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夏の遊戯  作者: あお
19/21

18

 ――武は闇の中にいた。墨汁の海に潜ったかのような、僅かのすきもない完璧な闇だ。

どちらが上でどちらが下かもわからず、ただ空間をたゆたっている。いや、動いていると

認識しているだけで、実は一点に留まっているのかもしれない。体を動かそうとしてみて

も、まるで手足の動かし方を忘れてしまったかのように、力が入らない。

 もしやこれは夢の中だろうか? 実際武は過去に、夢の中で“これは夢だ”と知覚する

という経験が何度かあった。しかしこれが夢だとしたら、あまりにも意識が明瞭すぎる気

がする。武の知る夢というものは、もっと不明瞭で、曖昧で、混沌としているはずだ。で

は、これが夢でないとすれば、現実なのか? ……恐らくそれも違うだろうと考えた。体

の自由がきかず、重力が存在せず、五感が機能していない。これでは、武の考える現実と

は程遠い。しかしそれなら一体、ここはどこだろう? 


 武は自分の知る最も新しい記憶を思い起こそうとした。

 ――そうだ。僕は桂木奈緒から手紙をもらって…………カツラギナオ……?

 武は混乱した。自分の中の様々な記憶がないまぜになり、何故だか矛盾という一本の糸

を紡ぎ出している。武は矛盾が生まれる原因を特定するため、絡み合った記憶の糸をほど

いていった。


 ――僕は桂木奈緒という人物から手紙をもらったのだ。そして友人の束本翔と共に、手

紙に記してあるコンクリート小屋へ向かった。その小屋の地下で、脳髄の群れを目撃した。

それで僕は……自分の名のついた脳髄を見つけ、そこから伸びているケーブルを切断した。

……その時分では、確かに桂木奈緒という人物やコンクリート小屋の存在について、見た

ことも聞いたこともなかった。だからこそ手紙の内容に興味を持ったのだし、こんな手紙

を送りつけた桂木奈緒という人物について知りたいと思ったのだ。……しかし今、僕の頭

の中には、桂木奈緒と彼女に関連する思い出、また、彼女と幼い頃に林の中で発見したコ

ンクリート小屋についての記憶がある。僕は、桂木奈緒やコンクリート小屋について知っ

ていたのだ。にも関わらず、桂木奈緒から手紙が送られてきた日を境に、それらの記憶を

失っていたのだ。それを何故だか、今になって思い出したのだ。


 これはどういうことだ? 桂木奈緒の存在している世界と、桂木奈緒の存在していない

世界、両方の記憶が存在している。相反する二つの記憶が両方とも存在するのは、普通な

らばありえないことだ。ならばどちらか一方の記憶は偽物なのか? だとすれば、どちら

が本物の記憶なのか? どちらも偽物の記憶という可能性は? そもそもこれが夢で、無

意味な問答を繰り返している可能性は?

