第7話 新しい一歩
放課後の部室は、驚くほど静かだった。
三年生の多くはすでに引退し、机の数だけがやけに目立つ。
史帆は一人、パソコンに向かっていた。
キーボードの音だけが、部室に響く。
画面のタイトル。
「部活動と恋愛――ある生徒の選択」
摩季の恋をモデルにした記事だった。
名前は伏せ、状況もぼかしている。
部活に打ち込みながら、恋にも向き合った一例。
文章の構成は完璧だった。
導入、展開、結論。
感情に流されず、
客観的で、読みやすい。
――よく書けている。
記者としての自分が、そう評価する。
最後に編集後記を書けば完成する。
***
摩季は、迷っていた。
玲菜も、迷っていた。
それでも二人とも、それぞれの場所で、前に出た。
怖かったはずだ。
傷つく可能性も、十分あった。
それでも、立った。
――私は?
史帆は、キーボードから手を離す。
友情を言い訳にした。
状況を言い訳にした。
正しさを言い訳にした。
打ち込んだ文字を消し、小さく息を吐く。
負けたわけじゃない。
選ばれなかったわけでもない。
そもそも。
「……戦っていなかったんだ」
声に出して、確認する。
「私、最初から戦場にいなかったんだ」
自分でも驚くほど、淡々とした言葉だった。
自己嫌悪でも、後悔でもない。
それは、ただの事実。
軍師としての一番正確で、一番残酷な分析だった。
***
史帆は、原稿の余白に、一行だけ打ち込む。
『九変を知らざれば、利を得ること能わず』
――立場を変えられなければ、得るものはない。
今までの自分は、常に安全な位置にいた。
見る側。
整理する側。
応援する側。
そこにいれば、傷つかずに済む。
でも。
同時に、踏み出す権利も失っていたのかもしれない。
史帆は、初めて考える。
――変える。
という選択。
傍観者から当事者へ。
それは、責任を取るということだ。
思わず身震いした。
***
史帆は、記事を書き直し始めた。
単なる“ある生徒”の恋愛譚ではなく、自分自身の物語として。
そして、序文に次のように付け加える。
戦うことに臆病な人たちへ向けた言葉。
「恋も、夢も――踏み出さなければ、始まらない」
それは読者に向けた文章であり、同時に自分自身への宣言だった。
キーボードを打つ指に、迷いはなかった。
原稿を保存し、史帆はパソコンを閉じる。
***
原稿の提出を終えた帰り道。
夕焼けに染まる校舎を、史帆は見上げた。
――私、本気で書く仕事がしたい。
競争がある場所。
評価される場所。
恋愛では立たなかった戦場に、別の形で立つ未来。
逃げずに。
安全な場所に留まらずに。
「……悪くないかも」
小さく、そう呟いた。
***
一か月後。
学校に新聞コンクールの結果が届いた。
史帆の記事は、審査員特別賞を受けた。
「おめでとう、すごいね」
摩季が声をかける。
「ありがとう」
史帆は静かに笑う。
「でも、あの記事、何で私が主役じゃなかったの」
「ああ、あれね。勝者の物語は受けないのよ」
「ふ~ん、ちょっと残念」
摩季が、口を尖らせた。
「負けたときは言ってきて、取材してあげるから」
「え~、負けたくないな~」
「今は勝者でも、次はわからないよ」
「そんなあ、次も味方になってよ」
「どうしようかな……次は敵かも」
史帆が、意味ありげな視線を送る。
「それは困る~」
二人は、顔を見合わせて笑った。
***
これは、ゴールじゃない。
立場を変えることで得た最初の成果。
恋は選ばなかった。
でも。
何も選ばなかったわけじゃない。
史帆は、その事実を胸に刻む。
そして、
次の一歩へ向けて、静かに歩き出した。
(第8篇 九変篇 完)
あとがき
孫子の『九変篇』は、「状況に合わせて柔軟に変化することが大切」と説いています。
しかし、人は自分に課した「役割」が完璧であるほど、そこから抜け出すのは難しいものです。
作戦を立てる「軍師」として、親友の恋を支え続けた史帆。
「恋の応援者」という立場を、無意識に自分が傷つかないためのシェルターにしていました。
史帆は、自分を守り続けることが、本当の気持ちを閉ざすことになっていたのだと気づきます。
「安全な場所に居座り続けていては、欲しいものは手に入らない」
彼女は初めて、そこから一歩踏み出しました。
その先に何が待っているのかは、誰にもわかりません。
この物語が、あなた自身の「一歩」を考えるきっかけになれば幸いです。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




