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春風戦華  作者: 地球儀
35/35

其の参拾伍:結末

グリル・パルツァーの名言: 手の上なら尊敬のキス。

                  額の上なら友情のキス。

                  頬の上なら厚情のキス。

                  唇の上なら愛情のキス。

                  閉じた目の上なら憧憬のキス。

                  掌の上なら懇願のキス。

                  腕と首なら欲望のキス。

                  さてそのほかは、みな狂気の沙汰。

濡れた顔をタオルで拭い、鏡の中の自分と向き合う。

瘡蓋の残るこめかみ。青痣で変色した下顎。絆創膏を貼り付けた額、鼻、口角。そして顔の半分を埋め尽くすように貼付された湿布。

鏡越しに傷跡をなぞりながら溜息を吐く。痛々しいことこの上ない。男なら勲章と言って誤魔化せるかもしれないが、女子高生……しかも実年齢より幼く見えるとなると、集団リンチと捉えられかねない。

今日もまた、名も知れぬ誰かと擦れ違う度に奇異な視線を送られるわけだ。そう思うと自然に唇は自嘲の笑みを刷く。

顔面に目立つ傷を負った経験は中学時代に多々あるが、これほど酷いは初めてだ。しかも当時は如何にも不良といった服装をしていたことも手伝い、触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに、例え遠目であってもじろじろ注視してくる者はいなかった。

(とりあえず、眼帯が取れただけマシとしましょう)

実際、終戦翌日のパンパンに腫れ上がった面容と比べたら熱も痛みも引いた方だ。骨折、脱臼がなかったのも不幸中の幸いだろう。ほんの数日前とはいえ、鏡で状態を目の当たりにしたときは決して比喩ではなく、本気で将来嫁に行けないと思うまでに見るに忍びない顔をしていたのだ。

「伶子ちゃん、歯磨き終わった~?そろそろ行かないと遅刻するわよー!」

「はーい」

タオルを洗濯機の中に放り込み、リビングへと足早に進む。ぎこちない歩き方ではあるが、致し方ない。傷は顔だけでなく、服に隠れたところにまで至っているのだから。

「伶子、学校まで送ってやるぞ?」

新聞から顔を上げた父親の表情は心配と困惑で曇っていたが、ほんの微かに、娘と接触ができるかもしれないという期待も覗かせていた。

こちらに疚しさがなければそれに応えてもよかったのだが……また昨日のように逃げ場のない走行中の車内で怪我の原因を問い詰められては堪ったものではない。

微苦笑して首を振れば、あからさまにしょんぼりされた。胸の内で父親に手を合わせながら学生鞄を掴み、玄関へと急ぐ。見送りにやってきた広江に「いってきます」と告げてドアのレバーハンドルに手を掛けたときだった。

「伶子ちゃん。あなたにとっては大したことじゃなくても、何かあったら連絡してきてね。旅行から帰って出迎えてくれたあなたを見たとき、本当に心臓が止まると思ったんだから」

扉を少し開けた状態で肩越しに義母を振り返る。

ありのまま正直に話すわけにもいかず、怪我の理由を「中学時代に敵対していたグループに襲われた」と話していた。そして暴力沙汰の末に和解できたのだと。

父親はどこか納得いかない様子ではあったが、警察沙汰にするほどの騒ぎではないと根気強く説得した娘に、渋々ながらも了承した。けれども広江は、そう簡単に鵜呑みにはしてくれないらしい。

しかし案ずる素振りを窺わせる台詞は、伶子の固い意思を察し、騙されることに妥協してくれたと受け取ってよいのだろう。

「……はい。真っ先にお父さんと広江に報せます」

甘んじて追求を許してくれた義母に感謝し、伶子は改めて扉を大きく開き、外への第一歩を踏み出した。



足を傷めている為に普段よりも早く家を出たのはいいが、さすがに朝練をする生徒しか登校していない時間帯というのは、急ぎ過ぎたかもしれない。

(お父さんに送ってもらって、遅刻ギリギリで教室に着いた揚句、先生に睨まれた昨日よりはずっといいですけどね)

