ざーいーあーくーかーん。
止まった時が動き出すことはないだろう。
雪解も、そして初春も芽吹も。
亜来は扉を叩くのをやめた。果てしない氷結の壁が目前に現れたような気分だ。
考えてはいけないとわかっていても、頭に閃いてしまう。
(この人達の心を解かすのにどれだけの時間がかかるだろう)
少なくとも前例として、八神が四年もかけた上で挫折している。
時間の流れに疎外された人達。
扉の向こうに声をかけるという、たった今までしていた自分の行為に疑問を抱く。
これだけで心の扉は開かないだろう、さすがに。回数の問題ではないだろうし。
ああ、なんか壁にぶつかった気がする。
「私は私にできることを。」
こういう時は本音と反対のことを口に出すとイケる気になるという自己暗示。
小さな石橋の上で、何か死んでいた。
七春だ。
うつ伏せの状態で、石の地面に頬をつけている。その奇妙な死体を見つけて、スーパーのレジ袋を下げた通りすがりの八神は、
「なんじゃこら。」
とつぶやいた。
ついさっき拾って、嬉しくて持って帰ろうとしていた猫じゃらしを取り出す。
そしてその先っぽで、七春の遺体をつくつく突いてみる。
「う………」
と小さなうめき声をあげたところ、どうやらまだ息はあるらしい。
丁度、陽が落ちきるところだった。
ここからは光よりも闇が勝り、あらゆる世界を繋ぐ扉が、開きやすくなる時間帯だ。
「こんなところで、なにしてるんですかー?」
と言いながら、さらに猫じゃらしでつくつく。
「ふひひ、ひゃめろうっ。」
と気持ち悪い声をあげて、塩をかけられたミミズのように、七春はもぞもぞ動いて体を折った。
それが次の瞬間には勢いよく上体を起こし、
「火が来る!」
と叫んだ。
うん。
七春の頭がおかしいのはいつものことなので、それについて動じることはない。
八神は猫じゃらしを引っ込めると、至極冷静な口調で、淡々と事実を述べた。
「せんぱーい、そんなトコで寝てると、通行の邪魔ですよ。」
その声に我に返った七春は、ようやく現実の景色を認識する。
光が闇に押し返されて、急速に変色しているところだった。オレンジの空が紫になり、赤い自販機が紺になる。
グレーの路面が黒になり、その上にチョコンと八神が立っていた。
こちらを見下ろしている。
「八神……くん。」
「はい。なんですか?」
袋を地べたに置き、自分は七春の傍にかがみこむ。
そこにいるのは、どこか意識が置き去りになっている様子の七春。呆けた顔で八神を見つめ返してくる。
面白い顔だ。
「火は……。た、祟り神は?」
「祟り神に会ってたんですか?」
七春はこのところホントに単独行動が多い。というか、タイミング悪く八神がいないときばかり、京助や祟り神に遭遇するというか。
「何をされました? 体は?」
八神がテキパキ身体検査していくので、七春はなされるがままにしておく。脳内はまだ熱く、火の粉がちらついていた。
倒れた京助の姿が目に焼き付いている。
夢だった、と言い切るには良く出来過ぎていた光景。
七春の手をつかみ、手首を持ち上げた八神が、渋い顔をする。祟り神の尾で縛られた跡だ。
あのよく動く尾は非常に便利なので、せんべいの袋を戸棚から取り出す際などにもよく使われています。
「何があったかは後で聞くとして、七春センパイの家へ向かいますか。」
青黒いアザになっている手を、八神が優しく撫でてくれる。
徐々に現実の意識を取り戻していく七春は、その手を何故か、振り払ってしまった。
「みゃ?」
邪険された八神が、不思議そうに首をひねる。
「ご、ごめん。」
自分の意志とは違う手の動きに、気まずく感じて咄嗟に謝る。
傷に障ったわけではない。
ただ、八神に触れられると、触れた場所ではなく胸のあたりが痛かった。
