第51話:本当に恐いもの
第51話:本当に恐いもの
三千度のマグマが煮えたぎる地下十階層のドーム。
だが、その空間の空気は、つい先ほどまでのむせ返るようなピンク色の熱気から一変し、チリ一つない無菌室のような静寂を取り戻していた。
「あ……ぅあ……っ」
「アタシ、なんて恥ずかしいことを……っ」
超高熱焼却炉の縁から少し離れた安全地帯。
そこには、世界最強と謳われる十一人の美女たちが、床にへたり込み、両手で顔を覆って身悶えしていた。
呪いの壺から漏れ出たガス(オキシトシン強制誘発剤)が完全に焼却されたことで、彼女たちの脳内伝達物質の分泌量は正常値へと戻った。
つまり、理性のストッパー(大脳新皮質)が完全に再起動したのだ。
それは同時に、直前まで自分が涎を垂らし、ジーンに対して「私とドロドロに溶け合って」などという常軌を逸した発情アプローチ(黒歴史)を仕掛けていた記憶が、鮮明な映像データとして脳内にフラッシュバックすることを意味する。
彼女たちの交感神経は、先ほどとは全く別のベクトルで暴走していた。急激な血管拡張により、耳の先から首筋までが茹で上がったように赤く染まり、羞恥心によって極限まで上昇した体表温度が、冷たい地下の空気に触れて薄い湯気を立てている。
「死にたい……もう、剣士の誇りなんてどこにもないわ……っ」
「ジーン様に、あんな、あんな雌犬みたいな声で……嫌ぁぁぁっ!」
氷の剣士セレスが長剣を放り出して膝を抱え、箱入り聖女ソフィアが床に額を擦り付けて震えている。
誰もが、ジーンの顔を直視することなど絶対にできない状態だった。
だが、その強烈なメスたちの羞恥と後悔の嵐すらも。
世界で最も不器用なポーターにとっては、「エラーを吐き出し終え、再起動中の機材群の駆動音」にしか聞こえていなかった。
「……はぁっ」
ジーンは、百二十キロの危険物を背負っての長距離搬送と、極限の回避運動、そして先ほどの「バイタル偽装」による凄まじいエネルギー消費により、ついに大腿四頭筋と広背筋の稼働限界を迎えていた。
彼は泥だらけのブーツの重みを抜くように、ドカッと石の床に腰を下ろした。
(……筋グリコーゲンが完全に枯渇している。ATP(アデノシン三リン酸)の再合成サイクルも限界だ。急速なリカバリーが必要だな)
ジーンが額の汗を分厚い革手袋で乱暴に拭い、深く、長い息を横隔膜の底から吐き出した、その時。
「ハァッ……ハァッ……。ちょっと、あんたたち……!」
ドームの入り口から、息をゼエゼエと切らせながら、受付嬢のマリーが転がり込んできた。
彼女は、ガスの匂いが消えたのを察知し、長い長い地下階段を自らの足で駆け下りてきたのだ。
「一体、何事……って、何よこれ。なんで焼却炉の前が、新築のギルドみたいにピカピカに清掃されてるのよ……」
マリーは、チリ一つないドームの床と、顔を真っ赤にしてうずくまっている十一人の美女たち、そして、一人疲労困憊で座り込んでいるジーンを交互に見比べ、呆然と目を瞬かせた。
「……対象物の廃棄プロセスにおいて、少々システムを誤認させただけだ。結果的に、原状回復の清掃プロセスまで完了した。効率的な運用だった」
ジーンは気怠げな三白眼をマリーに向け、極めて事務的に報告した。
「……あぶないところだった。一歩間違えれば、俺の肉体が深刻な損壊を被るところだったからな」
「……はぁ」
マリーは、大きくため息をつき、腰に手を当てた。
長年彼と付き合ってきた彼女には、ジーンが大真面目な顔で言う「システムを誤認させた」という言葉の意味が、だいたい想像がついた。
この男は、呪いの怪異すらも物理法則とロジックでハッキング(詐欺)し、都合よく利用して自滅させたのだ。
「へえへえ、お疲れ様。あの最強の魔王より厄介な連中(うちのバグ女たち)を相手に、よく生還したわね」
