していた。
でも、顔は朝より少しだけ楽になっていた。
会社へ戻ると、悠斗は西野と一緒に村瀬の席へ向かった。
村瀬はパソコンに向かっていたが、二人を見ると眉を上げた。
「何だ」
西野は緊張した様子で口を開いた。
「村瀬さん、少しご相談があります」
「うん」
「昨日、父が倒れて入院しました。命に別状はないんですが、できれば明日、実家に帰りたいです」
村瀬は一瞬黙った。
西野の顔がこわばる。
悠斗も少し身構えた。
しかし村瀬は、すぐに言った。
「帰れ」
西野が驚いた顔をした。
「え?」
「帰れと言った。仕事はこっちで調整する」
「でも、案件が」
「案件は大事だが、親が倒れた時に帰らせないほどの案件じゃない」
村瀬は淡々と言った。
「朝倉」
「はい」
「西野の案件、今日中に引き継ぎ内容を整理しろ。お前が一次受けしろ」
「わかりました」
「西野は今日中に必要な情報をまとめて、明日は帰れ。状況次第で休みを延ばしていい」
西野の目が揺れた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。こういう時に相談しない方が困る」
村瀬はそう言って、またパソコンへ向き直った。
その態度はいつも通りぶっきらぼうだった。
けれど悠斗は、その中に村瀬なりの優しさを見た。
以前なら、村瀬のことを「厳しい上司」としか見ていなかった。
でも今は、その背中にも何かがあると思える。
仕事に厳しいだけの人ではない。
チームを守ろうとしている人なのかもしれない。
夕方まで、悠斗と西野は引き継ぎに追われた。
案件の進捗、先方の要望、注意点、過去のメール。西野は申し訳なさそうに何度も「すみません」と言った。
そのたびに、悠斗は言った。
「大丈夫。帰ってこい」
何度目かで、西野は小さく笑った。
「朝倉さん、ちょっと弥助さんみたいです」
悠斗は手を止めた。
「え?」
「あ、前に言ってた変なおっさん。宿題出してくる人」
「俺、あんな怪しくないだろ」
「怪しくはないですけど、言葉がたまに刺さるところが」
「それ、褒めてる?」
「褒めてます」
二人は少し笑った。
午後八時過ぎ、ようやく引き継ぎが終わった。
西野は深く頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
「気をつけて帰れよ」
「はい」
「お父さんに、言いたいことがあるなら言ってこい」
西野は少し目を伏せた。
「言えるかな」
「全部じゃなくていいと思う」
悠斗は自分の父との会話を思い出しながら言った。
「一言でも、今言えることを言えばいい」
西野は頷いた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
その言葉を言った瞬間、悠斗は少し不思議な気持ちになった。
自分が誰かを送り出している。
少し前まで、誰にも頼れず、誰の役にも立てないと思っていた自分が。
遠回りした道の途中で拾ったものを、今、少しだけ誰かに渡せている。
それが嬉しかった。
夜、悠斗はいつものバス停へ向かった。
福神弥助は、ベンチに座って紙パックの牛乳を飲んでいた。
「今日のチョイス、珍しいですね」
「骨を強くせなあかん」
「神様も骨あります?」
「福の神にもカルシウムはいる」
悠斗は隣に座った。
「誰かの“いつもと違う”に気づけたか?」
「はい」
「誰や」
「西野です。父親が倒れて、でも仕事を休むのを迷ってました」
「ほう」
「幸せそうというか、仕事ができて、若くて、いつも明るくて。俺から見たら、悩みなんて少なそうに見えてました」
「うん」
「でも、違いました。期待される自分に追いつけなくなるのが怖いって言ってました」
弥助は黙って頷いた。
「村瀬さんも、思ってたより優しかったです。帰れってすぐ言ってました」
「厳しい人間が冷たいとは限らん」
「はい」
悠斗は夜の商店街を見た。
「俺、ずっと人を簡単に決めつけてました。恒一は成功者。西野は仕事ができる後輩。村瀬さんは厳しい上司。父さんは怖い人。山口さんはコンビニ店員」
「うん」
「でも、みんなそれだけじゃないんですね」
「せや」
「幸せそうな人も、強そうな人も、ちゃんとしてる人も、見えないところで泣いてるかもしれない」
弥助は紙パックを潰しながら言った。
「それを知った人間は、少し優しくなれる」
「でも、全部気づくのは無理ですよね」
「当たり前や」
弥助はあっさり言った。
「全部の涙に気づこうとしたら、こっちが溺れる。大事なんは、決めつけんことや」
「決めつけない」
「笑ってるから大丈夫、成功してるから苦しくない、若いから悩みが軽い、親やから強い、上司やから平気。そう決めつけんことや」
悠斗は静かに頷いた。
「次の宿題や」
「はい」
「お、受け入れ早なったな」
「もう慣れてきました」
「慣れは成長や。ただし油断はあかん」
弥助は紙切れを渡した。
そこには、こう書かれていた。
『第十一の宿題。逃げた場所には後悔が残る。戻れる場所には戻れ。』
悠斗の胸が、少し強く鳴った。
逃げた場所。
すぐに思い浮かんだのは、美月だった。
父には会えた。
恒一にも会えた。
夢を諦めた駅にも戻った。
でも、美月にはまだ何もできていない。
あの別れから、ずっと逃げたままだ。
「美月、ですね」
悠斗が呟くと、弥助は何も言わなかった。
ただ、静かに悠斗を見ていた。
「まだ、連絡するのが怖いです」
「怖いやろな」
「今さら何を言うんだって思われるかもしれない」
「思われるかもしれんな」
「もう結婚してるかもしれない」