例え怪我人だろうと、届出を提出していない者に躊躇なく遅刻の烙印を押そうとするのは、彼が分け隔てなく生徒を見ている証拠だろうか。いかにも宇佐美らしくて微笑ましい反面、自分が特別視されることは大いにないのだと思い知らされる。

「おはよ〜、伶子!」

溜息が零れかけた刹那に呼びかけられ、声の方角を見遣れば、宿直室から身を乗り出した茉穂が手を振っていた。そのすぐ横では先程まで脳裏に思い描いていた副担任が煙草を燻らせている。

「おはようございます。茉穂ちゃん、宇佐美先生」

「……おう」

フィルターから唇を離した宇佐美は紫煙を吐き出して伶子を一瞥すると、再び視線を遠くに遣った。

目が合ったという些細なことだけで胸が高鳴るも、すぐに逸らされてしまったのが少し寂しい。乙女心は敏感で脆く、傷が付きやすいと自覚し、思わず自嘲しそうになった。

「茉穂ちゃん、だいぶ顔色が良くなってきましたね」

「ちゃんと体は睡眠とってるからね。一応見た目は健康そのものだけどさ、やっぱ精神的にずっと起きっぱってのは、未だに違和感あるんだよね~」

先日まで寝不足と疲労で化粧の上からでも体調の悪さを窺わせていた茉穂の顔色は、今もなおその影を落としているものの、それでも明らかに良好の兆しを窺わせた。

「そういえば七愛海ちゃんは?一人で幼稚舎に向かわれたんですか?」

兄夫婦の出張が長引くということで、一ヶ月預かる予定だった姪をもしかすれば一年ほど預からなければならなくなり、宇佐美は家族との相談の末、石動学園の幼稚舎に通わせることにした。もう暫く宿直室暮らしを強いてしまう為、叔父としては同居に反対したようだが、ここに残りたいという七愛海の強い希望に折れざるを得なくなったとか。

(深夜の警備を条件といえど、宿直室に寝泊まりしてて、そこに七愛海ちゃんも暮らさせてたわけですからね。でも四歳児がそれをネタに脅迫するなんて……)

世も末と歎くべきか、将来は大物になると感嘆すべきか。

「ちゃんと送ったみたいよ。あいつが」

人差し指をピンと伸ばして示された後方。振り返れば、石動学園の制服に身を包んだ美貌の男子生徒が三人のいる方へと近付いてきていた。

「おはようございます、不死原君」

「おはよう、桜原さん」

朝日を浴びた黒髪を煌めかせ、爽やかな笑顔と挨拶をセットにして返してきたのは、クラスメイトであり、数日前まで敵として対立関係にあった冥界の皇太子だ。

柔らかい雰囲気を放出しながら双眸を細めて微笑む姿につられ、伶子も頬を緩ませる。いつの間にやらこうして顔を合わせれば、自然と互いに和み合うようになっていた。

「七愛海ちゃんの送迎、不死原君がやってたんですね」

感心する伶子だが、それを一蹴するように、終始一貫して沈黙を貫いていた宇佐美が口を開いた。

「毎日女子高生ばっかだと飽きるだろうし、朝と夕方くらいは若奥様を拝ましてやろうかと思ってな」

「ほー……」

「ちょっ……宇佐美先生?!」

ワンオクターブ低い声を出して威圧感を醸し出す茉穂に青褪め、慌てふためくシオン。そんな二人を眺め、意地悪くニヤニヤほくそ笑む副担任。

(茉穂ちゃんが佐保姫になると聞いたときは、こんな風になるなんて思ってもなかったんですが……)

