プロローグ:ケツを叩かれた美少女魔将の朝
どこまでも暗い森の中の小道。
視界を焼くほど眩しい紫のスパーク。
だがその紫光はどこか優しく、懐かしさすら感じた。
そしてこちらに背を向けて逃げてゆく、人族の少年と少女。
それがディセリーヌが昨夜気を失う前に見た、最後の光景だった。
ディセリーヌはまだ寝起きでボンヤリしている。
白いシーツに散る燃えるような長い紅髪。くせ毛なのか髪には軽いウェーブが掛かっている。そしてまだ眠そうに開いた眼は、髪と同じような紅い瞳だ。顔立ちは整っているが、気性が激しいのか、ボンヤリしていても目元はややキツさを感じる。肌は白く、紅髪と紅瞳がよく映える。
身長は145セメルほどで、人族の見掛けでは10代前半くらい。まだ幼さが残る容姿をしているが、寝転がっていても所作には貴族的な気品がある。
ディセリーヌがこのまま成長すれば、婚姻の申し込みが殺到する美女に育っただろう。もし彼女が普通の人族の娘であれば。
そしてディセリーヌが「魔将」、つまり人族の天敵とされている魔王の直属の配下である魔族でなければ。
魔将ディセリーヌはベッドの上で夢の続きでも見るかのように、最後に見た光景を思い出していた。
…ありえぬ。
そうつぶやいた自分の声で、ディセリーヌはまどろみから急速に覚め始める。
そしてまず、自分がどこにいるか確かめた。
なじみのある肌触りのシーツ、見慣れた室内。
そこは自分の寝室の巨大なベッドの上だった。
身に着けているものは…何もない。だがそれは問題ない。ディセリーヌはいつも裸で寝ているからだ。
ベッドの中で身体を確かめてみる。特に怪我をしている場所もなさそうだ。
だがなぜここで寝ているのか?
ディセリーヌには、ベッドに入るまでの記憶がない。
それは常に戦いに備える気構えの魔将としては、戦闘での負傷以外ではあってはならぬことだった。
『オレに何があった?どうしてここで寝ている?』
ディセリーヌは大の字になったまま黙考する。そしてボツボツと断片的に思い出す昨夜の記憶。
確か昨夜は暇つぶしで夜の散歩に出たはずだ。いつものように従者を一人だけ連れて。
ディセリーヌにとっては小物の魔獣を2匹ほど狩ったことも覚えている。
だがその後、奥深い魔の森--人族が「森獄」と呼んで恐れる、魔族の領域。
そこで人族に出くわした。ディセリーヌが人族を見たのは、約200年ぶりくらいだろうか。
森獄は人族にとって恵みの多い場所だ。
ここでしか採れない珍しい薬草や魔法具の材料に使う特殊な樹皮や樹液、希少な鉱石などもある。だが魔物や魔獣も多く日中でも危険なため、日が暮れてから森獄に立ち入る人族は、自殺志望者を除いてまずいない。
そして何よりも人族が森獄を恐れる理由。
そこはかつて魔王とその配下の魔族たちが住んでいた領域だからだ。
森獄を抱えるこの国--ハンゾナス王国の発表では、約300年前に勇者とその仲間が魔王ダムリアードをほぼ相打ちで討伐し、それ以降は魔王の存在は確認されていない。
だが配下の魔族や魔獣は健在で、今でも魔王の復活を願っている--人族はそう信じている。
昨夜ディセリーヌが出会ったのは歴戦の冒険者ではなく、まだ成人前の幼い男女だった。
普段、人族の猟師や冒険者が入り込んでくる領域ギリギリの浅いところではなく、よりディセリーヌの居城に近い箇所だった。
『あの2人、道でも間違えて迷い込んだのか?』
そして薄皮をはぐように、徐々に昨夜の記憶を鮮明に思い出してきたディセリーヌは、突然カッと目を見開いた。
『…ありえぬ。このディセリーヌ、腐っても誇り高き魔将の1人。あのようなことはあり得ぬ!』
その記憶に少し触れただけで、ディセリーヌは大いなる混乱と焼けつくような心の痛み…いやこの数百年ほど感じたことのない種類の怒りに塗りつぶされそうになる。
ディセリーヌは心の痛みに耐えかね、ベッドの上でガバッと身を起こした。
いや、身を起こしただけのつもりだったのだ。
次の瞬間、ディセリーヌの身体はいままで横になっていたベッドから遠く離れ、宙を舞っていた。
◇◇◇ ◇◇◇
ドゴゴゴゴッーーーン!
