第37話 言葉にしない支え
五条が帰ったあとの店内には、いつもと同じ音が流れている。
受付の電話が鳴る音。
奥のほうでスタッフたちが交わす控えめな声。
タオルをたたむ布の擦れる音。
アロマのやわらかな香りに混じる、少しだけ慌ただしい夕方の気配。
何か特別なことが起きたわけではない。
いつも通り施術をして、いつも通り見送っただけだ。
それなのに未沙は、ときどき五条が帰ったあと、胸の奥に小さな灯りが残るような感覚を覚えることがあった。
励まされたわけではない。
背中を押されたわけでもない。
大丈夫だと言われたこともない。
それでも、ここに来てくれた、と思うだけで、少し呼吸がしやすくなる。
「未沙さん」
呼ばれて顔を上げると、紗英が少し困ったような顔で立っていた。
「どうしたの?」
「すみません、次のお客様なんですけど……コースの認識が違ってたみたいで」
「認識が違っていたの?」
「はい。六十分でご案内していたんですけど、お客様は九十分だと思っていらして……予約確認のところ、たぶん私の説明が足りなくて」
紗英の声は目に見えて沈んでいた。
奥では、案内されたばかりのお客様が待合の椅子に座っているのが見える。表立って怒っている様子ではないが、戸惑いと不満が混じった空気は遠目にも伝わってきた。
少し前の未沙なら、こういう場面で胸の奥がひやりと冷えた。
予約のずれ、説明不足、待ち時間の発生。
小さな行き違いでも、店全体の流れを崩しかねない。
けれどそのときの未沙は、不思議なくらい落ち着いていた。
「大丈夫、まずは整えましょう」
「……はい」
「予約表を、もう一度確認しましょう。お客様には私からご説明します。紗英ちゃんは次のご案内が重ならないように、少し奥の流れを見てもらえますか」
「すみません……」
「その話はあとにしましょう。先に動いたほうがいいから」
紗英ははっとしたように顔を上げ、こくりとうなずいた。
未沙は予約表と受付メモを手早く確認する。
記録上は六十分で入っている。
ただ、前回の来店時にお客様が九十分コースを受けていたため、今回も同じつもりで来られたのかもしれなかった。
どちらかが一方的に悪い、というより、確認の継ぎ目が少し甘かったのだろう。
未沙は待合へ向かい、椅子に座る女性へやわらかく声をかけた。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません。ご予約内容の確認で、少し行き違いがあったようです」
女性は顔を上げる。
怒っているというより、納得できない気持ちをどう出せばいいか迷っているような表情だった。
「前回、九十分でお願いしたので、今回もそのつもりで来たんです」
「そうだったのですね。こちらの確認が行き届かず、申し訳ありませんでした」
未沙は相手の目を見て、落ち着いた声で続ける。
「本日のご予約自体は六十分で承っているのですが、もしお時間に余裕がおありでしたら、このあと九十分へ変更できるか確認いたします。もし難しいようでしたら、本日は六十分でしっかり見させていただいて、次回以降ご希望がずれないよう、こちらで記録を整えておきます」
女性は少しだけ表情をゆるめた。
「……変更、できるんですか?」
「確認いたします。少々お待ちください」
「はい」
未沙はすぐに奥の状況を見た。
担当スタッフの次の予約までは三十分ほど余裕がある。
このままなら、九十分への変更にも対応できる。
その代わり、後ろの片づけとご案内の流れは少し詰めて回す必要があった。
「真帆さん、このあとの延長、いけますか?」
「少し後ろ詰めれば大丈夫」
「ありがとうございます。では、受付側の調整を入れますね」
「了解」
必要なところへだけ声をかけ、未沙は再び待合へ戻った。
「お待たせいたしました。九十分へ変更可能ですので、本日はそのままご案内いたします」
「よかった……ありがとうございます」
「こちらこそ、確認が行き届かず申し訳ありませんでした。次回から分かりやすいよう、記録も整えておきますね」
女性はようやく安心したように息をつき、表情をやわらげた。
大きなトラブルではない。
けれど、こういう小さな行き違いほど、その場の空気をじわじわと重くすることがある。
未沙はそれをよく知っていた。
案内が落ち着いたあと、紗英がそっと受付の横へ戻ってきた。
「未沙さん……すみませんでした」
「まず気づけてよかったです」
「でも、私が最初にちゃんと確認できていたら」
「そうですね。そこは次から気をつけていきましょう」
未沙は責めるでもなく、甘やかすでもなく言った。
「予約は、入っている情報だけではなくて、お客様がどう思って来ていらっしゃるかもありますから。言葉に出ていない前提があると、こういうことは起こりやすいんです」
「……はい」
「でも、気づけたなら大丈夫です。次から最初に、前回コースをご希望ですかなど一言添えるだけでも違うと思います」
「わかりました」
紗英は少しだけほっとしたようにうなずいた。
その顔を見ながら、未沙はふと気づく。
今日は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
忙しい時間帯に予定がずれれば、以前ならもっと強く息を詰めていたはずだ。