三者三様にクスクスと笑いながら、伶子は終戦後の出来事を回想する――――



「嘘……ですよね?」

胸に渦巻く不安、焦燥、懇願、不快……。それらを蹴散らすように強引に目の前にいる少女の腕を掴めば、その握力に圧されて茉穂の表情が歪む。しかしそれに気付く余裕さえも忘れ、伶子は親友に詰め寄った。

「私達、ちゃんとここにいるじゃないですか!死んでないじゃないですか!なのにどうして……?!」

「茉穂!」

何もなかった空間が突如揺らぎ、一瞬の間も置かず長身の男が降り立つ。想い人である少女だけは絶対に佐保姫になってほしくないと切望していた、冥界の次期統括者。どうやら伶子の目が霞んでいたときに末弟の手により腹部を怪我したらしく、血はカッターシャツだけに留まらず、ジャケットやデニムパンツまで汚していた。

傷が疼くのだろう。額に玉の汗を滲ませながら親友の背後に現れたその姿を、伶子は強く睨み付ける。

「どういうことですか、不死原君!茉穂ちゃんだけは絶対に佐保姫にさせないって――――!」

「待って、伶子。もういいの」

紅を刷いた唇に微苦笑を模り、力無く首を横に振る。そこに浮かぶは……諦念と妥協。眦に薄っすら浮かばせた涙が欠伸によるものだとばかりに、吐息を零しながら指先で拭う親友に「どうして」と呟く。

納得できるわけがない。誰も佐保姫にさせない。その志を掲げて今まで闘ってきたのではないのか。なのに何故、簡単に事態を……最悪の事態を受け止めようとしているのか。

閉口する茉穂に代わってその疑問に答えたのは、もう一人の佐保姫候補である宇佐美だった。

「攫われたお前を助ける為に、ずる賢い宰相が俺を連れてあっちの世界に飛ぶ条件として、近江を佐保姫することを要求しやがったんだよ」

(!)

灰皿に煙草を押し付けた宇佐美は険阻な顔付きを隠そうともせず、大きく舌打ちをする。

今になって漸く、彼が自分達の方を向きたがらないのか分かった気がした。

姿を見せたリオンを目にし、頭に血が昇って伶子から目を離したばかりに、彼女は魔の手に捕われた。また伶子を救う為に、別の少女を犠牲にせざるを得なくなった。

教え子を無事に守ることのできなかった不甲斐なさ。それが宇佐美を苛ませている。

(レオンに連れ攫われたのは、背後を取られた私の責任です。犠牲が私だけなら気にしないでと言えるのですが……)

死しても尚、闘いを強いられる運命。茉穂をその糸に絡ませてしまったのは他でもない。

――――自分。

伶子、宇佐美、そしてシオン。口に出さずとも、三者各々同じ心境であるのは表情からして明確だ。

「伶子もシオンもウサちゃんも、そんなしみったれた顔やめてよ!あたしまだ死んでないっての!ほら、美人薄命って言うし、その……ぶっちゃけこれで良かったってあたしの中じゃ諦めついてるから。伶子はこんなボロボロになるまで頑張ってくれたし、ウサちゃんも伶子を冥界から連れ戻してくれた。シオンも……あたしを佐保姫にさせないよう色々動いてくれてたの、分かったから」

アイブロウで描いた眉をハの字に歪ませて唇の端を吊り上げ苦笑いを浮かべてはいるが、頬は引き攣り、口角が小刻みに震え、眉間には深く皺が寄っていた。涙を見せまいと必死なのだろう。眼前に迫った死に胸が張り裂けそうになる思いは、これまで災禍と渡り合ってきたものとは比べ物にならないほど辛く厳しい痛みに違いない。

「……反故することはできないんですか?」

茉穂が災禍になることを条件に救い出された自分が言うべきではないのかもしれない。

どうしてそんな提案を呑んだのかと問い詰めたいのは山々だったが、立場が逆ならば伶子も同じ決断を下しただろう。他に選択肢がなく、且つ刻一刻と親友に危険が迫っていたなら尚更だ。

