第八章 邂逅
「これが、お話できることのすべてです」
和人は、寂しさに満ち溢れた表情でそう言うと、長い語りで乾いた喉を潤すようにごくりとお茶を飲んだ。
「そのようなことが・・・。実に興味深いお話でした。あの大下さんの息子さんがねえ・・・」
笹山は、心底感慨深いといった調子で言った。
「ところで、刀悟さんの死因はなんだったんでしょうか」
「どこにも病気はなく、栄養状態も良かったので、衰弱死ということになりました。布団の中で横になっているのを発見されたんですが、苦しんだ様子もなく、見つけた刑事は、てっきり寝てるのだと思ったそうです。検死官から聞いた話ですと、まるで生気を吸い取られたような感じだったと。きっと、自分の作った刀にすべてを込めてしまったんだろうと思います」
「そうですか・・・」
「キャー!」
突然、部屋の中に悲鳴が響いた。和人が驚いて声のしたほうへ目をやると、静乃が目を大きく見開き、開かれた唇を小刻みに振るわせて視線を左前方に釘付けにしていた。
急いで視線のほうを振り返った和人は、そこに驚くべきものを見た。
いつの間にか目を覚ました笹山の子、大河が刀悟の刀に手を掛けていた。柄を左手で、鞘を右手で掴み、母親の悲鳴に驚いたのか、キョトンとした顔でこちらに視線を向けていた。
しかし、和人には大河の様子など少しも目に入っていなかった。彼の視線は、いや、全神経は、その柄と鞘の間からわずか五センチばかりではあるが、覗いている刀身に集中していた。
「刀が!刀が!刀が!」
和人は思わず声に出して叫んでいた。
大河は、悲鳴がやんでしまったためか表情を崩し、それと同時に何を思ったか鞘を握っていた右手を離し、その手で柄と鞘の間にある刀身を握り締めようとした。
和人は大河目がけて飛びかかろうとした。それは大河を救うためではなく、刀を手にとって、初めて目にする刀の全望を確かめてみたいという衝動ゆえであった。
しかし、和人がその行動を起こす前に、笹山が和人を突き飛ばすように大河に飛び付いていた。笹山は我が子の右手が下を向いている刃によって切断される危険を回避すべく、とっさに刀の鞘の真上に力のこもった右手を振り降ろし、それを畳の上に叩きつけようとした。
だが、それよりも一瞬早く大河の右手は刀身をしっかりと掴んでいた。そして、次の瞬間、笹山の右手が刀を畳の上へと叩きつけていた。
笹山は最悪の結果を確信し絶望の叫びを上げた。その背後では静乃が一声唸ったきり正体をなくしていた。笹山は大声で喚き散らしながら、笹山の行為に驚いて泣き声を上げている大河に飛び付き、あわててその右手を開いて見た。
ところが、大河のその右手は、指が切断されたどころか、かすり傷ひとつついてはいなかった。笹山の目には、自分が大河の指の上に刀を叩きつけたように見えたため、あっけにとられ、それと同時に我が子が無事だったせいですっかり体の力を無くし、その場にへたり込んだ。
笹山はしばらくのちに自分を取り戻すと、まず、気絶している静乃を起こした。静乃は正気に戻るとあわてて大河に駆けより、その右手を丹念に調べ、それからしっかりと我が子を両手の中に抱き締めた。
笹山は文句のひとつでも言おうと和人のほうを振り返った。
「和人さん。あなたも冗談が過ぎますよ。あやうくうちの大河が・・・」
笹山は、振り返った途端に目に入った異様な光景に自分の言葉を飲み込んでしまった。
和人が背を丸めた姿勢で正座したまま、その両手に刀を乗せていた。その口は呆けたように開かれ、その両目にはギラギラとした光が宿っていた。
「これが。これが。これが・・・」
和人はまるで気がふれたかのように呟き続けていた。笹山は本能的に恐怖にかられ生唾を思い切り飲み込んだ。
「和人さん、大丈夫ですか?」
和人は笹山の声が聞こえなかったのか、その異様な姿を崩そうとしない。笹山はなおも呼び掛けた。
