トンカチと雑音
翌朝、目を覚ませば、そこにはもう慣れてしまった日常があった。
次第に明瞭になる頭の中、突然、昨日の夜の出来事がフラッシュバックする。
「ああ……」
俺は両の手の平を見つめて、なぜあんなことをしたのか、考えていた。
ため息をついて、重い腰をベッドから上げる。
*
リビングに入ると、そこには珍しくラルフの姿があった。
「おはよう、ラルフ。久しぶりだな」
「おう、エル、おはよさん」
ラルフは俺に向けて笑顔を浮かべる。
しかし俺の心は晴れない。
「コルリにいたあのチビが来たんだな。あんな子どもで、度胸のあるやつだなァ」
「……そっか、もう会ったんだね。今ここにはいないのか?」
ラルフはきょとんした表情でこちらを見つめる。
どうやらユウリとの昨日の夜の一件までは伝わっていないようだ。
「さぁ……? どこだろうなァ。そういえばさっきトンカチはないのか、って聞かれたぞ」
「と、トンカチ……?」
突然のどことなく物騒なそのワードを聞いた瞬間、自分の心臓がドクドクと脈打つのを感じていた。
「わかった、ありがとう。ラルフ」
*
「ユウリー!」
俺は昨日ユウリが寝ていた部屋をノックする。
中から応答の声はない。
しかし、そこに誰かがいる気配がするのを確かに感じていた。
「ごめん、開けるよ」
ドアノブをゆっくり回して、おそるおそる扉を開く。
するとそこには、初めて出会った時の真っ白なワンピースを着たユウリがいた。
しかしその姿に全く似合わない、右手に大きなトンカチが握られていた。
「その、ト、トンカチは……?」
声をかけると、ユウリは後ろを振り返り、俺の方向を見てニッコリと笑った。
そのどこか不気味な笑い方に、ぞっと背筋が凍りつくのを感じた。
「……つぶしちゃえ、って思ったんだ」
俺はユウリが言うことが理解できずに、思考が止まりそうになる。
「昨日、おにぃに、その……。わかったんだ。……ボク男だったんだって」
俺は頭をフル回転させて、全神経を集中させていた。
ここで一言も言葉を間違えてはいけない、と頭のどこかで警笛が鳴っていた。
「だから、こんなもの……こんなもの! つぶしちゃえば、女の子になれると思ったんだ。そしたら、おにぃは、ボクのこと……」
ユウリはもう俺の方向を見ていなかった。
その視線の先は自身の下半身に注がれていた。
トンカチを握るその右手には力が込められていて、か細い腕に筋が入る。
「そのままでいいよ」
呟くように絞り出したその声に、ユウリはもう一度俺を見た。
しかし、ユウリは右手のトンカチを離そうとはしない。
もう一度。
もう一度はっきり言わなければいけない。
「そのままがいい、そのままのユウリが好きだよ」
その瞬間、ユウリの右手からトンカチが抜け落ちる。
トンカチはユウリの右足に当たらない寸前の位置に転げ落ち、鈍い音を響かせた。
「ほんとうに……? おにぃは、こんなボクがいいの……?」
俺はゆっくりとユウリに近づくと、震えるその肩を抱きしめた。
*
ユウリと1階のリビングに降りると、そこにはラルフとギルバートの姿があった。
そこに特に険悪なムードはなく、談笑をしている。
ラルフから聞いたことだが、どうやら俺が修行に行っている間など、情報交換として2人はよく会話しているらしい。
―――どうして、ギルバートは俺とはまともに会話をしてくれないのだろう。
間違いなく、意識的にギルバートは俺を避けている。
ならば、もっと嫌われてしまえばいい。
そう思うはずなのに、目から零れ落ちそうになるものはなんなんだろう―――?
悲しくなんかないんだからね!
「おう、エル! ……と、チビすけ! 2階から凄い音がしたが大丈夫かァ?」
「ユウリです」
ラルフの言葉に、ユウリは一瞬で反論をした。
その有無を言わさないピシャリとした物言いに、流石のラルフのたじろいでいる。
「そうそう、どうやってここまで来てくれたんだ?」
そう言うと、ユウリは俺の腕にしがみついてキラキラと目を輝かせた。
「犯人を捕まえてね、自白剤を使ったんだ。そしたらぜーんぶ! ペラペラしゃべってくれたよ。そこの、虎さんがギルバートさんの家までおにぃを運んでいったってところまで。……ギルバートさんのこの昔のおうちはおじいちゃんが知ってたから」
ユウリはラルフやギルバートを「さん」付けで呼ぶ。
しかし、そこには特別何の感情も感じさせなかった。
「本当にチビすけは薬が作れるんだな、すげェな」
ラルフはユウリに近づくと、やはり癖なのか右手でユウリの頭を撫でようとした。
その瞬間、ユウリはラルフの手を払いのけるでもなく、キッと鋭い目線で睨んだ。
「触らないでください」
その声音には、明確な拒絶があった。
ラルフは宙ぶらりんになってしまった右手で、自身の後頭部を掻いた。
その険悪な雰囲気に俺がおろおろしていると、
「で、お前はどうするんだ」
先程まで腕を組んで黙っていたギルバートが口を開いた。
すると今度はユウリはギルバートの方をきちんと見つめて、深々とお辞儀をした。
「ここに置いてください」
それから顔を上げると、今度はラルフを一瞥して、一瞬不満そうな顔を浮かべた。
そして俺とラルフ相手に再びお辞儀をする。
「どうか、ボクを旅のお供にさせてください」
ユウリのその必死な物言いに、3人で顔を見合わせる。
ギルバートはため息をついて、ラルフは困ったように自身の後頭部を掻いた。
「世話が焼けるな」
「別にいいんじゃねェか、エルがよければ、なァ」
その声にユウリはパッと顔をあげると、キラキラと眩しい笑顔を俺に向けた。
「……ようこそ!」
俺はそう大きな声で言うと、少し屈んでユウリに向けて腕を大きく広げた。
ユウリはしばらくそれを見てボーッとしたが、突然ハッと肩を震わせると、俺の胸に飛び込んでぎゅっと俺の腰に手を回した。
それを見ていたギルバートは盛大なため息をついて、ラルフは左手で自身の頬をポリポリと掻いていた。
俺は、ラルフとギルバートと、腕の中にいるユウリを順に見つめて、
「後はここにサムがいてくれたらな―――」と思いながら、一人天井を見上げていた。