「伶子、だからもういいって言ってんじゃん!」

響く声は、諦めの悪い親友を無理矢理言い聞かせるというよりも、己を納得させる為に張ったように聞こえた。緊迫とやるせなさが織り込まれた糸が捩れ、繊維がプツプツと千切れて最後の一線を分かとうとしているみたいだ。それを必死で堪えようとしている茉穂を、条件の引き金となった伶子がこれ以上責め立てられるはずもなかった。

「そんな顔して……何言ってるんですか……」

慟哭したい気持ちを、毛布を強く握り締めることで堪える。憤りで白ばんだ拳が震え出す。

(こんなとき、粛清とばかりにがなり立てるのは茉穂ちゃんの専売特許じゃないですか……)

目頭にじわじわと熱が滾り出す。しかし誰よりも辛いであろう茉穂が泣いていないのに、泣けるわけがない。

「それでシオン。あたし、いつ殺されるわけ?」

「………っ」

瞼を伏せ、唇を開いては噛み締めて、逡巡する冥界の皇太子。

下される宣告を、少女は固唾を呑んで辛抱強く待ち続ける。

「……不死原、本当に他に方法はねぇのか?佐保姫に頼る他に災禍を一掃するやり方、ねぇのかよ?」

「ウサちゃん、だからあたしは――――」

「いいわけねぇだろ!天秤に掛けなきゃいけねぇほどてめぇの命が安いわけあるか!」

眉尻を吊り上げながら瞳に激昂の色を乗せ、怒声を浴びせる教師に皆が瞠目する。

「ふざけんなよ。ちくしょう……」

同じ立場だからこそ、伶子も手に取るように彼の心情が理解できた。

後悔と忸怩で、己の無力さが堪らなく憎い。

茉穂の代わりに自分を佐保姫に。そう言葉が飛び出そうになっているのは、宇佐美とて同じだろう。しかし願い出たところで受理されないだろうことは想像に難くない。例え伶子と宇佐美、二人が命を差し出したところで茉穂一人の実力には敵わないのだから。

「……死ぬの、怖いよ。別に将来の夢とかそんな大層なもんないけど、あたしまだ十六だよ?そりゃ死ぬのは怖いって」

項垂れ、短い前髪をくしゃりと掴んで茉穂は細々と言葉を紡ぎ出す。

「でも……伶子もウサちゃんも、ちゃんとここにいて、生きてる。伶子があいつに無茶苦茶に乱暴されながら死ぬかもしれないって考えたときより、もしかしたらウサちゃんまで冥界から戻ってこなくなるかもって不安になりながら待ってたときより……自分の死を覚悟してる今の方が、気は楽なんだよね」

だから、と顔を上げた茉穂の頬を幾筋もの涙が滑り、滴り落ちる。

「だからもういいから。ぐちゃぐちゃと余計なこと考えんの、やめて……!」

ぼろぼろと泣きながら、無理矢理笑顔を張りつけようとしているのが痛々しい。手を伸ばして茉穂の頭を胸に掻き寄せる。親友の嗚咽に静かに耳を傾けていたら、自然と鼻を啜っていた。いつの間にか伶子もまた、涙を零していた。

ぼやける視界の隅で宇佐美とシオン、そしてソファーに横たわる七愛海の姿が揺らぐ。

起きて間もなく酷烈な事態を認識した所為だろうか。突然冥界へと連れられたときに比べれば軽症ではあるものの、再び眩暈と頭痛が蘇ってくる。精神的苦痛が身体にも影響を及ぼしているのだろう。

(精神……身体……肉体……考察……理性と本能……)