「和人さん!」
その言葉は聞こえたようで、ゆっくりと顔を笹山のほうへ向けた。
「えっ?」
和人は笹山に対し言葉を返したが、その眼差しにはまったく力がなかった。
「和人さん・・・」
笹山は、そう問い掛けながら和人の手元の刀へと視線を落とした。その視線につられるように和人も自分の手元に視線を落とした。そして、突然、ハッとしたような顔になると慌てたように視線を笹山に戻した。その視線には力が戻っていた。
「笹山さん!抜けた!抜けたんですよ!」
和人は、今度はまるで子供のようにはしゃぎ始めた。笹山は訳が判らず困惑していたが、かろうじて返答するだけの余裕があった。
「抜けたって、その刀のことですか・・・」
「そうですよ!他に何があると言うんです!」
そう言うと、和人は刀を完全に鞘から抜き放った。
「じゃあ、和人さんのおっしゃっていた、この刀が抜けないというのは本当だったんですか」
「素晴らしい!なんて素晴らしいんだ!」
和人の全神経は既に刀に釘付けになっており、笹山の言葉など耳に入ってはいなかった。
「笹山さん!見てごらんなさい。こいつはなんて素晴らしいんでしょう。刀悟の意志は達成されていたんだ!」
和人は刀を笹山の目の前にグイと突き出した。笹山は圧倒されて言われるままに刀身に見つめた。そして、彼もその姿に引き付けられた。
「本当だ。こいつはスゴイ・・・。う~ん。お世辞抜きでこの刀は今までお目に掛かったどれよりも素晴らしい気がします。しかも、この刀には心を引き付けるなにかがありますねぇ・・・」
笹山も既にその刀に心を奪われていた。
「そうでしょう笹山さん。しかもこいつは前作にはない暖かさがある。刀悟の目指したものが理解できたような気がします」
和人は興奮したまま言った。
「確かにその前作の刀とこの刀とではまったく素性が違うようですね。しかし、この刀には、先程、あれだけ強く刀身を握り締めたうちの子の手が無事だったように、前作のような切れ味は無いようにみうけられます。そこがちょっと残念な気もしますが・・・」
和人も笹山の言葉に頷きながら、手に持った刀を見つめた。
「確かに切れ味はそれほどでも無いようにみうけられます。しかし、私にはそこのところは信じ難いのです。やはりこいつも素晴らしい切れ味を隠しているという気がします」
そういいながら、和人は刀の切れ味を試すかのように右手の親指を、上を向いている刃の上に静かに乗せた。
その直後、その真下の畳に何かが落下したような音がした。なんだろうと和人が刀の下を覗き込んでみると、見慣れない、それでいてどこかで見たような二センチくらいの物体が転がっていた。和人はしばらくそれがなんであるか理解できなかったが、やがてその正体に気付き、あわてて自分の右手に目をやった。
右手の親指の第一関節から上が無くなっていた。畳の上の物体は和人の右手の親指だったのだ。しかし、それに気付いてもなお、和人はその意味するところが飲み込めないでいた。和人は自分の指を強く刀に押し付けた訳ではなく、ただ乗せただけだった。しかも、傷みはおろか、刀が触れた感触すら感じていなかった。
「かっ、和人さん!ゆ、指が!」
先に現実を認識したのは笹山だった。そして、その声で初めて和人も現実を受け入れた。その直後、和人の右手の親指の切り口から勢いよく血が吹き出し始めた。
「静乃!早く、救急車を呼びなさい!」
静乃はあわてて、大河を抱いたまま部屋の外へ駆け出していった。
和人は現実を受け入れたがゆえに、呆然と血の滴る右手を見つめていた。笹山はどうしていいか判らずに、ただオロオロするばかりであった。
和人の指は対応が早かったため、奇跡的に元どおり接合することができた。しかも、医者の話では完全にとはいかないながら、完治すればある程度は動かせるようになるだろうということだった。ただ、触感はかなり損なわれるだろうということも同時に聞かされた。
