34.離島
五月九日の土曜日は、青空に吸い込まれてしまいそうな、雲一つない見事な晴天だった。事件が無事に解決して、恭助と鴇松は本土へ帰るために小木港へやってきていた。改札を通り抜けて、双胴型の優美な形状を誇る高速のカーフェリー『あかね』へ、二人は乗り込んだ。
「いやあ、想定以上の難事件だったなあ。予定よりも帰りが四日も遅れちゃったからねえ」
恭助が笑いながらいった。
「いえいえ。わずか二週間で難事件が解決するなんて。すべてが恭助さんのおかげですよ」
「臼杵梢の刑期はどうなるんだろう……」
「さあ、今後の裁判しだいですね。いくら若林からそそのかされたとはいえ、計良美祢子殺害の罪はまぬがれません。あとは、若林の死に関して、彼女がどう絡んでいたのかが焦点となることでしょう。仮に、若林が病死だったと裁判員が認めたとしても、遺体の遺棄に関しての罪は問われることでしょうね。刑期は禁固七年くらいじゃないですか」
鴇松が表情を変えずに答えた。
「身ごもった子供はどうなっちゃうんだろうね」
「産むそうですよ。彼女がそのように希望を述べたらしいです」
「あーあ、女ってやつはつくづく分かんないなあ。俺が臼杵だったら速攻で堕ろしちゃうよ。だって、可愛そうじゃん。子供が大きくなってから父親のことを問われたら、いったいなんて説明するんだい」
恭助が大きな欠伸をした。その様子を見て、鴇松は独り言をつぶやいた。
「私は臼杵梢をか弱い人物だとずっと思っていました。でも、それは大きな間違いでした。彼女はとても強い人なのですね……」
鴇松と恭助は甲板へ向かって歩いていた。『あかね』は最新の技術を駆使した高速フェリーで、小木ー直江津間の航路を、『こがね丸』だと二時間半かかってしまうのを、わずか一時間四〇分での運行を可能としているのだ。
「ところで今回の事件ですが、恭助さんはどのように推理をし、真相へ到達されたのですか」
「そうだね。事件の概要を最初に聞いた時の俺の印象は、第三の殺人の異様な残忍さだった。本間柊人と計良美祢子の事件に比べて、市橋斗馬の事件だけが格別にむごたらしさがにじみ出ているように感じたんだよ。あれは市橋に直接恨みがなければできない犯行だと、直感で俺はそう感じた。
連続殺人事件の中で、犯人にとって市橋殺しは極めて重要な犯行だった――。ほかに明確な手掛かりがなかった以上、俺の推理のスタートは、そこからだったんだ。
ところで、市橋を殺す動機ってなんだろう。まさか、小学校の時に市橋から殴られた恨みを、今さら殺人でもって晴らすとも思えない。もっと深い何らかの因縁があるはずだ。そして、当時の川茂小学校では、美少女の謎めいた自殺事件があった。ひょっとしたら神楽澪の自殺に市橋が絡んでいて、彼女の復讐を果たすのが犯人の目的なのだろうか、というシナリオが、真っ先に脳裏に浮かんだんだよ。
そして、計良美祢子が書いた手紙の文章を見た時に俺は、それを書いたのが計良美祢子ではなく、若林航太が書いたものではないかと推測した。というのも、文中に『悪い子には罪をつぐなってもらわなければなりません』と書かれてあったからだ。計良美祢子の一族の宗派は法華経。つまり、彼女は仏教徒だ。仏教徒なら『悪い子には天罰が下ることでしょう』という文句を書くのが相場だろうね。明らかにこの手紙を書いた人物は、キリスト教徒であることがひしひしと伝わってくる。今回の事件の登場人物でキリスト教徒である人物は、誰かいるのだろうか。やはり、真犯人のベクトルは、常に若林航太の方向を指し示していたんだ。
ただ、若林が犯人だとすると、計良美祢子殺しのアリバイを崩さなければならない。そこで考えられるのが共犯者の存在だ。しかも、殺人まで協力してくれる強い絆で結ばれた共犯者となると、そんじょそこらには居そうもないから、必然的に若林の愛人が怪しくなる。すなわち、臼杵梢が一番疑わしくなってくるんだよね。
でも、俺が確信を持ったのは、カラッチが四つの殺人の順番を指摘してくれた瞬間だった。四つの殺人はなぜあの順番で行われたのか――。真っ先に考えなければならなかったこの単純な疑問を思案してみると、若林以外には犯人はあり得ない、という結論に達したんだよ!」
「殺人の順番ですか……。
本間柊人、計良美祢子、市橋斗馬、そして若林航太本人ですけど、この順番になにか意味が込められているのですか」
「あれれ、殺された人間の順番だって、俺、いったっけ……」
恭助がキョトンとした。
「ええ、そのように受け取りましたけど」
「ああ、ごめんごめん。俺がいった順番ってさ、殺された被害者の順番じゃなくて、殺害現場の順番なんだよ。
弾崎灯台、沢崎鼻灯台、姫崎灯台、台ヶ鼻灯台――。
犯人は、明らかにこの順番で意図的に犯行現場を選んでいた。現場をこのように選択したことに、ある特別な理由があったんだ!」
「その順番を変えてしまうと、何か問題があるのですか?」
「ああ、少なくとも若林にとって、この四つの犯行現場の順番は、絶対に変えられなかったんだよ。そして、それが俺の推理の最後の決め手となった。今回の事件の真犯人は、若林航太だとね」