「………ぁ」

茫洋とした思考の中で一つ、閃いた。

荒っぽく涙を拭って顔を上げれば、ちょうどシオンと目が合った。

「不死原君。心とか意識みたいな、所謂精神を体外に取り出すことって可能なんですか?」

「……は?」

「桜原?」

伶子の突飛な発言に茉穂と宇佐美は首を傾げるが、シオンは驚愕に目を瞠った後にハッと息を呑んだ。

「そうか!幽体離脱……!」

「はぁ?!」

わけが分からないと疑問符を飛び交わせる宇佐美達に、至極真面目な面差しで伶子は述べた。

「茉穂ちゃんを死なせないで済むかもしれない方法です。聞いたことあるかもしれませんけど……魂が、肉体と意識の狭間にあるといわれる幽体を伴って肉体から抜け出すという心霊現象です」

「え、何、その非現実的な……」

顔を上げて戸惑いを見せる茉穂に「冥界や災禍が存在してる時点で今更だろ」と宇佐美がツッコミを入れる。

「幽体離脱はできるよ。ただ……これは俺の推測だけど、その状態で冥玉を使うとなるとやっぱり、体内摂取という形で能力を取り込んだ茉穂にしか活用できないと思う」

どちらにしろ、災禍と闘う運命は茉穂に転がってしまう。しかし明らかに違うのは命は保障できるということ。

「あたし、死ななくていいわけ?」

目の縁を赤く染めて茫然と見上げる少女に、シオンは大きく頷いた。

「長時間幽体を肉体から離すのは危険だけど、一晩の間なら大丈夫だよ。この方法なら学校にも通える。まぁリオンを納得させるには相応に働かないと後々煩いだろうけど」

「……上等よ」

紅を塗った唇が歓喜に戦慄く。茉穂は、今度は自分から伶子の胸に飛び込み再び大粒の涙を流した。



「伶子、今日も体育や部活は見学なんでしょ?」

「まだこの有様ですからね」

スカートの裾から伸びる包帯の巻かれた脚を見下ろしながら、伶子は肩を竦める。

これまでの戦闘では、どれだけ深い傷を負っていてもゲームが終了すれば怪我は軽減していたというのに、今回に限って全く癒えることはなかった。それも伶子だけ。

傷を負わなかった茉穂はともかく、宇佐美は案の定冥界の宰相と血の滲む争いを繰り広げたというが、通常通り闘いの終始を告げる虫が羽ばたいたような、あの不快感しか覚えない電子音と同時に裂けた傷は塞がったという。

(まさか音がゲームの合図だけでなく、治癒も兼ねてるってことはないんでしょうけど……)

もしそうならば隣に立つシオンが一言言う筈だ。その彼が申し訳なさそうな顔をしているのに気付き、大丈夫だと小さく微笑む。

伶子にここまでの傷を負わせたのが実弟の仕業ということもあり、穏やかに会話を交わしながらもシオンはこうして時折痛ましげな視線を向けてくる。気にしないでほしいと再三告げているが、ゲームが終わったにも拘らず怪我の治りがなかったことも起因して、伶子を視界に入れるときはやはりどこか畏縮しているように見えてならない。

(不死原君にも原因が分からないとなると、レオンの怨念としか思えてなりませんよ)

そんなことを考えながら伏目がちに嘆息を吐く。朝が始まって間もないというのにどっと疲弊を感じるのは、それだけレオンという男が伶子にとって脅威だからだろう。はらわたが煮えくり返りそうなまでの憤りを覚える反面、やはり恐怖心も付き纏う。

(もしもあの男の子どもを再び……)

身の毛のよだつ考えに背筋を震わせ、反射的に首を振る。大事に至ることはなかった。それだけでも不幸中の幸いだと己に納得させてやる。

「桜原伶子、足の怪我治るまで体育館には来んな。シューズに履き替えんのも一苦労なんだろ」

頭上から掛けられた言葉に仰いでみれば、憮然とした面差しの宇佐美に一瞥された。

事実、膝を深く曲げるのも辛かったりする。痛みを感じる度にどうしても顔を顰めてしまうので、それが彼の癪に障ってしまうのかもしれない。

しかしどことなく不機嫌そうなのは、話しかけた相手が苦手と認識している伶子だから、という理由だけではなさそうだ。

「じゃあお言葉に甘えて二、三日ほど休んでいいですか?」

煙草のフィルターに口付けて一つ頷く宇佐美の横で、茉穂が喜々した表情で身を乗り出してきた。

「ねねっ、伶子もシオンも放課後暇なら付き合ってよ。前行った喫茶店のストロベリーチーズケーキ!あれもっかい食べたいんだよね~。ワールド……何てったっけ?あの店の名前」

