2話(7)
俺はあまりの衝撃に、ギルバートを支えていた右手の力が抜けてしまった。
今しがた聞こえてきたそのセリフが、信じられなかった。
ギルバートは突然浮いた背中に驚き、頭を打つ前に思わず————といったように、俺の腰に両手を回した。
抱き着かれたその身体に、ギルバートの温かな温度を感じていた。
「……何か不満か」
ギルバートは俺に抱き着いたまま、視線を上げて俺の顔を見た。
理解が追い付いたと同時に————突然、零れる笑みを抑えきれず、上を向いた。
「わかった、よ。…………ギル」
俺は恥ずかしくなりそうな心を必死に抑えて、そう呟く。
————しかし、その声に応答はない。
「……ギル?」
再びそう呼びかけるが、やはり応答はない。
俺は視線をギルバートに戻す。
ギルバートは腰に抱き着き、俺の身体に顔を埋めていた。
腰に回された手には相変わらず力が籠っていて、離れようとしなかった。
ギルバートの耳が、ほんのりと赤く染まっているように見えた。
「……ちょっと、赤くなってないか?」
「!」
俺の腰に当てられた手の力が、ぎゅっと込められたのがわかる。
「何を言うんだ、お前は……」
「ギル」
「……」
「……なんで今、ギルって呼ぶの許してくれたんだ?」
すると、ギルバートはゆっくりと俺の腰から離れた。
それから————あろうことか、真っすぐにピンと伸びた姿勢で立ち上がったのだ。
脳への理解が追い付かない。
————どういうことだ?
さっき、あんなに右足から血が出ていたというのに。
俺はギルバートの右足に目を向けると、もうその血は収まっているようだった。
「……お前と話す無駄な時間が、少しでも短くなるだろ」
「え? ギル……足は」
「お前の魔力をたった今大量に奪った。この程度の足の傷、魔力があれば直ぐに治せる」
ぽかんとする俺を見下ろす、そのギルバートの視線は挑発的なものだった。
もうその表情は————いつもと変わらない冷静なギルバートそのものだった。
「……やっぱり、全くかわいくないね。ギル」
「お前に言われたくは、ないな」
「どうして、俺の石を奪ったんだ?」
俺はギルバートの余裕な表情を崩したくて、そう尋ねた。
実際、その理由の核心はわからずじまいだったのだ。
「……」
ギルバートは予想通り、先ほどの表情を崩した。
ギルバートは何か考え込むように視線を上に向けた。
「……なんで、だろうな」
「……はぁ?」
そう呟くギルバートは嘘を言っているという風でもなく、本当に理解していないといったような顔であった。
「強いて言うならば……お前に意地悪をしたかったんだろう」
「……意地悪?」
「……ああ。余りにお前の行動が身勝手だからだ。……でも、もういい」
「……え?」
「……ふふ」
それから、ギルバートは声を漏らして————笑った。
「……馬鹿みたいだ……はははっ」
今までに聞いたことのないギルバートの————笑い声だった。
何かが吹っ切れたような————その晴れやかな表情は過去の鏡の世界で見るギルバートの顔とも違うものだった。
————先ほどから、驚かされることばかりだ。
「そんな笑った顔、初めて見たよ」
「……やっぱり、お前のことが、大嫌いだ…………はは、」
そう言ってギルバートはまた笑う。
ひとしきり笑ったギルバートは「……ふぅ」とため息を吐くと、突然鋭い視線をキリッと俺に向けた。
それから一度、部屋の奥に視線を向けると、壁の穴の向こうの暗闇を指差した。
「……早く行けよ。あいつは、あの奥だ。……お前1人で行くべきだろう」
「……ああ。うん」
あの先に————サムがいる。
その顔が頭に浮かぶ。
急に心臓がドキ、ドキ、と脈打つのを感じていた。
俺は————サムに会って、なんて声をかけたらいいのか。
残すは————サムだけ、なのだ。
「……ありがとう。行ってくるよ。早くこの城を出よう」
俺は壁の奥へと足を進める。
先ほどまでの明るい部屋から一歩壁の穴に入ると、一気に視界が暗くなった。
ガタリ、と瓦礫を踏む自身の足音だけが聞こえる。
「……なぁ!」
その時、後ろからギルバートの大きな声が聞こえた。
俺はその声に後ろを振り返る。
暗闇の向こうの————光の中に、ギルバートの姿がある。
「お前が作ってくれる料理……好きだった。……久々に何かを食べて美味いとそう思った。……誰かと食べるのも、悪くないもんだな」
「……ギル? 何の話を」
「また俺のために……作ってくれるか?」
料理————?
確かに、ギルバートの家で俺は料理を作っていた。
俺が作ったようなものを、ギルバートが口にしている。
てっきり拒否されると思っていた当時は、確かに驚いたものだが。
まさか————気に入られていたとは。
ただ、今それをギルバートが口にしたこと。
そして————先ほどの、あの笑顔。
俺にはわからなかったが、きっとそれは何かギルバートにとって————大きな意味があるのだろうと思った。
「……お安い御用だよ! ……また食べような、ギル!」
「……待っているからな。……頑張れよ」
そう声が聞こえた時、もう視線の向こうにギルバートの姿はなくなっていた。
————“頑張れよ”
その声が暗闇の中で、耳にこびりついていた。
俺は振り向くのを止めて、前を向いた。
目の前の視界は真っ暗闇だった。




