第九章 悟り その1
三十年後。平成最後の秋。
「よう、久しぶりにこんな田舎ヽヽしたところへ帰ってきた気分はどうだい」
唐突に肩をたたかれて振返った朋美の目の前に、兄、恭一の笑顔があった。
「あら、ごあいさつね。これでも自分が生れ育ったところなんだから、一応の愛着ぐらいあるわよ。それに、その田舎ヽヽした場所が良くってずっと離れずに住んでいるのはお兄ちゃんじゃないの」
そう答えながら、朋美は微笑んでいた。その表情には、恭一の言葉を、むしろ喜ばしいことのように思っている様子があった。
「ばか言え。俺はなにも好き好んでこんなところにずっといるわけじゃないんだぞ。俺には親父の跡目を継いでこの博莱館という由緒正しい古美術店を盛立てるという大事な仕事があるんだ。お前みたいに東京で気ままな一人暮しが出来るような結構な身分の人間とはわけが違うんだよ」
「とかなんとか言っちゃって、元々は自分から跡を継がせてくれって頭下げて頼んだんじゃない。お父さんは、老後の心配をしないですむぐらいのお金もあるし、自分の代でお店を潰したってかまわないから、そろそろ、引退してのんびりしようかと言ってたのをちゃんと知ってるのよ」
「げっ!お前、なんでそんなこと知ってるんだ」
「お母さんから聞いたのよ。できが悪くって、高校時代は不良まがいの恰好してたあげく、30近くなるまで、転々と職を代えていたような息子が、心を入れ替えたように店を継ぐなんて言い出したもんだから、お母さんにとっちゃ、まるでテレビの人情ドラマみたいな感動的な話だったに決ってるじゃない。そのことを私に話したときもオイオイ泣いちゃって、大変だったんだから。もっとも、お父さんにしてみれば、のんびりしようと思っていたあてがはずれて、素直に喜べなかったかもしれないけどね」
そう言いながら朋美は、そのときの母親の光景が目に浮んで思わず目が潤んでくるのを感じたため、あわてて庭のほうを向き、さりげなく目を拭った。幸い、そのことを聞いた恭一は照れくささからいったん下を向いたので、朋美のその変化には気づかなかった。
「さらに、げげっ、だな!それじゃお袋は俺が跡を継ぐことを話したときみたいに、お前の胸に顔を埋めてオイオイ泣いたってのか。そりゃ、まいったな・・・」
「あら、誰もそんなことまで言ってないわよ。私の時は、目の前に正座して泣いてただけよ。ふ~ん、お兄ちゃん、そんなことまでされたんだ」
朋美は、視線を恭一に戻すと、おもしろがっているような笑いを口元に浮べた。
「いけねっ。いらんこと言っちまったなぁ・・・。しかし、俺が手伝い始めてから、どうも商売に一生懸命じゃなくなったと思ったら、親父のヤツ、そんなこと考えてたのか」
「あら、のんびりしたいって思ってたことは知らなかったの。じゃあ、話しちゃマズかったかしらね。でも、そのうちわかることだから・・・。でも、お兄ちゃんに話しちゃったってことはとりあえずナイショにしててよ」
「ばかいえ!そんなこと、恥ずかしくって、わざわざ聞けるか!」
そう言いながら恭一は、心底恥ずかしそうな様子で、耳まで真っ赤にしていた。
「でもな、親父にしてみりゃそれも無理ないことだとも思うなぁ。なにしろ、じいちゃんがあんなふうになっちまったもんだから、二十歳過ぎから店の切盛りをさせられたんだもんなぁ。俺みたいに、手伝いに毛が生えた程度でもかなりしんどいってのに、実際に店のすべてを取り仕切ってきたんだからそりゃ疲れるよ。しかも、もう、かれこれ三十年だからなぁ。店をこんな田舎に移転して仕事を減らしたとしても、やめたくなるのも無理ないさ」
「あれ、ばかに物わかりがいいじゃないの。いつからそんな殊勝な人間になったの」
「ばーか。お前もウチの仕事をやってみればわかるよ。ハタで見てるよりかなり大変なんだぞ」
「ふ~ん。そんなものかしらねぇ・・・。でも、好きで選んだんだから泣きごとなんか言わないの」
「だれも、泣きごと言ってるわけじゃないよ。ただ、俺も親父も大変なんだってことが言いたいわけさ」
そこで朋美は、急に暗い表情になった。
「ところで、おじいちゃんは?」
「・・・自分の部屋にいるよ」
恭一は、声のトーンを落として答えた。
朋美は、その様子に合点がいったようで寂しそうに視線を落とし、祖父の部屋に向かって廊下を歩き始めた。
恭一は、祖父が気になるのか、朋美の心情を慮ってかはわからないものの、そのまま、朋美のあとをついていった。
和人の部屋は、屋敷の一番奥にある廊下を挟んで庭に面した場所で、廊下側は障子になっていたが、東側で午後は日が当たらないこともあってやや薄暗かった。その部屋の真ん中やや奥に和人は正座をして座っていた。視線は目の前に置いてある白木の鞘の日本刀に向いていたが、その目は何も見ていないようだった。
「やっぱり、まだあれを持ったままなの」
廊下に立ったまま、横にいる恭一に朋美が聞いた。
「ああ、ずっとあの調子だ。トイレに行く時だって持って行くし、食事はこの部屋でしかとらないけど、その間もずっと横に置いたままだよ」
恭一は答えた。
朋美は、部屋に入って和人に近寄ると、しゃがんで和人の右肩に手を置いて明るく呼びかけた。