ディセリーヌの侍女たちはその時、起床時間が来るまで主人の眠りを妨げぬよう寝室の外で待機していた。
そこに突如響いた、室内から轟音。
「ディセリーヌ様!」
「何事でございますか!?」
慌てて駆け込んだ室内でまず目に飛び込んだのは、真っ二つになって破壊されている巨大なベッド。
もうもうと上がるホコリやパラパラと天井から滝のように落ちてくる木屑の中に目を凝らすと、ベッドのあった床の斜め上の天井から全裸少女の下半身が生えている。
「ひっぃい!」
あまりにも奇怪な光景に脅え、腰を抜かす侍女たち。
だが気丈な侍女長だけは、主人の無事を信じていた。
侍女長が凝視するのは、少女のお尻。いや、そこに白く浮かんだ複雑な螺旋状の文様だ。
白肌にペイントしたような白の文様が浮かんでは消える。ワンテンポおいてまた浮かぶ--を繰り返す
それを見て、侍女長は主人であるディセリーヌの無事を確信した。
「あなたたち、しっかりなさい!ディセリーヌ様はご無事です。まずは退避!」
「応っ!!」
侍女長の叱責で軽いパニック状態だった侍女たちは落ち着きを取り戻し、それぞれ見事な動きで部屋の入り口に戻る。
ズバ、ズバ、と天井から音がしたかと思うと下半身に両腕が備わり、次の瞬間には天井から大量に降り注ぐ木屑や漆喰の欠片と濛々たるホコリを舞い上げて、天井の全裸少女…いや魔将ディセリーヌは床へと降り立った。
「ディセリーヌ様、ご無事ですか?」
「お怪我はありませんか?」
無防備に吸い込んでしまったホコリに咳き込むディセリーヌのもとに、顔を蒼白にした侍女たちが駆け寄る。
木屑にまみれてしまった髪や顔を手布でぬぐおうとしてくれるが、ディセリーヌは侍女たちを手で制し、少々咳き込みながらも凛とした口調で腹心の名を呼ぶ。
「ラフラカーン」
「…こちらに」
背後からの声にギョッとする侍女たち。
魔将の寝室には、限られた侍女しか入ることはできない。
しかもその扉は、敵襲の可能性を警戒した侍女長によって既に閉じられている。、
侍女たちの背後からローブ姿が進み出た。
身長は180セメル弱ほどか。手先から足先までを隠すゆったりしたローブに、フードを深く被っている。そして不気味なことに、その顔には金属製のような仮面がついていた。
ゆったりしたローブは身体の特徴を隠し、どうやら人型らしい--という事意外は滅多に聞けぬ声を聞いても老人か若者かすら分からない。
侍女たちもその『仮面男』がこの300年ほどディセリーヌに仕えている腹心であることは理解しているが、どうしても気味悪さはぬぐえない。
その素顔はディセリーヌですら見たことはないのではないか?と侍女たちは噂している。
「◆・◇◇◆・」
ラフラカーンが何かを小さく唱えると、ほこりや木屑にまみれたディセリーヌの頭の上から清涼な水が湧きだし、たちまち心地よい温度の湯へと変じては20セメルほどの帯となり、ディセリーヌの体表を回転しながら頭から足先へと清めてゆく。
「清浄」の魔法だ。
その魔術の湯は身体から離れるときには一粒の汚れも湿気も残さないのか、清められたディセリーヌの身体は乾いていた。それどころか、ディセリーヌのチャームポイントでもある燃えるような長い紅毛は丁寧にブラシで梳かしたかのように艶めき、緩やかなウエーブに整えられている。
あまりに精緻なその魔力のコントロールと隙の無いセットアップに、立場を奪われた侍女たちからは「ぐぬぬぬ…」と悔し気な呻きが小さく漏れる。
さらに室内をもうもうと満たしていた土埃はいつの間にか消え、豪華なカーペットを白く汚していた木屑や木片もディセリーヌが立っている場所を中心にまるで潮が引くように消えてゆく。
ラフラカーンが「清浄」の魔法を室内にまで展開したのだろう。さすがに破壊されたベッドや天井はそのままだったが。
「ディセリーヌ様、お召し物を」
侍女長が威厳あふれる声をかけると、マジ切れ全裸少女はまだ腹の虫がおさまらない様子だったが、2度目の声掛けで薄い胸をそらせてようやく小さくうなづいた。
そして次の瞬間には魔将ディセリーヌは紅を基調とした騎士風の衣装を身に着けて立っていた。
侍女長の「装演」の魔法だ。
「うむ」
一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせたディセリーヌが振り向くと、そこにはマジ切れ全裸少女ではなく、威厳あふれる魔将の姿があった。
身長は145セメルほどか。キリッとした、少し気の強そうな美少女だ。人族の常識では年の頃10代前半の少女に見えるが、実年齢は400歳を優に超える。
普段と変わらぬ意志の強さをたたえた紅眼を見た侍女たちは、ようやく安堵を覚えた。
「侍女長、オレはラフラカーンと話がある」
その言葉に侍女長と3人の侍女たちは無言で頷き、スススッと背後から扉の向こうに消える。
そしてラフラカーンが逆に一歩前に踏み出し、ディセリーヌの言葉を待つ。
「ラフラカーン。昨夜のことだ」
ラフラカーンはその言葉に無言で頷くと、ローブの裾に手を入れ、中から何かを無造作に取り出した。
ゴロゴロと転がり出た『それ』は、ディセリーヌの足元で回転を止めると、忌々しそうな目つきでラフラカーンとディセリーヌの双方を見上げる。
『ギュググギュガゥッツ!』
転がり出てきたのは、青い毛皮をもつイタチのような4つ足の動物だった。体長は100セメルほど。短い手足にフサフサと長い尻尾が特徴だが、その手足は荒縄で乱暴に縛り上げられている。
口にも荒縄が巻かれており、その青い獣は口を閉じたままわずかに隙間から牙を見せ、自分をとらえたラフラカーンを威嚇していた。
「やはり蟲がついていたか…」
ディセリーヌはその獣を見て、感情のない声でそうつぶやいた。
「はっ。他にはノベリア様の監視獣はおりませんでした」
そう報告したラフラカーンは膝をつき、フードを被ったまま首を垂れる。まるでディセリーヌによる斬首を自ら待っているかのように。
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