それともゴキ…
「誰か、います。」
言って、布団を持ち上げ体を起こす。
雪解だ。
深夜の二時。音がない。
空気は冷たいのに、肌着の下は汗でびっしょりだ。不可解な重力が働いているようで、布団の上から動けない。
二方を障子で、他二方を襖で仕切られた和室。迫る天井に、落下する畳の床。
部屋の中央に布団を二組、並べて敷いている。障子側に雪解。隣はシリカだ。
「誰……?」
自分の発した声すら頼りなく、数センチ先で途切れてしまう。
何かの気配が、見え隠れしていた。
(部屋の周りを…)
何かがぐるぐると周回している。
すごいスピードだ。首を振って追うまでもない。
耳を澄ませないと聞こえないが、外から草を踏み分ける音や、室内から畳を擦るような足音がする。
アーハハハハ……
甲高い笑い声。女だ。
ぐるぐると部屋の周りを回りながら、雪解を嘲笑っている。
「また来た……」
腹のあたりまでかけた布団の端を、キツく握りしめた。その手のひらにも、汗が滲む。
「私に巫女の力が失くなったから、外の結界が効かなくなってるのですね…。いいえ、結界だけじゃなく、もうなんの力もない。」
『雪解を護る』をキャッチフレーズに掲げていたはずの少年、八神夜行が引き金を引いた一連の騒動。
自身が怪しものに憑かれることで、複数人の巫女の力を奪うという暴走。それが起因する雪解の巫女としての力の喪失。
続く問題は。
力を失った雪解に迫る、人影。
「身を護る術はもうない。護り手も倒れてしまった。私に後はない。もう……お好きになさって。」
死ね…! 死ね…! お前は死ね…!
前から後ろから刺すような殺気!
それがまさしく台風のような衝動をはらんで、近づいてくる。
部屋の周りをぐるぐるしながら、あらゆる方向から痛い視線を刺してくる誰か。
凄まじい勢いで移動する。空から降るような笑い声。誰から自分へ明確に向けられた、あからさまな恨みの念。
「……っやこーくん!」
真っ暗闇の孤独な部屋の中、雪解は震える自分の体を強く抱き締めた。
祈るような想いで。
ホントは怖い。
助けて!
殺してやる! 殺してやるぞぉ!
部屋の四隅から、障子の隙間から、畳の間から、来る!
あの女が来る!
次第に障子の和紙を突き破る音や、襖を叩きつけるような音も混じり始めた。
どこからか、強い風が吹きつけてきて、雪解のおろした髪が暴れる。迫り来る戦慄の一夜。
ドタドタと、床を踏み鳴らす音が、もう、そこまで来ていた。
殺しに来る!
あの女が来る!
「きゃあぁぁぁぁ!来ないでえぇぇ!」
自分の悲鳴すら掻き消されるほどの、それは深い憎しみだった。
「うるさあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁい!」
その闇を、シリカの大声が遮る。
同時に電灯の紐を引っ張って電気をつけられた。
殺気も、笑い声も、音も、すべてが、全く違うレベルの大音量に吹き飛ばされ、南極の彼方に飛んでいく。
「貴女って、ホンットに寝る時うるさいわね!隣で寝てる私の身にもなってよね!?」
と言ったのは、隣で寝ていたシリカだった。
「寝言なのか独り言なのかわからないけど! う・る・さ・い・の・よ!」
わざわざ一文字一文字区切るように言う。
言うというか、隣の雪解をビシリと指差して言いつける。
しばらく雪解は何も言わないで、そのシリカを見つめていた。口も目も開いたまま、ただ唖然としている。
「……ごめんなしゃい。」
音が、気配が、今のシリカの声で全て掻き消えたことを確認してから、ようやく雪解は口を開いた。
巣から落ちた雛鳥のようなか細い声で一言謝る。
「悪い夢でも見たの?」
「いえ…。」
「じゃあ、静かに寝て。」
言ってシリカは、金色の髪をひらりと揺らして、また体を横にしてしまう。
「待ってぇ。シリカさんっ!」
そのシリカの髪を雪解が両手で掴んで引っ張った。
酷い。
「ちょっと、痛い!何!?」
「寝ないでください!一人にされると怖いです!」
