普通の女の子
帰りたいと思うことがある。
別に四年後のあの時間にとか、そういうことじゃなくて。私物を取りに自宅に帰りたいとか、道具を取りに祖母の家にとか。
自分が今最善を尽くす為に、必要なものを手にしたい。
元の時間に戻ることを諦めているわけではないけど、それどころではないと思っている自分がいる。
要するにお人好し?
いや、危機を救われた恩人に、恩返しをしているだけ。
私が雪解を助けなくちゃ。
「雪解はどこ!」
苛立ちが抑えきれずに口をついた。
広い神社のお社の中、木造りの床をシリカは裸足で走っていた。
一応服はいつもの黒いドレスに着替えたが、足下まで気にしている余裕が無かった。昨夜、あんなにも何かに怯えた様子だった雪解が、朝になって見当たらない。
部屋には襲撃の爪跡が残っていたものの、何の気配も感じなかった。何を隠そう、シリカはぐーすか寝ていたので。
普通、物音とかで起きそうなものだが。
とにもかくにも、まずは無事を確認しようと、雪解を探している。
建物の造りがよくわからない。襖の奥にまた襖。諦めて廊下に出たりしているうちに、現在地すらわからなくなってきた。
(落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて)
一人ではなんにもできない子供ではないのだから。気ばかり焦るのは確かだか、足を止めて深呼吸。
(雪解を見つけるのよ。)
どうしたことだかわからないが、雪解の巫女としての不調に比例するように、街は悪霊の出現が相次いでいるらしい。
徐々に可怪しくなっていく世界と霊界のバランスを正そうと、神社にいる霊力の強い人間たちは、総出で浄霊の依頼に当たっている。
人が出払った建物の中は、薄暗く、肌寒い。
季節は夏、屋外の気温は三十をゆうに越しているのに。この素肌を撫でていく奇妙な風はどこから来るのだろう。
不自然に動く畳、足をつかむ木板の床、カタカタと音をたてる天井、無限のループに迷い込ませる襖。
描かれた菊は、首が落ちている。
「雪解!いたら返事をなさい!」
声を張ってみた。
特別広い空間でもないのに、声が曲がりくねって響く。
「雪解!三秒以内に返事をしないと、貴女の嫌いな蝙蝠が行くわよ!」
脅してみる。
返事はない。
引き返せば廊下。角部屋だ。左は壁。奥にまた襖がある。
天井の板が大きく軋む音をたてた。ネズミか猫か、何かいるみたいだが、構っていられない。
手筈通りに、頼むわね……
誰かの話す声。
あぁ、いや、雪解だ。雪解の話し声がする。
「………雪解?」
問いかける。
声が止まった。話を終えたというよりは、シリカの呼びかけに気がついて、口を閉じたという風だ。
まるで見つかることを避けているような。
何で。
「雪解? 居るんでしょ? 開けるわよ!」
再度呼びかけても返事がないので、仕方なく襖に手をかけた。何故だかヒンヤリと冷たいので、触った瞬間に心臓が縮む。
スウッと戸の滑る音。
敷居の向こうに雪解はいた。
特別変わったところもなく、ただ、畳敷きの部屋の中央あたりに座っている。
キチンと巫女服に着替えていて、正座する彼女の前には、巻物がひとつ広げられていた。雪解は筆を持っていないが、巻物にはびっしりと墨の文字が並んでいる。
怪我をした様子もなく、争った形跡もない。
誰かと話しているのかと思えば、座っているのは雪解だけ。他には誰も見当たらなかった。
何かが奇妙だ。
そう思いつつ、無事でいたことに安堵する。
「シリカさん。そんなに慌ててどうしたんですか。」
雪解が驚き目を丸くして問いかけてくる。雪解が驚くなんて、変な話しだが。こんなにも感情を素直に出している雪解を、見ることがあるなんて。
全く呆れてモノが言えないので、返事の代わりに長く息を吐いた。
「なんともないわけ?」
開けた襖の戸に寄りかかる。
首の後ろに変な汗をかいてしまっていて、二つにくくった髪を軽く払った。冷たい空気が、ほんの一瞬首筋を撫でる。