(言えない……。祟り神に試されてたなんて。)
視線を合わせられずに、石橋と見つめ合う。
紫と緑と水色の、マーブルカラーの世界は、どことなく不気味だった。
思っている以上に深刻な様子の七春に、八神は傾けた首を戻す。
「……嫌なことされました?」
ようやく心配する声になる八神。遅い。
あわてて首を振る七春。首を振る気力もないので、ゆるやかに髪を揺らしたというほうが正しいか。
「違う違う、嫌だったわけじゃない。ただ、めちゃくちゃ怖かった。」
正直な気持ちだった。
深夜の廃屋を探索して、京助と八神の怒鳴り合いを目にして、暗闇に潜むものと遭遇して………声かけられてパニクって大声だした結果、近くにいた霊獣にとばっちり。その霊獣の口からもらした炎によって、自分も危うくバーベキューになるところだった。
一歩間違えれば死ぬところだった。
全部、たった一度の自分のミスが原因だ。
「祟り神が記憶している過去を見た。暗い廃屋を探索して、怪しものを探した。でも、関係ない浮遊霊に驚いて騒いだせいで、怪しものに襲われかけた。」
「はあ。」
ほとんど箇条書きのような七春の説明に、八神は気のない返事。相変わらず七春の説明には中身がなく、要領を得ない。
「な、怖いだろ?」
同情を求め、子犬のような瞳で七春が訴えると、
「全然わかりません。あと、どういう経緯でそうなったのかもわかりません。」
とアッサリ八神に斬り捨てられた。
さらに続く。
「荒天鼬や祟り神は、どうしてそう七春センパイにばかり、つっかかっていくのでしょう。」
「うぅ…ん。」
心底不思議そうな八神に、七春は何も答えられない。
雪解のことを調べていることは、八神には内緒の約束だ。約束を破って、下手に敵を増やすのもよくない。
「それはやっぱり、俺が怪しものに名付けられるからでは…」
「偶然ですかね? 偶然ですね!」
信用のない七春さん。
だが、こうして八神ときちんと会話が続いていたのは、久しぶりな気がする。それだけで馬鹿みたいにあっという間に安堵感に包まれた。
秋は人が恋しくなる。栗と芋も食べたくなる。
「さて、どちらでもいいですがお腹も空いたので、夕飯食べに帰りましょ!他に何か変なコトされてないか、俺が帰って調べてあげますから。」
立ち上がった八神。
その手に持つ袋に、七春は注目する。
「夕飯……?」
「このところバタバタしていて、ゆっくりセンパイと話をする機会がなかったので、今から丁度たずねようと思っていたところなんです。……ったく、思いの外情報買うのに手間どった。急に値段つり上げやがって。」
と後半は一人で愚痴る。
「まぁいいわ。そういうことなんで、ついでにセンパイに夕飯作って貰おうと思って、材料買ってきました!」
じゃじゃーん!って感じで嬉しそうに袋を開く八神。中にはお豆腐と麻婆豆腐の素、二割引きになっているオマケ付き魚肉ソーセージが。
「麻婆豆腐……。」
具材が足りないんだが、この魚肉ソーセージは八神のおやつなのか、麻婆豆腐に入れるつもりなのか。
それはそれとして、八神のその口調からは、意図して七春と距離を置いていたような描写はどこにもない。
「八神くん、なんか調べてたの?」
「はい。ホテルで会った赤毛のメガネについて、馴染みの情報屋に当たっていました。かこえうた云々はともかく、七春センパイを狙っていたのが気になっていたので。」
「足手まといの俺のために、対策してくれてたの?…邪魔だから距離を置いていたんじゃなくて?」
「俺は邪魔ならその場で切りますよ。邪魔なんで。危険な目に合わせたくなくて距離を置くほど大切な人なら、特に危険じゃない時は傍にいます。……それがどうかしたんですか?」
それがどうかしたんですか?
それがどうかしたんですか?
それがどうかしたんですか?