誰かのミスを責めたくなるわけではなくても、余裕を失って、声が少し硬くなっていたかもしれない。
けれど今は違った。
胸の奥に、妙な静けさがあった。
その理由を考えたとき、未沙の中に浮かんだのは、少し前までこの店にいた五条の姿だった。
何か言われたわけじゃない。
励まされたわけでもない。
ただ、いつも通り来て、いつも通り帰っていっただけだ。
それなのに、その“いつも通り”が、未沙の中に静かに残っている。
変わらないものがある、と思えるだけで、人は少し落ち着けるのかもしれない。
未沙はそんなことを思いながら、予約表へ目を落とした。
昔の自分は、支えというものをもっと分かりやすい形で求めていた。
苦しいときに手を引いてくれること。
迷ったときに答えをくれること。
不安なときに、大丈夫だと言ってくれること。
けれど今の未沙にとって、本当に大きいのはそういうことではなかった。
ここにいてくれる、と感じられること。
それだけで、足元が少し強くなる。
ひとりで立っているつもりの場所が、ほんの少しだけやわらかく支えられている気がする。
「未沙さん」
また紗英が声をかけてきた。
今度はさっきより少しだけ落ち着いた顔をしている。
「さっき、ありがとうございました」
「いえ」
「私、ああいうときすぐ頭が真っ白になってしまって……」
「そういうことはあります。最初は特に」
「未沙さんは、全然慌てないですよね」
未沙は少しだけ笑った。
「そう見えるだけかもしれません」
「でも、なんか……大丈夫って思えるんです。未沙さんが前に出ると」
その言葉に、未沙は一瞬だけ目を伏せた。
大丈夫って思える。
その響きが、胸の奥に静かに落ちる。
自分もまた、そうやって支えられているのかもしれないと思った。
誰かの前に立って、大丈夫だと思ってもらえる自分でいられるのは、自分ひとりの力だけではないのかもしれない。
言葉にしないまま、支えられているものがある。
目には見えなくても、確かに受け取っているものがある。
「ありがとう」
未沙はやわらかく言った。
「でも、紗英ちゃんもちゃんと動けていましたよ。困ったときにそのままにしないで、すぐ声をかけてくれたでしょう」
「……はい」
「それは大事なことです。ひとりで抱え込まないことが、いちばん大切ですから」
紗英は少し照れたように笑った。
「未沙さんって、そういう言い方してくれるから、余計に安心します」
「そうですか」
「はい。怒られるって思って行っても、ちゃんと次どうしたらいいか教えてくれるから」
未沙はその言葉に、少しだけ遠い気持ちになる。
昔の自分は、こんなふうに誰かを安心させる言葉を渡せただろうか。
たぶん無理だった。
自分のことで精一杯で、誰かの不安を受け止める余白なんて持てなかった。
けれど今は、少し違う。
全部を背負えるわけじゃない。
誰かの失敗をなくせるわけでもない。
それでも、揺れた空気を整えることはできる。
大丈夫なほうへ流れを戻すことはできる。
その静かな強さを、自分の中に育ててこられたのだとしたら。
そこにはきっと、月に一度、何も言わずにここへ来る人の存在も、少しは関係している。
営業が落ち着いたのは、二十一時を少し回ったころだった。
最後のお客様を見送り、店内の照明が少しだけやわらぐ。
スタッフたちは片づけをしながら、ぽつぽつと今日の出来事を話していた。
「さっきのお客様、最後すごく安心した顔して帰ってたね」
と真帆が言う。
「うん。よかった」
「未沙さんの説明って、やっぱり落ち着くんだよね」
未沙は苦笑する。
「そんな、大したことはしていません」
「でも、ああいうときって人柄出ますよ」
真帆はそう言って笑い、タオルの束を抱えて奥へ引っ込んでいった。
人柄、という言葉が耳に残る。
未沙は受付に残された予約表を手に取り、ぱらりとめくった。
来月の欄に、五条の名前が入っている。
それを見ただけで、胸の奥が少しあたたかくなる。
何かを約束されたわけじゃない。
特別な関係に戻ったわけでもない。
この先どうなるかなんて、何ひとつ分からない。
それでも、来月もまた来るのだと思えること。
その静かな継続が、未沙の中に確かな支えとして残っている。
言葉にしない優しさがある。
何も言わないからこそ、壊れずに続くものがある。
未沙は予約表を閉じ、そっと息を吐いた。
誰かがここにいてくれる。
それだけで、人は思っているよりずっと救われる。
大きな言葉はいらないのかもしれない。
分かりやすい約束も、目に見える形も、今はもうなくていい。
ただ、変わらずにいてくれること。
その静かな誠実さが、今日の自分を支えてくれていた。
未沙は受付の灯りを落とす前に、もう一度だけ店内を見渡した。
整えられた椅子、片づいたカウンター、静かになった施術室。
今日もちゃんと一日が終わったのだと思う。
うまくいく日ばかりじゃない。
少しずつずれる日もある。
思い通りにいかないことも、きっとこれからもある。
それでも、足元を見失わずにいられるのは、
言葉にしないまま支えてくれるものが、確かにあるからだった。
未沙は小さく背筋を伸ばし、最後の電気を落とした。
胸の奥には、まだ静かな灯りが残っていた。