 いくら考えども、思考の迷宮を彷徨うばかりで答えは出ない。そうしていると、唐突に

空間が歪み、周囲が闇黒の世界から、武のよく知る景色へと変化した。


 そこは学校への通学路だった。田んぼに挟まれた百メートルほどの畦道だ。時刻は夕暮

れらしく、中干しの始まった田んぼの稲は、夕日で微かに朱に染まっている。遠くの方で、

カラスの鳴く声が聞こえた。

 武は自宅の方に向かって歩いていた。その斜め前方には、武と同じ制服を着て、同じ方

向へ歩く人物がいる。その後ろ姿は、武の学校の友人である束本翔のものだった。

 二人は無言のまま歩を進めた。武は、自分は元の世界に戻ってきたのかなと考えていた。

翔はというと、テスト用紙で作った紙飛行機を、前方に飛ばしては拾い、飛ばしては拾い、

歩いている。そして畦道の中程に差し掛かった時、翔の飛ばした紙飛行機が、道を逸れて

田んぼの中へ落下した。翔は立ち止まり、しばらくその紙飛行機を見つめていた。武は声

を掛けていいのかわからず、ただそれを見守った。

 不意に、翔が武に質問した。

 「なあ武、俺達、親友だよな?」

 武はその答えに躊躇した。確かに桂木奈緒の存在しない世界では、コンクリート小屋の

一件もあって、親友と呼べるほどの仲にまでなっていた。しかし桂木奈緒の存在した世界

では、普通に仲は良いにしても、学校で顔を合わせたら話す程度で、親友と呼べるほどの

関係でもなかった。どちらかの世界の記憶に則って答えるならば、それはもう片方の世界

の記憶を嘘として切り捨てることなる。――武は少し考えてこう答えた。

「うん。どの世界でも、俺たちは親友だ」

 武にどちらかの記憶を犠牲にすることはできなかった、なので二つの世界の記憶を、両

方共本物の記憶にすることにしたのだった。

 「そうか……それを聞いて安心した。ありがとう」

 翔がそう呟くと、突然にその場に突風が巻き起こった。強風が翔を含めた景色を、削り

とるように吹き飛ばしていく。紙飛行機が空高く舞った。そして気がつけば、先ほどまで

いた畦道の景色は消え去り、別の景色が姿を表していた。ここは……桂木奈緒の部屋。


 武は奈緒の部屋の中央に立っていた。部屋の窓は開け放たれていて、そこから涼やかな

風と、けたたましい蝉の声が入り込んできている。机の上に広げられた参考書が、風でパ

ラパラとめくれた。そして窓の前に、奈緒がこちらを向いて立っていた。


 武は何故だか、とてもなつかしい気持ちになった。こんなの、見慣れた光景のはずなの

に、何故だか涙がこぼれる。

 「どうしたの、武? いつものように笑えばいいよ」

 奈緒が武に微笑みかける。武は涙を拭い、笑顔で頷いた。

 「ねえ、武は元の世界に帰りたい?」

 元の世界とは、記憶に残っている二つの世界のことだろうか。武はよくわからないと答

えた。

 「そう。でも恐らく、武の意思とは無関係に、武は元いた世界に戻されることになる。

その世界は、一部が人によって創られた世界だけれども、すべてが虚構というわけではな

いの。自由意志は存在するし、その一部にあなたの意思も含まれている。未来は武の手の

中にある」

 武は奈緒の言っている事が理解できず、ただ聞いていることしかできなかった。奈緒は

それでもいいというように、話を続ける。

 「でももし、武が人によって操作された世界を嫌うというなら、元の世界に戻るという

選択の他に、もう一つだけ選択肢があるの。それは……」

 少し間があってから、奈緒が答えた。

 「生を絶つという選択。つまりは……死ぬということ」

 その瞬間、風と蝉の声が止んだ。まるで時が静止したように、空間から一切の音と動き

が消えた。

 奈緒の言っていることの半分以上は理解できないが、今自分は、とても重大な決断を迫

られているということだけはわかった。武は、今いる世界にずっといることはできないの

かと聞いてみた。

 「それはできない、近いうちに、元の世界に引き戻されることになる。元の世界に帰れ

ば、自らの意思で生を絶つこともできなくなる」

 つまりは、元いた世界に帰るか、この場で死ぬか、どちらか選べということなのだろう。

 ――そんな選択など、僕にできるだろうか? いや、できるかできないかではない。し

なくてはならないのだ。そして時間はそう残されてはいないらしい。どちらが最善の選択

なのか、恐らく考えてもわかることではないだろう。

 「それじゃあ、答えやすいようにもっと直接的な質問に言い換えるよ。武は生きたい?

 それとも、死にたい?」

 これほどまでに残酷な二択があるだろうか、そう問われれば、大抵の者は生きたいと答

えよう。それは武とて例外ではない。そして武は答えた。生きたい、と。

 「そう。じゃあそれが、一部創られた生だとしても?」

 武は考えた。あれが創られた世界なのか……? それじゃあ僕の十四年間の人生とは何

だったのか……? 武はこれまでの人生を回顧した。元いた世界の記憶の断片が、現れて

は消えていく。

 ――小学六年生、風邪で修学旅行に参加できなくなり落ち込んでいた武を、両親が修学

旅行で訪れる予定っだった場所へ連れて行ってくれたこと。

 ――小学二年生、友達と喧嘩して泣いていた僕に、翔が話しかけてくれたこと。

 ――小学五年生、林間学校の夜にテントから抜け出し、奈緒と二人で観た流れ星。

 ――中学の入学式、初めて奈緒の制服姿を見た時のこと……。

 これらが全部、創られたもの? いや違う、これらの思い出に嘘などないのだ。さっき

奈緒も言っていたではないか。すべてが虚構ではないと……。これはもはや、理屈ではな

いのだ。例え創られた世界でも、その世界には家族がいるし、友人がいるし、奈緒がいる。

武が元の世界で生きる理由としては、それで十分だった。武は答えた。

 「僕は、元いた世界に帰るよ」

 もはや武に迷いはなかった。その顔に涙はない。心からの笑顔だ。

 「それが武の選択なのね。わかった。それじゃあ、運が良ければまた元の世界で会いま

しょう」


 また、時が流れだした――。

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