「おじいちゃん。かわいいい孫娘が帰って来たわよ!」
その声で、和人は朋美のほうにゆっくりと顔を向けたものの、なんの反応も示さず、すぐにゆっくりと視線を戻した。
「全然変わってないわね・・・」
「ああ、このままもう変わらないと思うよ。医者に見せてみたけど、脳には痴呆症の兆候はないらしい」
「そうなんだ・・・」
朋美は悲しそうな表情をすると、廊下に出て庭を見た。
「ただな、数日前から目の光が変わってきているように俺には思えるんだよね」
「そうなの?私にはよくわからないけど、どういう風に?」
「なんていうか、ただボーっとしてるんじゃなくて、すごく穏やかな視線になって来た感じっていうか。例えて言えば『悟りを開いた』って感じかなぁ」
恭一は大真面目に答えた。
「なにそれ」
朋美は、軽く笑ったが、すぐに真顔になった。
「でも、これだけずーっと自分の世界に閉じ籠ってると、悟りを開いてもおかしくないかもね」
それから、庭のほうを見て言った。
「おじいちゃんの心が乗り移ってるのか、なんだかこの部屋の外に咲いている植物は元気ないわね」
「そんなことはないだろう。手入れだけはちゃんとしてるぞ」
恭一は答えたが、その表情は暗いままだった。
和人は、自分の前に刀悟の刀を横たえて座っていた。
(和人、和人)
和人は、聞きなれた、それでいてとても懐かしいような声に呼ばれて、ふと視線を上げた。
すると、刀悟の刀の上に五十センチほどの身の丈の男がぼんやりと浮かび上がっているのが見えた。
それは、紛れもなく大下刀悟であった。
(刀悟・・・そこにいたのか)
(そうだ、俺はずっとここにいた)
(そうなのか。なぜ気づかなかったかな)
(それは、お前がこれを俺ではない別のものとして見ていたからだろう)
(そうか・・・これはお前そのものだったんだな。刀悟のことはいつも思い出していたが、こいつのことは、お前が作った大事なものとして見ていて、お前をそのものだとは思っていなかったな)
(そうだ。やっと見えるようになったな)
(ああ、刀悟。突然逝ってしまったから、お前とは話したいことがたくさんあった。・・・でも、なんだったかもう思い出せない。お前の姿が見られて、お前の声が聞けただけで俺は嬉しいよ)
そう言いながら和人は、座ったまま左手を伸ばして刀をつかみ、目の前に水平に持ち上げると、ゆっくりと刀を抜いてから鞘を自分の左側に置くと正眼に構えた。
今度は、その刀身の上に刀悟の姿が浮かんでいた。
(俺はいつもお前を見ていた。俺がこいつをお前に遺したことで、色々とお前にはつらい思いもさせたようだ。すまなかった)
(何を言う。これがあったからこそ、俺はいつもお前のことが思い出せた。それは、すごく良いことだったと思うよ)
(そうか)
(ところで刀悟、これは一体なんなのだ。俺にとっては非常に大事なものだが、これが何なのかは、もう、思い出せない)
(これが何かなんてお前は気にしなくていい。俺も、これを造り上げたときはその役目がわからなかったが、今はそれを感じることが出来る。これは、今の時代には必要のないものだ。だから、お前は一緒にいてくれるだけでいい)
(そうか。わかった。自分は、これを見守る番人となろう)
そう言うと和人は、刀を正眼に構えたまま、ゆっくりと立ち上がった。
(ああ、刀悟。確かにお前を感じる。これは、お前そのものだ)
そう言ってから、右上段に振りかぶり、左斜め下に向かって振り下ろした。それは、到底、80歳半ばの者の速度ではなかったが、何も音が、刀が空気を裂く音すらしなかった。
刀を抜いたときも、立ち上がるときも物音をまったく立てなかったので、恭一と朋子は和人のその様子に全く気づかず、相変わらず庭を見ながら会話を続けていた。
次に和人は、再び刀を正眼に構えるとこれも驚くべきスピードで左から真横に刀を振った。
しかし、またしても、何の音もしなかった。
そのとき、話が和人のことに戻ったので朋美が和人のほうを振り向いたが、和人の様子を見て驚きの声を上げた。
「おじいちゃん!」
その声で恭一も和人のほうに向き、さらに驚きの声を上げた。
「じいちゃん!その刀!刀!」
恭一は、和人の行動より、絶対に抜けなかった刀が抜かれていることに驚いていた。
「おじいちゃん!しっかりして!私よ、朋美よ、わかる?」
その声が聞こえたのか、和人は朋美のほうを向き、ゆっくりとではあるが再び大上段に刀を構えた。朋美の顔に、恐怖の色が宿った。和人と朋美の間は3メートルほど離れていた。
次の瞬間、またしても驚くべきスピードで和人が朋美に向かって刀を振り下ろした。
「キャー!」
刀の届く距離ではなかったが、朋美は、恐怖に駆られて、刀から防御するように両手を顔の前でクロスして叫び声を上げた。
しかし、朋美の体には何も起こらなかった。
次の瞬間、和人は刀を下に落とすとそのまま左へ倒れていった。
「じいちゃん!」
あわてて、恭一が和人のそばに駆け寄り、頭を右手で抱えた。
「じいちゃん、どうしたんだ。大丈夫か!・・・朋美、救急車!」
そこで我に返った朋美は、救急車を呼ぶために廊下を駆けて行った。