脱力していく体を、立たせておくことに全神経を注いだ。
「心配したじゃない。」
奥の間のため、外の光は届かない。
古風な室内照明を傍らに置き、雪解は薄ぼんやりした光の中にいた。無事だ。
再三確認するが、生きている。昨夜怯えていた何者かに、襲われたわけではないようだ。
「シリカさん、私を心配してくれたんですか。」
「当たり前でしょ、昨日の今日よ? それなのに貴女ときたら、こんな時に写経だなんて呑気なものね。」
雪解の膝下に置かれた巻物には、たくさんの文字。どこかで見たような気がする。
雪解はそれを真っ白い手で救いあげて、クルクルと巻いて紐で止めた。じっくりと観察する。
「我ながら上手く出来ました。巫女である以前に私も人間。怪しものを造り出すこともできるのですね。」
明らかに、異様な発言をした。
雪解は薄く笑っている。
「雪解……貴方、今なんて言ったの?」
「神の力を抑える怪しものです。私の残り少ない霊力と、不安と、絶望と、やこーくんへの想いで出来ている。これを使えば、無理矢理でも神域に入れるはずです。」
怪しものとは。
雪解が戦い続けているもの、回収すべき対象であると聞いていた。実際シリカも、その怪しものに取り憑かれた少年を目にして、危険性は承知の上だ。
それを雪解が、巫女自らが造り出すなんて。
「おかしくなったの? 本当は何かあったの? 前も言ったじゃない、一人で抱えこんじゃダメだって!」
「一人じゃないですよ。シリカさんにそう言われたから私、ちゃんと全て話したんです。信頼できる霊獣に伝えて、今、土地神様のところへ伝令に飛ばしています。」
「え?」
意外な返答に、今度はこちらが驚かされる。
頑なに一人で解決しようとしていた雪解が、心変わりをするなんて。何もないところに向かって投げていたはずのボールが、思いの他、返球されてきたような。
今日は妙に遠く感じる雪解が、またほんの少しだけ近くなる。不自然な距離感。
「そう。雪解、ちゃんと私の話を聞いてくれたのね。」
「相談はしました。だけど、それはそれとして、私は私にできることをします。今から神殿に行きますので、シリカさんは此処にいてください。」
「そうはいかないわ。事情は伝えたのだから、土地神様が戻られるまで、貴女も下手に動かない方がいい。」
「私には時間がないのです!」
そう言った雪解の背後で、ガタガタと襖が揺れた。風が強い、と認識しかけて、風の届く部屋ではないと考え直す。
すると襖を揺する何かは、この襖のすぐ裏に張り付いているということだ。
「……なに?」
問いかける。
「もう入ってきた。…やはり時間の問題ですね。」
畳に布の擦れる音がして、見れば雪解は巻物を持って立ち上がっていた。そのまま背を向けてしまう。
雪解が口にした神殿というのは、神社の敷地の奥にある小さな社だ。一度外から目にして、雪解にその場所について質問したのを覚えている。
(一人では行かせられない。)
もしょもしょと動く雪解の背中を、シリカも追いかけることにした。
ピチピチと、鳥が鳴いている。
なんだ、平和だ。
白い砂利を敷いた境内を歩く、雪解の後ろを追いかける。天気の良さに騙されているけれど、事態は極めて深刻なところまできているはずだ。
(巫女の力が消えて……敵に攻め入られて……自らが怪しものを造って……神域を侵す……。絵に描いたような転落人生ね…)
急斜面を滑り落ちていくように、縄が首を締めつけていくように、ジワジワと雪解の足場は無くなっていく。
事の発端になった雪解の想い人は、まだ意識が戻らない。
「シリカさん。」
ついてきているのは知っていると言うように、とってもナチュラルに話しかけてきたので。
「はあい?」
なんとなく、返答してしまう。
巻物片手に歩く雪解の姿に、これまでの凛とした彼女の面影はない。ただブラっと歩きに出たというような、どこか気だるい様子が滲みでていた。
