エピローグ
――八月某日。夏季連休も折り返しに入ったこの日、沢田武は母校である久間小学校に
訪れていた。理由は、ある人物との待ち合わせのためである。
武が母校を訪れるのは小学校の卒業式以来であった。校舎の屋根のあずき色、校庭の隅
の柚子の木。錆の浮いたゴールポスト。約二年ぶりに訪れる母校は、自分が在籍していた
頃となんら変わらぬ姿で存在していた。あるいは、二年程度では時間の経過など感じられ
ないのだろうか。校庭では、数人の小学生らしき子供たちが、なにやら遊びに興じている。
小学校も夏季連休に入っているはずなので、恐らく海水浴などに飽きた子供たちが、新た
な遊び場を求めてここへ集まったのだろう。武も小学生時代に、同じような事をした覚え
がある。遊び場に事欠かないこの土地でも、さすがに毎日海水浴や虫取りなどでは飽きる
のだ。
武は校庭の脇にある、遊具の設置された場所へ歩いて行った。空を見上げると、混じり
けの無い青の空が広がっていた。いままでに、空の青をこんなに青いと思ったことなどあ
っただろうか。校庭ではしゃぐ子供たちの透き通る声が、空へ吸い込まれていった。
遊具の場所に着くと、武はブランコに腰掛けた。そして腰を下ろした時、その感触に戸
惑った。
――このブランコ、こんなに小さかっただろうか、小学生時代にはそんなことは感じなか
ったはずなのに……。
それは武の身体が、二年という月日で成長した証であった。時間というものは、やはり
知らず知らずのうちに経過してゆくのだ。そしてこの先も、その流れは抗いようもなく武
を押し流してゆく。
武は最近、大人になることへの漠然とした不安を感じていた。それは直前にみた夢の影
響が大きい。夢の詳しい内容は忘れたが、その夢は、大人=得体のしれぬ闇という抽象的
イメージだけを残した。それが、元々抱いていた大人という存在へのマイナスイメージと
重なり、武が大人になることを不安にさせた。この世界には、実は子供の知らない闇の部
分があるのではないか? 大人を信用して良いのだろうか? そういった考えが生まれる
くらいに、その夢の影響は強烈だったのだ。
武は一人苦笑した。ただの夢に、僕は何をこんなに悩んでいるのだろう。それも、夏休
み真っ只中に。子供はもっと子供らしく、遊びや勉強のことを考えておけば良いのだ。
武が顔を上げると、目の前に待ち人の顔があった。束本翔だ。
「翔……いつからそこにいたんだ?」
「うーん、お前がブランコに座って、地面を覗きこんでる頃から? 気づかなかったか
のか」
「あいにく考え事をしててな。ていうか、声くらいかけろよな」
「すまん、一瞬お前が、仕事疲れのサラリーマンのように見えて。……冗談は置いとい
て、その考えごとって何だよ? 言えないことか?」
「なんでもないよ。ただ変な夢をみて、まいってただけさ。……あ、翔は大人について、
どう思う?」
翔はポカンとした表情を浮かべた。質問の意図が理解できなかったらしい。
「あーつまり、翔からみた大人のイメージって、どんな?」
未だ納得のいかぬ表情を浮かべながらも、翔は自らの持つ大人という存在へのイメージ
について考え始めた。
「まず大人って言われても、人によって何歳から大人と見るか違うからなー。俺の基準
でいいか?」
確かにそうだと武は思った。「それでいいよ」
「俺が思う大人って、たばこと酒が解禁されるって認識くらいなんだよなあ。本当は他
にも、社会的責任だとか何だとか難しい事もあるだろうけど。そんなもん、俺らが実際に
大人になってみないと、わからないんじゃないかな? 子供と大人じゃ考え方も大分違う
だろうし。……でも思うんだ。内面というか根っこの部分は、大人になっても子供の頃と
変わらないんじゃないかって。大人がそれを忘れてしまっているだけで」
――忘れる……僕も大人なったら、色々なこと忘れてしまうのだろうか。土や草の匂い、
夕日の赤、秘密基地のあった場所、故郷の景色……。
「俺は忘れない……この気持ちを」
武は念じるように、心のなかで何度もその言葉を繰り返した。武は思う。記憶というも
のは、そう簡単に忘れたりするものではないはずだ。きっと忘れずにいようという気持ち
があれば、その記憶は何年経とうが風化することなく残るだろう。
「あー恥ずかし。何俺マジになっちゃってんだろ。なあ、今日のこれからの予定は?」
翔にそう言われて、もう一人の待ち人がまだ来ていないことを思い出した。今日は三人
で、街に出る予定なのだ。
「ちょっと待って。もう一人来るはずだから」
「ん? ……ああ、相方がいなかったか。誰か足りないと思ってたんだよ」
武は校舎の時計を見上げた。時計の長針が、丁度待ち合わせの時刻を指した。それとほ
ぼ同時だった、武達の位置からは遠くに見える校門に、一人の人物が姿を現した。
「ようやく来たな。あいつはいつも、時間きっちりなんだ」
武はブランコから立ち上がった。その時ふと、ズボンのポケットに何か入っていること
に気づいた。取り出して広げると、どうやら手紙のようだった。
――あれ、こんなものいつの間に?
武は手紙を書いた人物を確認した。本文の最後には、桂木奈緒の名。その後に内容を流
し読みする。
――コンクリート小屋……? さては、またあいつのイタズラだな。
武にコンクリート小屋などというものの記憶はなかった。それに桂木奈緒なら、今しが
たこちらに向かって歩いているのところだ。存在が消えるなどありえない。恐らくこの手紙は、奈緒がいつか悪戯でポケットに忍ばせたのを、今まで気づかずにいたのだろう。
――よし、いつかお返ししてやろう。
武はそう思い、手紙を再びポケットにしまった。
校庭の子供たちはいつの間にか消えていた。新たな遊び場を求めてここから去ったのだ
ろう。そしてきっと、彼らの想像する世界には、輝く未来が広がっているのだ。子供とは、
本来そういうものだ。現実なんてものは、すべて大人に任せ、目をつぶって夢だけみてい
ればいい。
――僕も、今はまだ、夢をみていよう。いつか誰かが、僕を起こしに来るまでは……。
武の夏は、まだ終わらない。
了