「“World cross”ならもうねぇぞ」

「ええぇ?!」

驚愕の声を上げる三人の生徒を順に見遣りながら、担任代理は紫煙を吐き出しつつ淡々と告げた。

「昨日行ったが、もうなくなってた」

「嘘でしょ~」と肩を落とす親友に胸中で同調しながら首を傾げる。

「移転か、閉店してしまったんでしょうか……?」

「閉店はまずねぇだろうが……もう逢うことはねぇ気がする」

かの店とは古い付き合いがあったという副担任は眉間に縦皺を刻み、唇を尖らせ顔を顰める。その渋面には仕方なしと言わんばかりの諦念が繕われていたが、眇めた瞳には薄っすらと悔恨と自嘲が滲み出ていた。

過去の伶子とよく似た容姿をした従業員と、彼女から片時も離れようとしなかったスコティッシュホールド種の猫。そして、宇佐美が常日頃口にしている嗜好品と同じ物を愛用していた店主。

『宇佐美をよろしくな』

会計を終えて店を出る間際、意味深な笑みを向けられながら紡がれた言葉。あのときにはもう、彼は伶子と逢うのはこれが最後だと察していたのかもしれない。

「そういえば茉穂、今日日直じゃなかった?」

好物のストロベリー味の品が食べられないことに膨れ面をしていた茉穂は、シオンに問われて抑揚なく肯定する。

「一限目化学だけど、実験器具の用意、しなくちゃいけないんじゃなかった?」

「……あ~!ヤッバイ、忘れてた!」

案の定、言われるまで失念していたらしい。即座に立ち上がった茉穂は「ちょっと行ってくる」と慌ただしく宿直室を出て行った。

「私、手伝ってきます」

「いや、俺が行くよ」

怪我人を気遣っての意図も勿論あったのだろうが、シオンは踵を返した刹那に伶子の肩を軽く叩いてから足早に去っていった。その後姿を見送ってから再び宇佐美を仰いだときに、想い人と二人きりになったことに気付く。

脳裏に浮かぶは、深夜の校舎、蛍光灯の光が注ぐ階段でキスを交わした場景。好きと告白し、宇佐美の肩に手を掛けて背伸びをし、ほんの僅かな時間唇を触れさせ合った。

(そ、そういえばあれから宇佐美先生と二人きりになるの、初めてなんですよね……)

状況を理解した途端、頬に熱が集中してきた。それを隠す為、顎を引いて俯き、耳元の髪を撫でつけたり、上着の裾を引っ張ってみたりなど、緊張のあまり無意味な行動をとってしまう。さぞかし宇佐美の目には挙動不審に映っていることだろう。

(や、やっぱり私も茉穂ちゃんの手伝いに行けば良かったです……)