しかし、刀悟の刀の全望を拝むことが出来た今の和人にはその程度のことはなんでもなかった。
和人は大事をとって三日ほど病院に入院させられた。しかし、次の日の朝には、もう一度あの刀を拝みたいという衝動がこらえ切れなくなり、電話で笹山に刀を病室まで持って来てくれるように頼んでいた。
電話をしてから笹山が病室に到着するまでの時間が、和人には一年ほどにも感じられた。
電話をしてからちょうど二時間後、病室のドアをノックするものがあった。
「笹山です。刀を持ってきました」
「お待ちしていました。どうぞ、お入りください」
和人は飛び付くようにドアのところまで飛んで行き、ドアを開けて笹山を招き入れた。
「どうも、わざわざこんなことをお頼みしてすいませんでした」
「いえ、大したことではありませんから・・・」
和人には、心なしか笹山の声に力が無いような気がした。
「どうしました?」
「ええ、実は申し上げにくいんですが・・・」
「なんです?」
和人は、嫌な胸騒ぎがした。笹山は和人の問いかけに答える替わりに、刀袋から刀を取り出した。
その刀は間違いなく刀悟の刀であった。しかし、それは再び鞘に納められていた。
「笹山さん、まさか・・・」
和人は笹山の手からひったくるように刀を奪い取ると、力の入らない右手で精一杯強く刀の柄を掴み、引き抜こうとした。
しかし、刀はビクともしなかった。
和人は視線を上げ笹山を睨むと問詰めようとしたが、それよりも早く笹山が口を開いた。
「実は、私が今日和人さんのお宅にお邪魔した時にはすでにその状態になっていたのです。なんでも、あの部屋の後かたづけをされた和人さんの奥さんが、怖がって再び鞘に納めてしまったということで・・・。私も、もしやと思い抜いてみようとしたのですが、恐れていた通り再び抜くことはできませんでした・・・」
和人は気が遠くなりその場にへたり込んでしまった。笹山はあわてて和人に駆け寄ると和人を抱き起こしベッドへと寝かせた。
「和人さん。今、思い詰めると身体に良くないですよ。一度抜けたんだから、また、抜けることもありますよ。きっと」
笹山はそう言って和人を慰めながらも、自分自身、再びその日が訪れることはないような気がしていた。
和人もまったく同じ気持ちで、自分のすべてを失ったような気分に陥っていた。
笹山はその場の重い空気に耐えかね、草々に腰を上げた。
「では、和人さん。私は仕事がありますのでこれで失礼します。ゆっくりと養生なさってください」
そう言ってしまった後で、指の治療にゆっくりと養生もないものだと思い、自分のとってつけたような言葉にあわてて和人の顔色を伺ったが、当の和人は魂の抜けたような顔で手に持った刀悟の刀に視線を落としたままで、笹山の言葉など耳に入ってはいない様子だった。
笹山は和人に対して軽く会釈すると、静かに病室を後にした。
和人の頭の中を、空虚なものが支配していた。
すっかり諦めていた刀悟の刀ではあったが、その全望を一度目にした今となっては、最初に刀身を見ることが出来ないと知ったとき以上に強烈な絶望と虚脱感が彼を襲っていた。
二日後、和人は自宅に戻った。しかし、その外見にかつての和人の姿はなかった。
もはや、ほとんど生きる屍と化したようになって、 最初の一か月は、店にも出ずに自分の部屋で刀悟の刀を手に抱えたまま、一日中座っているだけだった。その後、なんとか少しずつ店に出られるようにはなったが、商売にはまったく身が入らず、客に対しても失礼な振る舞いをしばしばしでかした。
大変だったのは和人の不始末のしりぬぐいをすべてさせられた息子の安弘だった。
高校を卒業するとすぐに店の手伝いをするようになっていたため、ある程度、仕事の内容は解っていたものの、若い上に経験不足でもあったのでその苦労は並大抵ではなかった。




