第三章 試技 その1
それから数日後のある夜、自宅にて就寝中だった大下猪ノ介は何かの気配を感じて目を覚ました。
庭の障子から漏れる月光によってぼんやりと文字盤の読み取れる柱時計に目をやると、それは2時近い時刻を指していた。布団の中で身を起こし、薄暗やみの中をぼやけた頭でしばらく辺りを見回していたが、どうやら庭の方から音が聞こえてくるようだ。
そのうち頭がはっきりしてきたので、音のするほうへ耳を澄ませてみると、どうも庭の木が風に揺すられてその葉を鳴らしているようである。
そのくらいのことで目を覚ましてしまった自分を自嘲しながら再び寝入ろうと横になったが、なんとはなしにその葉音が不自然なのに気がついた。
庭の木は塀に添って一列にほぼ等間隔で生えているはずで、しかも、同じ種類の木が同じ位の大きさで生えているはずなのだが、その音は庭の中央やや右手からしか聞こえてこないのだ。
そのうち、その木がひときわ大きな音をたてた。何故だろうと思い、腰を上げようとした瞬間、月光の映し出す人影が庭に面した障子を右から左へ横切った。
(賊か!)
猪ノ介は慌てて立ち上がり障子に飛びつくと、勢い良く障子を開け放ち、大きな声で叫んだ。
「誰だ!」
しかし、今、人影が通り過ぎて行った方向には何も見あたらなかった。
急いで縁側の上がり口にあったサンダルをひっかけると、小走りに人影を追っていった。
ところが、母屋の北の端の角を勢い良く左に曲がったところで、猪ノ介は立ち止まってしまった。
目の前の突き当たりには塀があるだけで、どこにもそれらしき人影は見当たらず、辺りを夜の静けさが包んでいるだけなのだ。すばやく視線を辺りに巡らしてみたが、もとより人が隠れられそうな茂みなど無かったので、見つかるはずもなかった。
(塀をよじ登って逃げたか?)
そう思ってはみたものの、それらしき物音を聞かなかったため、その自分の考えには納得し兼ねるものがあった。
ふと、左を見るとそこは刀悟の部屋の障子である。
(まさか、家の中に侵入したのではあるまいな?)
不安がよぎり、その部屋の住人に対して呼びかけた。
「刀悟、いるか!」
ややあって、部屋の中から返答があった。
「父さんかい?」
一応中も確認しておくかと思い、縁側に上がり、
「入るぞ」
そう声をかけると返事も待たずに障子を開けた。
「こんな時間にどうしたの?」
布団の中で上半身だけを起こした刀悟がそこに居た。その枕元には電気のついたスタンドと、その横に置かれている文庫本が見えた。
「まだ起きてたのか」
「ああ、なんだか眠れなくてね」
「そうか・・・。ところで、今、人影が庭を横切らなかったか?」
「人影?さあ、俺は気がつかなかったけど」
猪ノ介は部屋の中を見回してみたが、何者かが侵入したような様子はなかった。
「泥棒かい?」
「いや、判らん。判らんが、何者かが今しがたワシの部屋の外を横切って行ったのは確かだ。それを追ってここまで来てみたんだが、見失ってしまった。塀をよじ登って逃げたのかもしれんが、それにしちゃあ早業過ぎるような気がしてな。それで、もしやこの部屋にでも侵入してはいまいかと声をかけてみたんだ。」
「もしかすると、さっきの声は親父のかい?夜中にあんな怖そうな大声を出したら、誰だってアワ喰って大急ぎで逃げ出しちゃうよ」
「ん、そうか?それにしても、あれほど早く姿を消せるものかな・・・。まあ、しかし、見つからない以上そういうふうに考えるしかないか・・・。ただ、まだその辺に居る可能性は十分にあるから注意しろよ」
「ああ、判った」
「じゃあ、邪魔したな」
そう言い残して、猪ノ介は刀悟の部屋を後にした。
そのまま庭に降り、自分の部屋の方へ引き返しながら今の刀悟の話をもう一度考えてみたが、やはり完全には納得できなかった。しかし、北の角の先には刀悟の部屋しかなく、他に隠れられそうな場所もないので、塀をよじ登って逃げたと考えるしかなかった。
そのうち、あの影は人間のものではなく庭の木が映っただけかもしれんな、という考えも浮かんできた。そう考えてみると、それも正しいことのような気がしてきた。まあ、どっちにしても大したことではあるまいと思い、自分の部屋のそばまで来たときにはその結論にほとんど納得しかけていた。
しかし、自分の部屋の前に到着し、何気なく先ほど音をたてた木のほうに視線を移したとき、その考えはふっ飛んだ。
その木は、地面から二メートルほどの高さにある直径十五センチはあろうかという太い枝を付け根から失っていた。その場所の真下の地面を見ると、ちょうど同じくらいの太さの長い枝が転がっていた。
