第三章 試技 その2
「そういえば、あなた。最近、この近所で妙なことが起こってるの知ってる?」
「なんだ、妙な事って」
淑子の話は、大体において、近所の家に関したものであったので、猪ノ介は殆どいつもまともには相手にせず適当に相槌を打っていた。淑子のほうも慣れたもので、聞き手の態度にはおかまいなしで一方的にしゃべっているだけだったが、本人はそれで満足しているようだった。
「なんでも、最初は公園から始まったらしいんだけど、今じゃ方々の通りまで広がってて、ひどいところなんか家の庭にまで侵入されているらしいのよ」
「なにが」
「私も見てきたけれど、あれはちょっとやり過ぎよ」
「だからなにがだ」
そう言いながらも、猪ノ介はまったくいらだった様子も見せず、黙々と食事を続けている。傍らの刀悟も、聞いていないかのように淡々と食べ物を口に運んでいる。
「あれじゃあ、せっかくの景色が台無しよ。植えるほうも見栄えを考慮して植えたんでしょうに。それに木がかわいそうだわ。せっかくあそこまで大きくなったっていうのに」
淑子が猪ノ介の言葉などには耳を貸さず、一人でしゃべり始めたので、猪ノ介はもはや、相づちすら返さなくなった。
「でも、あんな枝なんか切り落としてどうしようっていうのかしらねえ・・・」
不意に猪ノ介の箸を持つ手が止まった。
「なにっ!今、お前何と言った!」
猪ノ介は怒鳴りつけるような勢いで淑子に喰ってかかった。淑子は、いつも通りの無感動な受け答えが豹変して、今まで食事の席では見せたこともないような荒々しい返答を夫が返したため、訳がわからずぽかんと口をあけて猪ノ介を見つめるだけだった。
猪ノ介は立ち上がると、右手で淑子の左肩を掴み、さらに詰め寄った。
「おいっ!もう一度ちゃんと話してみろ!」
猪ノ介は、更に掴んだ淑子の肩を激しく揺さぶった。淑子はそれで我に返った。
「えっ、なんだったっけ?」
「なんだったっけじゃないだろ!今話してたことだよ!」
「ああ・・・。それよりこの手を離してよ!痛いじゃないの!」
猪ノ介は、その言葉により若干、冷静さを取り戻し、素直に言われる通り淑子の肩から手をどけた。
「ああ、すまん。だからその、その木が切られたとかいう話をもっと詳しく聞かせてくれ」
「ああ、そうだったわ。思い出した」
猪ノ介は、今度は挑むような視線を淑子に注いだ。淑子はその視線にむずがゆいものを感じながら話し始めた。
「なぜだか解らないんだけど、公園や大通りの街路樹の枝がたくさん切り落とされてるのよ。特に公園の木はもう半分ほどやられちゃったらしいわよ。それも、真夜中にやられるらしくって今までその現場を目撃した人が誰もいないのよ。だから、役所のほうでも犯人を捕まえようがなくて、いいかげん苛立ってるみたいよ。そろそろ夜通しで見張りをつけるらしいから、捕まるといいんだけどねぇ・・・」
猪ノ介は、淑子がしゃべっている間、一語一語にうなずいていた。そして、そのとき、心の底でひっかかる何かを感じたが、それが何であるか気づく前に淑子にさらに問いかけていた。
「ちょっと聞くが、その切り落とされた枝はどのくらいの太さなんだ」
「そうねえ・・・。十センチから二十センチくらいかしら」
やはり!と思った。
「高さは」
「えっ?」
「その枝の、地面からの高さはどれくらいなんだ」
「ええっと・・・、だいたい、一メートル半から二メートルくらいみたいよ」
さらに状況が酷似していく。
「それじゃ、最後にもうひとつ聞くが、その切り落とされた断面は、異様に滑らかじゃなかったか?」
「あら、あなた良く知ってるわねえ。まったくその通りよ。まるで日本刀か何かで切ったみたいだったわよ。でも、裏のおじいさんが、日本刀で切ってもあれほど断面がきれいにはならないって言ってたから、もっと違うなにかを使ったみたいだわね」
猪ノ介は、座ったまま腕を組んで考え込んだ。
(間違いない。いつぞやのアイツの仕業だ。しかも、今度は一本や二本ではない。どういうことだ?今まで考えてみもしなかったが、確かに、淑子の言う通り日本刀ではあれほどの太さの枝は切り落とせまい。しかし、それは並の人間が行った場合の話だ。相当な腕の者なら出来ないことではないだろう。ただ、それにしても刀は相当な業物でなきゃだめだ。だが、そんな上等な刀が、そうそう、そこいらの家に転がっているとはとても思えんが・・・)
「あなた、どうしたのよ。急に黙っちゃって・・・。それにしても、あれが刀でやったことだとしたら、まるで試し切りでもやってるみたいよねぇ」
「試し切り!?」
再び猪ノ介が怒鳴ったために、淑子はまたびっくりしたような顔で猪ノ介を正面から見据えた。
「そうよ、試し切りよ。しかも、そうとう鋭い刃物でやったんだわ」
「鋭い刃物だと!?」
その瞬間、猪ノ介の心の底にひっかかっていたものが全望を現した。
再度響いた猪ノ介の怒声に、淑子はいよいよ訳が解らなくなり、猪ノ介に問いただそうとした。
「まっ、まさか!」
しかし、淑子が声を掛けるより早く、猪ノ介はそう言い放つと、勢い良く席を立ち、走るように部屋を飛び出していた。あとには、ぽかんと口を開けたままの淑子と、何事もなかったかのように黙々と食事を続ける刀悟が残されているだけだった。