「はあ? 貴女、今いくつ? 子供みたいなこと言わないでよ!」
「ですが、今は一人になるのはよくないのです!」
これほど自分勝手な、そして何かに怯えた様子の雪解は珍しい。たぶん一生に一度あるかないかだ。
その普段とは違う素振りに、少し考える間をおいてから、シリカは大きくため息をついた。体を起こす。
「……わかったわよ。何がそんなに怖いの?」
霊能力を生業にしていたシリカにとっては、雪解と同じように浮遊霊や悪霊を目にしたりするのは、日常によくあることだ。
それと同時に、同職者を見ればある程度その力も計り知ることができる。
その点からふまえ、この部屋に、およびこの部屋の周囲に、雪解ほどの実力者を脅かすような存在は感じとれない。
このところ気苦労が多かったことを考えると、むしろ穏やかなくらいの夜だ。心身ともに休ませることができるのを、夜の帳に感謝したい。
「私には何も感じられないわよ。」
「違うのです、違うのです。先程までいたのです。シリカさんの大きな声で逃げ出したようですが、必ずまた来ます。」
なんだかよくわからないけれど、握った拳を一生懸命に上下に振って、雪解が力説している。
眠さに頭をコックリコックリさせながら、その説明を聞くシリカ。行き当たりばったりに雪解の家に転がり込んだシリカは、雪解の仕事を手伝いながら、なんとか生計をたてている。
突然、自分の置かれている環境がガラリと変わっての生活は、想像以上の苦労と疲労を、シリカに与えていた。
要するに疲れている。
「それは霊ではないの?」
「生きている人間とは違いますが、おそらくその人は、死んではいません。」
曖昧な雪解の説明。それではどちらともつかずだ。
「はぁ…なんでもいいけれど、貴女をここまで怖がらせるのは、台所の害虫以来初めてね。」
雪解は台所の害虫が大嫌いである。だって気持ち悪いんだもん!
ちなみに煽子は丸めた新聞で容赦なく叩き殺すよ。
「アレはアレで最高級に手強い敵なのです! ですが、アレほど怖くはないけれど、こっちも恐ろしいものなのです!」
「結局、人なの? それともゴキ…」
「いやあぁぁ! その名前は呼ばないでください! 呼んだら来ます。」
名前を呼んではいけないあの虫。
「人だったもの、です。実はアレに、だいぶ前からつけられている気がしていたのです。今までは結界や経の力で祓えていたのですが…」
雪解が言葉を濁らせる。
その先を予想して、シリカが先にそれを告げた。
「巫女の力が失くなって祓えなくなった、というところかしら?」
外は月のない夜だ。
電灯の明かりが照らす雪解の顔は、不安を通り越して完全なる無表情に突入した。焦らされるような、何かがたてるジリジリという音。
「巫女の力と霊力は別じゃなかったの?貴女はまだ霊が見えてる。」
「見えるだけで、力はかなり弱まっています。」
と返す声は落ち着いている。
人というものは、度をすぎると感情を喪う、或いは無意識に感情を押し殺すことがあるのだ。雪解も必死に、恐怖を殺そうとしている。
柔らかい布団の上は心地よく、眠気を誘ってくる。頭がうまく回らない。
「力を取り戻さないと、今まで祓えていたものに殺されるかもしれないってことね…。どうしたらいいかしら。」
流れる金髪を、指先でかきあげる。
落ち着かない状況下での、シリカの癖だ。
「私……」
夜がふける中、おもむろに雪解が言葉を発した。
閉じかける目を押し開いてシリカがその顔を見つめるも、雪解の視線はここにはない。
どこか遠くだ。
「私、……神域に入ってみようかと思います。」
「はい?」
いい加減眠さが勝ってきたことと、雪解の理解できない発言に、たまらずシリカは不機嫌に聞き返した。
「もうすぐ土地神さまは外出から戻られます。どのみち、そうなる前に力のことはどうにかしないといけません。それならもう、今しかないと思うんです。」
「それは確かだけれど、貴女、どうするって?」
「神域に入ります。」
「冗談!」
シリカがこの時間に落ちてきた日のこと。