猪ノ介はあわててその木に駆け寄り、その切り口に手を触れてみた。驚いたことにその切り口は、まるで鋭利な刃物で切り落とされたように平らであった。転がっている枝の断面にも触ってみたが、やはり、同じような手触りだった。
明らかに人為的に切り落とされたものであった。そして、少なくとも猪ノ介が夕方、庭に降りたときにはこの木はこのような状態ではなかった。
もはや何者かがこの敷地内に侵入したことは明らかだった。
猪ノ介はあわてて縁側から上がると、急いで、しかし慎重に母屋の各部屋が荒らされていないかチェックして回った。
ところが、どこにもそんな形跡は無かった。
母屋以外で金目のものが置いてあるところといえば古美術品が並べてある土蔵くらいのものであったが、そこへ行くには照明のまったく無い暗い中庭を通らねばならない。まだ何者かが屋敷内に潜んでいる可能性のある今、それは躊躇われた。
猪ノ介は自室に面した縁側に戻り、切り落とされた枝を見つめながら思いを巡らしていた。
(土蔵には大型のカバン錠が懸けてあるから大丈夫だろう。念のため、明日の朝一番で見に行ってみるか。しかし、妙だ。なぜ、この枝を切り落とす必要があったんだ。万一、土蔵から何かを盗み出す目的で押し入ったとしても、こんなことをする必要が一体どこにあるというんだろうか?)
しばらくその場に佇んで考え込んでいたが、ふと我に返り、部屋の中の柱時計に目をやると既に三時を回っていた。
明日、いや、もう既に今日なのだが、とにかく明るくなってからもう一度調べてみようと思い直し、部屋に入ると、すっかり冷たくなった布団へと潜り込んだ。
朝早くに目を覚ました、というより覚めてしまった猪ノ介は、まずは急いで土蔵へと行ってみた。
入り口の観音開きの戸にかけてあるカバン錠を開け土蔵の中へ入ると、左手前から順に収めてある品々をチェックしてまわったが、どうやら盗まれたものは無さそうだった。
最後に、時王が収められている縦長の木箱が置いてある場所に来たが、それも問題なくそこにあった。
猪ノ介は、土蔵を後にした。
母屋に戻る道すがら、昨夜の出来事を思い返してみたが、やはり、枝が切り落とされていたことが気になった。
(あの枝のことから判断しても、何者かがここへ侵入したのは明らかだ。そして、ワシの声に驚いて逃げ出したのも間違いないだろう。しかし、枝など切り落としている暇があったらとっとと何かを盗み出すはずだ。そこが判らん・・・。いや、待てよ。ワシははなから泥棒だと決めてかかっていたが、もしかすると別の目的で侵入したのかもしれん。この枝に関係するような全く別の目的で)
猪ノ介は立ち止って、しばし考え込んだ。
(盗みが目的であろうとなかろうと、どう考えても昨夜の賊は目的を達していないだろう。ということは、そのうちまたやって来るな。ひとつここは、しばらく様子を見てみることにしよう。まあ、何も盗られておらんから警察に届けるまでもないだろうしな。警察に届けるのは昨夜のヤツの目的を確かめてからでも遅くはあるまい)
そう考えをまとめると、今夜から暫くは庭に注意をはらっておこうと思いながら、母屋のほうへ歩き始めた。
その夜、猪ノ介はかなり早い時間から床に入って睡眠をとっておき、夜半過ぎに布団の中で目を覚まして、そのままの姿勢で朝方まで庭のほうに神経を注いでいた。
しかし、その夜は何事も起こらなかった。
翌朝、遅い時間に布団から出ると庭を隅々まで見てまわったが、今回は何者も侵入した形跡はなかった。
(ふむ。昨日の今日ではさすがに敵も警戒したとみえる。まあ、根比べのつもりで気長にやるか)
さらに三日たっても、再び現れる気配はなかった。四日続けての不規則な生活にさすがの屈強な猪ノ介も疲労を覚えてきたが、それよりもこの行事がすっかり楽しくなり、むしろ夕方になると心がうきうきしてくるのだった。
だが、それも十日を過ぎる頃には、なかなか姿を見せない敵に対し苛立ち始め、二週間経ったころには疲れ果てて、とうとう元の生活に戻してしまった。
そうして、その次の朝に庭の点検を終わり、何事もないのを確認したときには、もう二度とヤツは来ないだろうという結論に達した。ただ、姿無き侵入者の不可解な行動の理由が判らずじまいだったのがなんとも残念だった。
しかし、それから一週間ほどたったある日、猪ノ介は夕食のときに妻の淑子に思いもかけぬ話を聞くことになるのであった。