さすがに居た堪れなくなり一歩、二歩と後退りしたときだ。

「桜原伶子、ちょっと来い」

「はいっ!」

背筋を伸ばしてぎこちない歩き方で窓枠ギリギリまで近寄る。すると煙草を灰皿に押し付けた宇佐美が身を乗り出してきた。間近で見下ろされて思わず肩が跳ね上がる。

「悪かったな」

「え?」

「ゲームに巻き込んだことだ。しかも俺が目を離した所為で、お前は冥界で死にかけた」

「先生の所為じゃないです!ゲームに首を突っ込んだのは私の意思ですし、レオンに攫われたのだって

私の油断です」

気に病む必要は全くないのだと、眼光を鋭くして言外に告げる伶子の視線を受け、宇佐美は軽く目を瞠った。

ほんの少し間を置き「そうか」と呟いた数学教師は、普段授業中に見せる傲岸不遜な態度を露わにする。

「そうだよな。俺が余分に持ってた冥玉を勝手に使用するわ、災禍に追い詰められて殺されかけるわ……お前、結構俺の足引っ張ってたもんな」

「う……」

ニヤニヤと、それはそれは愉しげに笑う担任代理を前にして伶子はたじろぎを隠し切れない。

思い返してみれば、確かに危急存亡の場面で救われたのは一度や二度のことではない。けれどもそれは宇佐美とて同じはずだ。

(そもそも冥玉も、元は私が三年前にレオンから渡されるはずだった物ですよね……)

眼前にいる教師にそれを述べれば、上機嫌が一気に急降下するのは明らか。これからの授業に影響を及ぼすのは好ましくないので、ここは黙ってしおらしく肩を窄めるに留めた。

「……でも、サンキュ」

前髪を長い指先で梳かれたそのとき、校庭に設置されているスピーカーと校舎の内側から、予鈴のチャイムが響き渡った。その傍ら、グラウンドを使用していた運動部員の怒声、上階の開かれた窓から漏れてくる喧騒、微風に煽られた葉が揺れる音などが耳に入ってくる。

しかしそれらに気をとられたのはほんの僅かな間だけ。

伶子の意識を一番に占めているのは、露わになった額に当たる柔らかな感触だった。

「……ぇ……?」

離れていく宇佐美の顔を視線で追いながら、おそるおそる触れられていた箇所に手を伸ばす。

「俺を落としてぇなら女磨け。とりあえず額にキスしてやる程度にお前のことは認めてやってるんだからな、伶子」

片側の口の端を持ち上げ、眦を眇めて不敵な笑みを模りながら「SHR遅れんなよ」と投げやりに言葉を投げかけると、宇佐美は窓にロックを掛けて宿直室を後にした。

(名前呼び……それにキス……)

堪らず両手で顔を覆えば、蒸気を発しそうなまでに熱が孕んでいるのを自覚した。鏡でわざわざ確認せずとも、頬だけでなく耳や首筋……もしかすれば全身赤らんでいるかもしれない。胸の奥底から咽頭を通って歓喜が湧き出てきそうだ。いっそのこと寝転んで足をバタつかせて悶えたい。

(嬉しい!嬉しいですけど、本当に喜ぶにはまだ早いです)

グリル・パルツァーの名言、額のキスは友情の証。

数学教師である彼がそれを熟知していたかどうかは知る由もないが、卒業までにはまだ時間がある。焦らずともゆっくり時間をかけて口説き落とそうではないか。

そよぐ風を受けて顔を上げたそのとき、視界に桃色の影が過ぎった。掌を天に返すと、吸い込まれるように落ちてくる。

「桜の花びら……」

校庭に埋められたカスミザクラは、見渡す限り既に葉桜へと移り変わっている。この一枚は辛うじて枝に残されていたのだろうか。

舞い降りてきた桃色の花弁を一瞥し、優しく手の内に握り締めると、伶子は下駄箱へと歩き出した。

教室に着く頃にはもう、不機嫌な顔をした想い人が待ち構えているかもしれない。その表情を脳裏に思い描くだけで、自然と心は温かかった。




―― 完 ――

其の壱を投稿して一年。

執筆当初は中篇予定で十話前後、半年ほどで完結できたらいいなぁと考えてたんですが、ずるずるずるずる……一年もかかってしまいました(汗)

春風戦華を楽しみに読まれてるという方がいらっしゃれば申し訳ありませんでした。完結まで長くお待たせしてしまいました。


春風戦華の続編や番外編の予定は今のところありませんが、作中に出てきた“World cross”、彼らを別の作品で登場させる予定はあります。おそらく今回のように当たり障りないサブとしてでしょうが(笑)


遅くなりましたが、ご愛読ありがとうございました。



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