(………………あぁ。…………なんか、あぁ…)
八神の心無い一言が、七春を脱力させた。
(わかってないんだ………)
スゥーと七春の目が白くなっていく。玄関の前のミミズを見る目だ。
棒立ちで、ボンヤリ八神のおつむを見下す。
多分、距離を置こうと言ったのにも、深い考えはなかったのだろう。近頃キチンと怪しものの話ができなかったことにも、おそらく悪気はない。
そんなに気にすることでもなかったのだろう。八神からすれば。
(アホらし。)
一番星が瞬きを始めた。
それから八神と豆腐を引き連れて自宅へ帰った七春は、白いシャツの上から目の覚めるようなスカイブルーのエプロンをかけて台所に立ち、豆腐を皿にそのまま乗せてネギと醤油をかけようとしたところで、
「みゃあああぁぁぁぁ!!」
と悲鳴をあげた八神に勢いよく頭突きされた。
「ぐっふぉ」
真横から奇襲と奇声を受けて、七春の手から醤油が飛ぶ。
夜の七時だ。時計は誠実に時を刻みつづけ、力尽きるまで止まることはない。
「何すんだよ、八神くん! できたら持ってくから、リビングで待ってろって!」
「待ってられません!俺のお豆腐に変なものかけないでください!」
かろうじて醤油の支配を逃れたお豆腐を、八神が大事に大事に救出する。ネギはすでにかけられていたので、フーフー吹いて吹き飛ばす。
お豆腐のクリアな白い素肌に再開して、八神はホッと息をついた。
「この子は麻婆豆腐になるために、はるばるセンパイのオウチに来たんですよ!そういうこの子の気持ち…わかってあげようよ!」
何故だかふいに声のトーンを上げ、アニメの魔法少女の声で力説する八神。
「なんかごめんね!?」
麻婆豆腐が面倒くさいから、そのまま醤油かけて出そうとしていた七春は素直に謝る。
そこまで責められることでもないが。
「てか、そんなことより、あの赤毛について何かわかったのか?」
「そんなことより、あの赤毛についてなんですが。」
七春の言葉を借りて、八神が続けた。
急に態度がガラリと変わる。
「ごく普通の一般的な手続きで、ごく普通に留学してきた、ごく普通に優秀な生徒だそうです。」
「わお。それで?」
「ホテル『かこえうた』以外でも目撃例があり、これといった拠点はないのか、あちこち国内を放浪していて、行動範囲はかなり広いようです。」
という八神の説明を聞きながら、七春は仕方がないのでお豆腐を麻婆豆腐に作り変える。
「あちこちで、親しい人を亡くした人に声をかけ、『かこえうた』の本当の使い方を教えているそーです。で、手伝う代わりに結果をデータとして欲しがる。」
「成功例は?」
「すごいですね。」
かみあわない返事が帰ってきたので何かと思えば、七春がお豆腐をサイコロにしていくのに見とれている。
八神くん、豆腐を分割するくらいは、できるようになろうね。
「で、成功例は?」
「今のところはないそうです。まぁ、反魂歌なんて簡単に成功するものじゃないし、だからこそ赤毛のメガネもデータを欲しがっているのでしょうからね。」
そして、問題はそこではないのだと八神は指摘した。
「屋根を壊してしまったので、早々にロケは撤収しましたが、そのせいで赤毛には構っている時間がなかったので、野放しになってますよね。」
夏の心霊ロケ第二弾は、いわゆるポルターガイストの頻発するという心霊ホテル。
その地下では、人を生き返らせる『かこえうた』の実験が行われていたらしく、噂になっていた霊はその実験の犠牲者だった。
『かこえうた』の主犯については、ホテルでたっぷり脅かして、反魂歌からは手をひかせたが。
「確かに、赤毛は………放置だな。」
赤毛については特に触れていない。純粋に、構っている暇がなかった。
「別に他人がどこで何やってようと気にはならないし、それで万が一堕ちるとこまで堕ちたとしても、俺の知ったことではないんですが。ただ、またどこかで動き出した時、七春センパイを狙ってこないとも限らないので。」
それでどうやら調べてくれていたらしい。
優しいんだか冷たいんだか、八神について知らないことは、まだまだ沢山ありそうだ。
少なくとも距離を置かれたわけではなさそうで、一安心。
「俺の手の怪我も、もう治りそうですし。また境界が開けるようになったら、いっぱい七春センパイに手伝ってもらうことありますからね!」
「あぁ!」
すっかり忘れてた。
そうです。八神は今、境界が開けないのです。なんか、怪しものを取り出すための境界だとか言っていた、手のひらの穴だ。
忘れてた。
なんで声をかけてくれないの。とか、そのへんで脳内手一杯だった。
ざーいーあーくーかーん。
「ごめん、八神くん…。忘れてた。」
「ぶー!ぶー!ですよ!」
八神にポカポカぶたれながら、調理を進めていく。
忘れていたのは怪しものを回収するのには、結局怪しものが必要なのだということだ。
そしてそれを使えない八神が、声をかけてくるはずがないということだ。
アホらし。
互いに互いのことを考えていたのに。
「まぁ、そういうわけなんで。しばらくは身の回りに気をつけてください。最悪、磔にされても対処できるように、『かこえうた』についても資料を買ったので、目を通してくださいね。」
「買ったのか?」
「買いました。」
そしてその値段を耳打ちされて、フライパンが宙に舞った。