常に後ろに倒れないかと心配なくらい真っ直ぐだった背筋も、どことなく猫背だ。
ダラダラ。
と、している。
「天気がいいですね。」
また突拍子もない。
雪解らしくない話の振り方だ。よほど聞く価値のある質問でない限り、彼女から話しかけてくることなど、滅多にないというのに。
「そうね。…ねぇ、ホントに神域に入る気なの?」
「もう決めたのです。」
晴れ晴れとした口調で、そんなところも彼女らしくない。例えば不思議の国のアリスなら、鏡の世界に入ってしまったみたいだ。
何かがおかしい。
ということに気がついているのに、それが何だかイマイチ確信が持てない。
拝殿を左手に歩く。その先には本殿が繋がっていて、さらに先には敷地を囲う塀が見えてくる。
巫女の使う神殿は、そこからさらに右。小さな池にかかった朱い橋を渡った先にある。
「戻って来れなかったら、…どうするの?」
言ってから、聞かなければよかったと思うから遅い。
その質問には答えず、雪解は何故かふいに笑い出した。
「シリカさん!私ね!」
トタン、トタン。
と、楽しげに足踏みして、橋の上で雪解が振り返った。サラサラの髪が、空気の中で楽しげに踊る。
「やこーくんたちと過ごす時間が、好きなんです!」
「そう。」
「巫女としての教育を受けて、小さい頃から生きる道が決まっていた私は、人間らしいところが何もなかった。でも、やこーくんは私の傍にいつも来てくれたんです。」
朱い橋。紅い袴。赤い瞳。
血で塗ったような世界だ。
「そして、これからも一緒にいてくれようとしている。怪しものが無くなることはないし、巫女の使命から開放されることはなくても。やこーくんと居る時間は、大切にしていきたい。」
「そうね。」
「だから私、やっぱり巫女に戻りたいし、そのために自分の全てを賭けたいのです。」
生真面目に生きてきたことが、肌から滲み出ているような彼女が。命を賭けて取り戻したいと初めて思ったのは、やはり巫女の力。
水の匂いがやけに濃い。神だ霊だに関わって生きていると、そんなことにも意味があるような気がしてくる。
きっとこの場所に棲むものは、雪解の背を押している。
「……先の質問と重なるけれど、戻れる勝算はちゃんとあるのよね」
「はい。」
「ならもう、好きにするといいわ。負けたわ、雪解。貴女って、普通の女の子なのね。」
誰かと一緒に生きる未来に、疑いなく手を伸ばす。
初めて女の子らしい強さを見れた。今までは、何か違った彼女の強さに、惹かれていたけれど。
橋を超えれば、また砂利敷きの地面。石畳があり、その先に神殿が現れる。階段の上に、格子扉。
太陽が斜め左上だ。
大袈裟に空が曇ったりとか、嵐が来たりとかしないらしい。世界は我関せずを貫くようだ。
好きにしてください。ウチの雪解だって好きにさせてもらう。
「じゃあもう、サクッと行ってしまいなさいよ。鏡をとってきて、巫女の力を頂戴して、出てくる。お墓を荒らすのだから、礼儀正しく、姿勢は低く、謙虚さを全面に押し出していくのよ。」
そんな背中の押し方も、なんか変だが。
同じことを考えたのか、雪解も微かに笑った。普段なら息を吐いたようにしか見えないが、今日は笑顔に見える。
ここに来て感情を出せるようになったことが、希望の前兆だといいが。
(でもそれが、……感情を隠すことすら諦めているようにも、見えるわよ。)
不安も入り交じる、平日。
四年前の直射日光の下だ。
「私が無事に帰ってきたら、シリカさんが元の時間に帰る方法を、一緒に探しましょう。」
「貴女って、真面目なのね。こんな時は自分のことだけ考えるものよ。」
「私が力を取り戻せないと、土地神様が戻られた時、ホントにやこーくんが殺されてしまう。でも、保険はかけましたから…、大丈夫ですよね。」
「こら、言ってる傍から。」
心配ごとは、あとからあとから出てくるので。
「もう行きなさい!」
母親のように、シリカが叱りつけた。
ここからが、彼女の本当の戦いだ。