その日はとてもよくある忙しい朝で、浄霊の仕事の後、夜はまた別の仕事で、どこぞの声優の心霊番組に同行していた。いたって普通の夏の日のことだったのだ。
シリカがこの四年前の時間に落ちてきたのは、神域に落ちたからだと説明を受けた。そしてその説明をしたのは、他ならぬ雪解だ。
「神域に入ると、どこだか違う時空に飛ばされるとか言ったのは貴女じゃなかった?」
「いいえ、正確には違います。神に招かれざるものが入ると、神域から弾き出される。その先がどこに繋がるのかが、わからないという話しでした。」
「それで?」
「弾き出されないように工夫します。上手く神域に入ることができれば、喪った力のことは、どうにかなるかもしれません。」
話の先が見えない。
「よくわからないんだけど、神域の中に一体何があるというの?」
「これまで集めた怪しものは全て、神域に安置されています。そしてその更に奥には、歴代の巫女のお墓がある。」
「お墓?」
雪解の目はまだ遠くを見ていた。
思いだす。雪解と拝殿の前の階段に座って話しをしていた時も、同じ目をしていた。
過去を見ているのか、迎えられるはずだった未来を空想しているのか、それはわからない。
「一度神域に収めた怪しものは、キチンとした手順をふめば、こちらの意志で操れる。あの鏡の怪しものを、もう一度取りに行きたいのです。そして、お墓に眠る巫女から、力を奪ってくればいい…」
いつもと変わらない口調だったので、一瞬、言葉の真意をはかり損ねた。
異常な発言だと気がついてから、あわてて彼女の肩を掴む。
「待って。今の貴女はとても変だわ。」
彼女らしからぬ発言だ。
綺麗な輪郭の頬に手を当て、顔をこちらに向けさせる。相変わらず表情がない。
「死んだ巫女から力を奪う? 正気? 私ちょっとお墓荒らしてきますねって、言ってるようなものなのよ?」
そして雪解の今の発言は、限りなく非人道的だ。
何を言い出すかと思ったが、そんな道に外れた手段は、この女にはできっこない。
分かっているから、すっかり呆れて、シリカは大きく息を吐いた。
ようやく雪解から目を離し、周囲をうかがう。特に霊の類の気配はない。物音一つない部屋の中、障子の影も二つだけだ。
「早く寝なさい。明日また、落ち着いて考えましょう。」
「シリカさん……」
「今日の貴女はとっても変ね。でもそれはきっと、疲れているからだと思うわ。明日、改めてしっかり考えれば、きっと違う答えが出る。」
そして彼女の両肩をトーンと押して、布団の上に押し倒す。心配するほど軽い雪解の体がコテンと倒れた。
「あう。」
「はい、そのまま。そのまま。」
と上から布団をかけてしまう。頭の先までかけてしまう。
埋没。
「暗いです。」
とかなんとか雪解が布団の下から言った気がするが、聞こえなかった体で、シリカは電気を消した。
自分も布団に体を倒す。
「タロットも私の十八番。明日、貴女の未来を占ってあげるわ。きっと、この先どうするべきかがわかる。」
だから今日は早く寝なさい、と続けた。
室内は再び明かりと音がなくなり、静寂が支配する。
雪解も静かになった。
(神域に入って怪しものを使う。雪解にそんなことは出来ない…。例えすでに死んでいるものであっても、誰かを傷つけるくらいなら、自分の力を諦める子だわ…)
まだ関わった時間は短いが、それくらいのことはシリカにもわかる。雪解とは、それほど人に信頼を寄せられる、独特の魅力をもった少女なのだ。
彼女のことなら信用できる。そう思わされる何かがある。
その後も朝を迎えるまでに、シリカは三回起こされた。
どれも今回同様に、見えない何かに激しく怯える雪解の声に起こされる。その度宥める行為を行うしかなかった。
シリカには視えない、雪解に襲いかかる何か。
それはいつまでも雪解を執拗につけ狙い、油断する隙を与えてくれないものだった。
精神的疲労を蓄積していく雪解を隣で見ていると、回数をおうごとに体力を消耗していくのが見てとれる。
お願い、早く朝になってあげて。