マリーは、半分呆れ、半分は心底ホッとしたような笑みを浮かべた。
「……で? 怪物の『恐怖を喰らうシステム』を上手く騙してピカピカに清掃させたあんたが。……今、この世界で『一番怖いもの』って、結局一体何なわけ?」
それは、マリーなりの軽口だった。
この何事にも動じず、恋愛感情すらバグっている最強の男を、少しだけからかってやろうという、実家の受付嬢としてのささやかな意趣返し。
だが。
ジーンは、その問いかけに対し、大真面目な顔で沈黙した。
彼の三白眼が、ゆっくりとドームの天井を仰ぐ。
極限まで酷使された筋肉。細胞レベルで枯渇した水分とアミノ酸。
彼の肉体というシステムが、今、何を最も欲求しているか。
「……そうだな」
ジーンは、気怠げな視線を再びマリーへと向け、ひどく重々しい声で宣告した。
「現在の枯渇した細胞と、大量に発生した活性酸素を処理するために……抗酸化作用をもつカテキンを豊富に含んだ『熱いお茶』と。筋繊維の破壊を超回復させるための『極上のプロテイン』が……」
ジーンは、大真面目に顔をしかめ、額に脂汗を滲ませて言った。
「……今、恐ろしくてたまらない」
ピタッ、と。
その言葉が地下空間に響いた瞬間。
顔を覆って身悶えしていた十一人の美女たちの動きが、完全に停止した。
「……え?」
マリーが呆気にとられる中。
「……お茶、ですって?」
「プロテイン……筋肉の、修復……」
羞恥で真っ赤になっていた彼女たちの瞳に、再びギラギラとした『ドス黒い熱』が宿り始めた。
ピンク色のガス(呪い)など、もう関係ない。
愛する男が、極限の疲労の中で「自分たちからの物理的なメンテナンス(給仕)」を求めているのだ(※ジーン本人は純粋に栄養補給を要求しているだけだが)。
女たちの自尊心と庇護欲、そして「アタシが一番に奉仕する」という激重な独占欲が、大爆発を起こした。
「私がいれますわ! 最高級の茶葉を、完璧な温度で抽出して差し上げます!」
「ふざけないで! 疲労回復ならアタシの特製アミノ酸ドリンクが一番に決まってるでしょ!」
「いいえ、私が! 私の冷たい氷で、お茶を極上の温度に……ッ!」
バッ! と立ち上がった十一人の美女たちが、一斉にジーンを取り囲む。
先ほどまでの羞恥など完全に吹き飛び、彼女たちの手にはいつの間にか、水筒やティーカップ、怪しげな薬瓶が握られていた。
「さあジーン様、私の淹れたお茶を……あぁんっ、押さないでよ砂女!」
「アタシのプロテインを先に飲め! ほら、口を開けろヒョロガリ!」
右から熱いお茶が突き出され、左からドロドロのプロテインが押し付けられる。
再び始まった、世界最高峰の女たちによる血みどろの陣取り合戦(ドタバタ喜劇)。
だが、その中心で十一個のコップを押し付けられ、身動きが取れなくなっている不器用なポーターは。
(……水分および栄養の供給ルートが、多重にバッティングしている。このままでは摂取プロセス(嚥下)に致命的なエラーが生じるな)
大真面目に「納品物の交通整理」の演算を開始し、ひどく鬱陶しそうに三白眼を細めていた。
「……はぁ。呪いが解けても、結局これなのね」
マリーは、完全に日常を取り戻した『実家』の光景を前に、新しい胃薬の瓶を取り出しながら、可笑しそうに吹き出した。
魔法に頼らず、物理と筋肉で世界のバグをハッキングする男。
彼がどれほど無機質に「業務」を遂行しようとも、彼が落としていく圧倒的な極限奉仕(優しさ)の熱は、これからも世界中の美女たちを狂わせ、ギルドに新たな騒動(荷物)を運び込み続けるのだろう。
だが、どんなトラブルが起きようとも、この不器用なエージェントは、決してその歩みを止めることはない。
世界で最も不器用で、最も愛される『最強のリュックサック』の日常は、これからも永遠に続いていく。
(完)