「そうかもしれんな」
「迷惑かもしれない」
「そうかもしれんな」
弥助は全部を否定しなかった。
それが逆に、悠斗にはありがたかった。
「でも」
弥助は言った。
「逃げた場所には、後悔が残る」
悠斗は紙切れを握った。
「戻るって、よりを戻すとか、そういうことじゃないですよね」
「ちゃう」
弥助は首を振った。
「戻るっていうのは、過去をやり直すことやない。置いてきた言葉を拾いに行くことや」
「置いてきた言葉」
「美月に言えんかった言葉があるんやろ」
悠斗は黙った。
あった。
たくさんあった。
ごめん。
ありがとう。
愛されていたのに、受け取れなくてごめん。
君のせいじゃなかった。
自分を嫌いすぎて、君の優しさまで疑ってしまった。
幸せになっていてほしい。
「連絡しろ、ですか」
「今日はまだせんでええ」
悠斗は少し驚いた。
「しなくていいんですか」
「まず、言えんかった言葉を書け」
弥助は言った。
「相手に渡す前に、自分が何を持ってるのか見ろ」
家に帰ると、悠斗はノートを開いた。
今日のページに、西野のことを書いた。
『西野が泣きそうだった。
仕事ができる後輩だと思っていた。
でも本当は、期待される自分に追いつけなくなるのが怖かった。
父親が倒れて、帰りたいのに、迷惑をかけるのが怖くて言えなかった。
少し前の俺と同じだった。』
続けて、村瀬のことも書いた。
『村瀬さんは厳しい。
でも、冷たい人ではなかった。
西野にすぐ「帰れ」と言った。
厳しさの中に、チームを守る責任があるのかもしれない。
人は、ひとつの印象だけではわからない。』
そこまで書いて、悠斗はページをめくった。
新しいページの一番上に、名前を書く。
『高瀬美月へ』
それだけで、胸が苦しくなった。
ペンが止まる。
美月に言えなかった言葉。
どこから書けばいい。
謝罪からか。
感謝からか。
後悔からか。
悠斗は深く息を吸った。
弥助は言った。
相手に渡す前に、自分が何を持っているのか見ろ。
これは、まだ送る手紙ではない。
まず、自分の中にある言葉を出すだけだ。
悠斗は書き始めた。
『美月へ。
今さらだけど、言えなかったことがたくさんあります。
まず、ごめん。
君が悪かったわけじゃないのに、僕は勝手に怖くなって、君から離れました。
仕事が忙しいふりをしました。
疲れているふりをしました。
本当は、結婚の話が出て、自分が誰かを幸せにできる人間だと思えなくて、怖かっただけです。』
書きながら、悠斗の胸は痛んだ。
でも、もう止まらなかった。
『君は何度も手を伸ばしてくれました。
大丈夫?
何かあった?
ちゃんと話して。
そう言ってくれたのに、僕は何も言いませんでした。
言ったら、弱い自分を見られると思った。
見られたら、嫌われると思った。
でも本当は、黙って逃げたことで、君を一番傷つけました。』
美月の顔が浮かぶ。
台所で笑う美月。
映画を観ながら泣く美月。
別れの日、泣かずに悠斗を見ていた美月。
「悠斗は優しいけど、自分を嫌いすぎるよ」
あの言葉。
今なら、少しだけわかる。
『君が最後に言った言葉を、ずっと覚えています。
優しいけど、自分を嫌いすぎる。
あの時は、責められたように感じました。
でも今は、君は僕に気づいてほしかったんだと思います。
僕が僕自身を傷つけていること。
そのせいで、君の優しさまで受け取れなくなっていたこと。』
悠斗は涙を拭った。
送るかどうかはまだわからない。
でも、書くことには意味があった。
逃げた場所に残っていた後悔が、少しずつ言葉になっていく。
『ありがとう。
僕を好きになってくれて。
僕の夢の話を笑わずに聞いてくれて。
狭い部屋で夕飯を作ってくれて。
僕が自分を嫌いでも、君は僕のいいところを見ようとしてくれました。
その優しさを受け取れなくて、ごめん。』
そこまで書いて、悠斗はペンを置いた。
胸がいっぱいだった。
美月に連絡するかどうかは、まだ決められない。
でも、逃げた場所に戻るための最初の一歩は、確かに踏み出した。
翌朝、西野からメッセージが届いた。
『今日、実家に帰ります。朝倉さんのおかげで帰る決心がつきました。ありがとうございます。』
悠斗は返信した。
『気をつけて。言えることを一つだけでも言ってきて。』
送信してから、悠斗はノートを見た。
高瀬美月へ。
自分も、言えることを一つだけでも言わなければならない日が来る。
そう感じた。
会社へ向かう途中、空は少し曇っていた。
けれど悠斗の足取りは、以前ほど重くなかった。
幸せそうな人間ほど泣いている。
その言葉を知った今、悠斗は少しだけ世界を違う目で見ていた。
コンビニの山口さんにも、佐藤さんにも、村瀬にも、西野にも、父にも、恒一にも、美月にも。
見えない涙がある。
見えない物語がある。
自分だけが特別に苦しいわけではない。
だからこそ、人は誰かに優しくできる。
自分の痛みを知った人間は、誰かの痛みに気づけるようになる。
遠回りしたぶん、悠斗は少しだけ、人の涙に近づけるようになっていた。
第10話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回のテーマは「見えない痛みに気づくこと」でした。
幸せそうに見える人。
仕事ができる人。
明るく振る舞う人。
そんな人たちも、見えない場所で泣いていることがあります。
悠斗は西野の不安に気づき、今度は自分が誰かを支える側になりました。
次回は、第11話「逃げた場所には後悔が残る」です。
悠斗は、かつて向き合えなかった元恋人・美月への言葉を書き始めます。




