デリカシーが
プツン、と何かが切れるような。
微かな音を、その場にいた三人と一匹の蝶が全員聞いた。それは後悔の念がなくなったことで、演出家と役者を繋ぐ糸が切れたのだと、蝶の八神が説明した。
もう一度演じてもらう。
台詞を読み上げてもらう。
ただそれだけの形式ばった行為が、お姫様の霊体を繋ぎとめていた糸を消し去ったのだそうだ。
という説明を暗転した黒い色の中で聞いて、再び明るさが戻った時、そこはもとの図書館だった。分類番号を振り分けたラベルのついた本が、物言わず書棚に整列している。
ふいに足下の感触が柔らかくなり、床に落ちていたステンドグラスごしの光が消えている。
「終わった…?」
時間にしてみても十分や十五分の出来事であって、そのあっけなさに七春は短く息を吐いた。
立ち上がる。
教会奥の祭壇前だったはずの場所は、どうやら書棚と書棚の間の通路だったらしい。
「八神くん?」
一番頼りになる人を、探し求めて歩き出す。
並ぶ背表紙をなぞっていって、視界が開けたところに彼はいた。
煽子の頭の上くらいか。空中をパテパテ飛んでいる。
「あ、センパイ。」
とこちらに気が付き飛んで来るので、止まり木の代わりに指先をのばす。
「お姫様は?」
その指の上にとまった蝶に尋ねた。
「縛るものがなくなったので、自力で霊道を通って元の体に帰れるはずです。今は、あっち。」
と右側の羽だけ動かすという器用なことをする。示された方向へ視線を向けるが、そこには何もない。
窓はあるが。
四階なので、当然そこに人の姿はない。暗闇に周囲の建物の明かりが浮かんでいるだけだ。
七春には何も見えないながらに、八神が言うからには、そこに霊の通り道があるのだろう。
視えないだけで、そこには首のない男や、ウエディングドレスの女や、血まみれの女の子などなどが、歩いているのかもしれない。
「いいのか?もう行っちゃうらしいぞ。」
今回の騒動のキッカケとなった、演出家の少年に声をかける。ボケラッと突っ立っているのは、まぁ、怪奇現象初心者では仕方ないか。
「あ、はい、大丈夫です。」
と二拍遅れて返ってくる。
「あとは、霊体ではなく、ちゃんと彼女自身と話をしてみます。」
「そうか。」
君の霊体、俺が繋ぎ止めてたよー、とはさすがに言えないだろうが。この様子なら、今後は同じようなことにはならないだろう。
いつか、彼が完成させた舞台を見れる日が、きっと来る。
「とりあえず、無事に片付いてよかった。最初に気がついてくれた煽子に感謝だ。」
「はい。ありがとう、煽子ちゃん。」
お礼を言われた煽子は、どこかつまらない顔をしている。
芝居が肌に合わなかったようだ。
「どういたしまして。」
答えた煽子に微笑み返し、演出家の少年は、続いて七春に向けて深く頭を下げた。
「アルカナさんも、本当に有難うございました。自分じゃ絶対どうにもできなかったし、それ以前に気が付かなかった。今日、アルカナさんや煽子ちゃん、ルエリィの中の人に出会えて、本当に良かったです!」
「今度こそお姫様と仲良くな。」
「はい。」
なんかいい感じに話がまとまった。
大団円の運びだ。
「よし、じゃあ……あとは帰るだけ。」
その時。
ふいに階下から、甲高い悲鳴が聞こえた。
「きゃああっ! 何これ、本がメチャクチャ!」
「えぇえ! なにこれ!」
「誰が床にバラ撒いたの!?」
人の声が聞こえるということは、消えていた館内の人たちも、元に戻ったようだ。三人と一匹以外の気配を感じるのも久しぶり。
いや。
それどころではない。
「総出で片付けないと。誰よ閉館真際に…」
「……私、館長呼んできますね…」
司書の人たちだろうか、少し騒がしい。声が遠い。二階だ。
吹き抜けは声がよく通る。
「八神くん、まさか。下の階の本って…」
マッキーに八神の霊力を伝えて、撃ち落としたやつです。
「もちろん片付けてないのでそのままでふよ!では俺は先に体に帰ってますので、この辺で!バビューン!」
わざわざ自分で飛び去る効果音までつけて、八神は蝶とは思えないスピードを出して、彼方へとぶっちぎって行った。
メチャクチャ速い。
「逃げるなよおぉ八神いぃぃ!」
血が出るほど下唇を噛み締める七春。
しかし数秒で正気に戻ると、外付けの非常階段のある方へ駆け出す。
こちらも凄まじい殺気をはらんだスピードだ。
「急げお前ら!俺達も逃げるぞ!」
急げお前ら!俺達も片付け手伝うぞ!とは口が裂けても頑なに口にしない七春さんでした。
逃げた。
帰路につく、七春と煽子。
七春の自宅に向かい走る車。車内は静かで、最低限のエンジン音だけが空間を支配していた。
幅の広い車道を走る。両側には店舗やビルが並び、街灯が明るく照らしている。
助手席でシートを倒し横になっている煽子は、眠りの世界と現実の狭間を行き来していた。
見上げればそこには、車窓から入る光に照らされる七春の横顔。ハンドルを握る手が大きくてカッコイイな、とふと思う。
夢みたいだ。
本当はもう寝てるのかもしれない。
「ナナハル」
と呼びかけた自分の声が眠そうだ。
「ん?どした?」
静かに、優しい声で七春が言葉を返す。
その眠そうな声に気がついているからなのか、どこか生返事だ。
もー、ちゃんと聞いてよ、と思いながらもまぶたが重い。
「アタシ、今日はナナハルと図書館に行けて嬉しかった…」
なんか思ってたのと違ったけど。
ドキドキもしてないけど。
それでも、
「演劇をするナナハルが見れたり、車に乗せてくれたり、なんだか今日はナナハルがとっても近いよ…。」
今いるこの場所から、白詰郷は随分遠い。あのウエディングドレスの生霊が、自分を呼んでくれたのだと信じたい。
「今日はありがとう。ナナハルのこと、アタシ結構……スキなのよ。」
ここはどこかの交差点。
すれ違う車のヘッドライトが、街の明かりが、複雑に乱反射している。運転席の七春の顔が、その光に照らされてきちんと見えない。
何故かその不確かな世界が、意外と心地良くて。
ちゃんと七春の顔が見えなくても、今は本心は知らなくてもいいと思った。
「返事はいいからね…。」
そして煽子は、蕩ける世界へ墜落していった。このまま二人を乗せた車が空港まで走っていって、そこからパリに行けたらいいのにな。
パリが無理ならローマでいいけど。
どこか、二人だけで知らない場所に行きたい。
堅実に自宅に向かって車を運転しながら、
(煽子、寝言多いな……)
とか思っているので、七春さんはデリカシーが足りない。




