地下1階(3)
ルイが口に咥えていたのは、紛れもなくラルフが持っていたはずの「緑色の石」であった。
「……テメェ、返しやがれ!」
そのラルフの怒声に、ルイはびくり、と身体を震わせる。
そして、すぐに前へ向き直ると、一目散にそのまま駆け出していった。
俺はラルフと顔を見合わせると、すぐにその小さな背中を追う。
「……チッ」
右を走るラルフが舌打ちをする。
ルイはものすごいスピードで走っては、躊躇うこともなく、曲がり角をスイスイと曲がっていく。
それを見失うことなく、ラルフは追っていた。
俺はそのルイとラルフの全力疾走に着いていくことが必死だった。
(どうして……)
ルイは召喚獣だ。
基本的には主であるユウリの言うことを聞くはずだ。
ルイが独断でわざわざラルフの石を奪うとは考えにくい。
だとすれば————ユウリは全力で全員分の石を集める気、かもしれない。
「……それにしても」
俺が呟いた声に、ラルフが視線だけをこちらに向ける。
「ルイの動きに迷いがなさすぎる。どこか目的地が明確になっているのかもしれない」
「……あァ? この迷路の出口じゃねェのか。ほかに行くところなんてねェだろ」
他に行くところなんて。
————本当にそうだろうか?
ユウリは本当に賢いところがある。
ただ闇雲に、無計画に、石を奪ってあとは逃走するだけ、なんて簡単な作戦は立てないような気がする。
走りながら、ふと自身の左手首に目を向ける。
そこには変わらず赤い石が1つはめ込まれている。
————今回狙われていたのはラルフだった。
その証拠に俺の石は奪われていない。
もしかすると2人分の石を奪うのは難しかったのかもしれない。
だけれども、それでもラルフの石を狙ったのだ。
————足も速く、鼻も利く、力でも絶対勝てない、ラルフから逃げる、と考えたなら。
少し前を走るラルフがルイを追って、次の角を右に曲がる————その瞬間だった。
「は……鼻、がッ……!」
少し前を走っていたラルフが途端に自身の鼻を抑え、その場にうずくまった。
「ラルフ……!? 大丈夫か?」
俺は慌ててラルフに駆け寄る。
その瞬間、頭が痛くなるほどの異常な甘ったるい香りが鼻をツンと突いた。
しかし、それ以上に衝撃的だったのは————おびただしいほどの羽虫の大群だった。
「こ……ここは」
曲がった先にあった道は、人一人がぎりぎり通れるか、ほどの異常に細い道だった。
そして、その道沿いの両側には一切壁がなく、その空間には底の見えない暗闇があった。
(落ちたら、暗闇に真っ逆さま————か)
その道の途中には、よく見ると割れた瓶とピンク色の液体が散乱していて、その謎の液体を中心に羽虫は群がっているようだった。
「なんなんだ……この液体は」
液体は不気味なほどのピンク色で、この暗い空間の中でピカピカと光を放っていた。
この謎の空間は魔女の迷路のものかもしれないが、少なくともこの液体を撒いた本人はユウリで間違いないだろう。
直観として、そう感じていた。
「……ラルフ、起き上がれるか?」
俺は鼻を抑えてうずくまっていたラルフに肩を貸すと、何とか立ち上がらせる。
「……すまねェ」
既にルイは羽虫の大群の中に消えていた。
だが、まだ姿が見えなくなって数秒だ。
今すぐここを駆け抜ければ、間に合うかもしれない。
「ラルフ、まだ行けるか?」
「……エ……、あ……あァ」
俺はラルフを先導するように、暗闇の中へと先に一歩、足を踏み出した。
その道は人一人分が進めるほどの幅しかない。
足元をふと見つめると、すぐ両脇には底の見えない————真っ黒な空間、が広がっていた。
————少しでも足を踏み外せば。
————この暗闇に真っ逆さま。
その恐怖、に一瞬、全身を支配されそうになる。
(ここで負けるわけにはいかない……)
目の前の虫の大群を見つめ、その一点にのみ神経を集中させる。
そして、なんとか姿勢を立て直す。
羽虫がこちらに向かって数匹飛んできて、顔にパシパシと小さな衝撃を与えた。
俺は口を慌てて閉じると、目をうっすらと小さく開けて、少しずつ足を進めていく。
そうして進むうち、自身の右足が散乱していたピンクの液体を踏む。
————もうすぐ道の中心地点だ。
目前には、視界を塞ぐほどの羽虫の大群がいる。
————もう、ここからは一気に駆け抜けるしかない。
そう決意を固めたとき。
直ぐ後ろを歩いていたはずのラルフの気配が感じられないことに気づいた。
「……ラルフ?」
俺は後ろをゆっくり————と、振り返る。
すると、ラルフは————停止していた。
————道の入口に片足だけを踏み出した状態で。
「……ラ、ラルフ?」
そう俺が呼びかけると、ラルフは自身の足元を見つめたまま、顔を上げることすらなかった。
「お、オレ……た、た、たか……だ、ダ、ダ、ダメなん、だ……」
ラルフの全身がプルプルと震えているのがわかった。
その姿勢は今すぐにでも落ちてしまいそうな様子だった。
その時。
ラルフの顔めがけて、一匹の羽虫が飛んでいくのが目に見えた。
「ラルフ!」
俺が叫ぶと同時に、その羽虫はラルフのおでこ辺りに直撃した。
「……ウォァッ!」
ラルフはそう声を上げると、バランスを崩し————右足を踏み外した。
————考えている暇はなかった。
————気づけば、俺は駆け出していた。
足を踏み外して落ちる寸前のラルフの左手首を————左手でつかむ。
「エル……!」
「うっ」
しかし、ラルフは思った以上に重く————支えきれなかった。
俺の重心はグラリと揺れて、踏ん張るために戻そうとした右足に————地面はなかった。
(落ちる……!)
俺はすでに宙に身を投げ出していた。
離すまいとラルフの手首を掴む左手により一層力を込める。
そして先ほどまであった足元の地面を————右手で、掴んだ。
「き、きっつ……」
ラルフと自身の体重を支える右手は、今にも耐え切れなくなりそうだった。
「……オ、オ、お、オレを……は、はなして、くれ」
「……だ、黙ってろ!」
俺は自身を奮い立たせるためにも、大声を上げる。
————この体制から、どうすれば上に戻れるだろうか。
そう考えているうちに、羽虫の大群がこちらにどんどんと押し寄せてきた。
「そ、そうか……足に液体……が」
声を上げる間もなく、あっという間に視界は羽虫の大群で埋め尽くされた。
————羽虫の大群が全身にぶつかっていく。
————地面をつかむ右手にも、パシパシと小さな衝撃が走る。
「うっ……」
もう、耐え切れない。
右手がズリ、ズリ、と地面から少しずつ離れていく。
————その瞬間、だった。
右手に、羽虫とは明らかに違う、体温ほどの温もりが触れる。
「な、なんだ……」
その温もりが、地面を支える指先、に触れる。
「……ごめんね」
羽虫に埋め尽くされた視界の中で。
小さく、そう声が聞こえた気がした。
「……それでも、ボクはおにぃを守りたい」
「!」
その声に気づいたその瞬間。
地面を掴んだ右手の指が、ゆるり、と解かれた。
気づけば、
視界を塞ぐ羽虫が消え、
真っ暗闇の中で、
落ちていた。