猪ノ介は既に薄暗くなり始めている中庭を土蔵に向かって走っていた。その右手には土蔵の鍵が力強く握り締められており、その鍵は肉を破るのではないかというほど深くその手に食い込んでいた。
土蔵に到達した猪ノ介は、まるで、なにかを恐れているかのごとく、あわてふためいた様子で、乱暴に鍵を錠前の鍵穴に突っ込もうとした。しかし、あまりにも取り乱していたため、なかなかうまくいかなかった。
ようやっとの思いでカギを開けると、荒々しく土蔵の扉を横へ放り投げるように開き、勢いよく中に飛び込んだ。
手探りで入り口左手の壁にある電灯のスイッチを入れ、ところ狭しと置いてある古美術品のあいだを縫うようにして、右手の奥へと駆けていった。
ようやく猪ノ介は立ち止まった。既に、すっかり息が上がっている。そして、猪ノ介の目の前の長持ちの上には細長い木箱が横たわっていた。
その箱には手書きで「時王」と書かれていた。
猪ノ介は、動悸と興奮で震える手をやっとの思いで押さえつけ、箱を結びつけている紐をほどき、投げ出すようにフタを開けた。
刀は刀袋にくるまれたまま、そこにあった。
猪ノ介は大きな安堵の溜息をもらしたが、直後、はっとしたようにあわてて刀袋の紐をほどき始めた。
黒地に金色の刺繍で覆われた絹の刀袋から取り出されたそれは、鈍い光を放つ黒い鞘に収められていた。
紛れもなく時王であった。
猪ノ介は、時王が盗み出されたのではないかという自分の心配が杞憂に終わったため、張りつめていた神経がゆるみ、刀を両手に抱えたまま、胡坐をかくようにその場にへたりこんだ。
しばらくの後、さて母屋へ戻るかと腰を上げたが、久しぶりにこいつの姿でも拝んでみるかという気になって、刀を抜いて眼前に構えた。
思わずその姿に目を奪われる。同時に背筋に身震いが走る。あいもかわらず、美しい姿と独特の妖気を持っている。猪ノ介は、目を吸い寄せられてしまった。
そのとき、猪ノ介は時王の異変に気づいた。あわてて、刃を天井の電灯に照らしてみた。
間違いない。わずかではあるが、その刀身に曇りがあった。
それは、猪ノ介ほどの目利きでなければ解らないほどのわずかなものであったが、使われた痕跡は明らかだった。
猪ノ介は愕然とする思いで、最後にここにしまったときのことを思い返してみた。
(そうだ、ワシは確かにきれいに手入れをしてしまったはずだ。刃の曇りがないのを何度も確認した。一体全体どういうことだ!こいつは今、たしかにここにあるが、やはり何者かの手によって持ち出されたということなのか!)
猪ノ介は、大きなショックを受けていた。
(これで公園の枝を切ったとしても、その理由がまるでわからん。試し切りにしては回数が多すぎる。もう一つわからんのは、なぜ戻したか、だ。これほどの刀だから手に入れたいと思うのが普通だ。持ち出せているということは、そのまま拝借することも可能だったということだからな)
猪ノ介は、時王を手にしたまましばらく考え込んでしまった。
(まてよ。この妖気に身の危険を感じたか!?そして、日本刀の価値がわからぬ者だったから、その妖気にしり込みをして退散したか)
そんなことをしばらく考えていたが、すべてに納得のいく理由が思い浮かばなかったので、とりあえず、再度手入れをして箱にしまうことにした。
次の日、猪ノ介はその公園に出かけて行き切られている枝の断面を確認してみたが、淑子の言った通り異様に滑らかで、包丁やナイフで切られたものとは到底思えなかった。しかも、それらの枝の高さは一メートル五十センチから二メートルほどで、包丁やナイフでは届きそうもなく、日本刀のような長めの刃物で切られた事は明白だった。
しかし、並みの刀剣ではこれほど滑らかな断面となることはないので、やはり、これには時王が使われたと結論付けるしかなかった。
自宅に戻った猪ノ介は、時王が持ち出されたことが分かるように刀袋に仕掛けをしておくことにした。
刀袋の裏側に二十センチほどの糸を縫い付け、その反対側の先に幅二センチほどの木片をくっつけた上で刀を箱にしまい、木片を刀袋の陰になるような位置で糸がピンと張られる上端の位置に移動し、箱の木片の下端位置に当たる場所に線を引き、刀袋が持ち上げられれば木片がずれてそれが分かるようにした。
そして、毎朝、木片の位置がずれていないか確認していたが、十日経っても一カ月経っても木片の位置は変わることはなかった。仕掛けに気付いたかと思い、念のため十五日目に刀身に曇りがないか確認してもみたが、そのような形跡は全く見られなかった。
しかし、それと時を同じくして公園の木々の枝が切られる事もなくなっており、やはり公園の件にはこの刀が使われたのだという結論に達するしかなかった。
そして一ヶ月が過ぎた頃、公園の木が切られないように付近の住民が交代で見回りをしていたのが、もう同じ事件は起きそうもないという事で解散されるという話を聞いた。
猪ノ介は、犯人はその見回りを警戒して切るのをやめたのではないかと想像していたので、見回りが終わったのならまた犯人は活動を開始するのではないかと思い、もうしばらく毎朝仕掛けを確認する作業を続けてみることにした。