自信ありげに断言する恭助に、鴇松が問いかけた。
「分かりませんね。四つの灯台の順番が、いったい何を意味しているのですか」
「ふふふっ、単純なことさ。若林航太はクリスチャンだ。たとえ、みずからの安否の確保と、会社の存続のためとはいえ、たくさんの殺人を犯すことには、さすがにやつにも罪の意識があった。だから、やつは四つの殺人の順番を佐渡島の四端に、あえて選んだんだ。『北、南、東、西』 の順番でね」
「北、南、東、西のランドマークになっている四つの灯台。確かにその通りですが……」
恭助がにっこりと笑った。
「佐渡島の地図を見ながら、その順番に四つのランドマークを指でなぞってみなよ。
まずは、上から下。その後で、右から左だ――。
ほら、描けたろう。これからとてつもない犯罪を犯そうとしている若林航太が、神に懺悔をするために切った『十字架』の形がはっきりとね……」
元はといえばちっぽけな過失致死から始まった忌まわしき連続殺人事件。若林航太が酒造会社の社長という重い地位についていなければ、出頭して少々の罪を償って、それだけで終わっていたのかもしれない。しかし、多くの社員を路頭に迷わすこともできず、彼はずるずると深淵に引き込まれてしまった。
本間柊人が、強制性交事件の犯人が市橋斗馬であることを突き止めていなければ、そして、そのことを若林に話さなければ、さらに、若林が復讐をしようと心に誓わなければ、やはりこのような凄惨を極めた異様な連続殺人事件には発展しなかったのかもしれない。
甲板へ向かって歩く鴇松の脳裏に、八月八日の午後八時頃に法律事務所で交わされた本間柊人と若林航太の二人の会話が、ふと浮かんできた。もちろん、これはあくまでも鴇松の単なる勝手な憶測に過ぎないのだが、それに近いやり取りが行われていたことは、ほぼ疑う余地はない。もっとも二人が死んでしまった以上、その内容を知る由は何も残されていないのだが……。
「航太。お前がラブホテルから出てくるところを、こっそりと写真を撮らせてもらったよ。これを奥さんへ渡せば、彼女は喜んですぐさま離婚の手続きをしてくれることだろうね。そうなれば、お前は晴れて望んでいた自由の身となれる」
「俺を脅迫しているのか?」
「はははっ。そんなつもりはないが、昔のよしみだ。お前はいったいどちらにして欲しいんだ。浮気証拠を奥さんへ提供するのか、それとも隠蔽をするのか。僕はどちらでも構わないけどね」
「隠蔽するためには、なにが欲しい?」
「二百万で手を打とうじゃないか……」
「そんな大金を俺が払うとでも思うのか」
「浮気証拠を御旗に離婚訴訟が起こされれば、慰謝料でお前は何千万円も失うこととなるんだ。安いもんじゃないか。それに、僕もまだ仕事を始めたばかりで、少しばかり軍資金がいるんだよ」
テーブルの上に投げ捨てられた数枚の写真には、ラブホテルの入り口から出て来る若林と、その後ろを歩いているバケットハットとサングラスで顔がすっぽりと隠された、コートを羽織った女性の姿が写されていた。『かくれんぼクラブ』というホテルの看板も、はっきりと写されている。
「この写真では女の特定はできないな」
負け惜しむように、若林がいい放った。
「ああ、別に女の身元に僕は関心はないからね。むしろ、誰だか分からない写真の方が、彼女のプライバシー保護のためにも良かったんじゃないか」
「はははっ、こいつはお笑いだ。つまり、お前は、女のことまでは突き止めていないってわけだ」
「それはそうだが……」
「分からないか、この女は、臼杵梢だよ――」
「なに?」
「彼女は今や最高の女に成長しているよ。そして、その高貴なる処女を、俺はまんまといただいたってことだ」
この時の若林は、きっと勝ち誇った表情をしていたことだろう。それは、長年後塵を拝し続けた本間柊人をついに出し抜いた瞬間だったからだ。しかし、本間柊人はやはり底知れぬ人物であった。顔色を変えずに、彼はいい返した。
「航太。お前とのセックスの時、梢ちゃんは出血をしたのか? してはいないだろう……」
不意を突かれた若林は、一瞬で蒼ざめた。
「お前はいったい何がいいたいんだ。たしかに出血はなかったが、あのふるまいは初めてに違いないさ」
「梢ちゃんは処女ではないんだよ」
「なんだって……」
臼杵梢に関する以外の内容だったら、たとえ若林航太が本間柊人に自慢話を持ち掛けたところで、本間柊人が動じることはなかったであろう。でも、臼杵の話だからこそ、それが許せなかった。本間柊人といえど、冷静さを失うことはあったのだ。だから、すでに調べ上げていた機密事項ファイル7の極秘内容を、本間は若林へうっかり漏らしてしまったのだろう。そしてこの瞬間に、臼杵梢が中学一年の時に突然不登校になった理由が、市橋斗馬によるレイプ事件であったことを、若林航太は初めて知ることとなる。
市橋斗馬に対する憎んでも憎み切れない遺恨が、この時の若林の心に芽生え、理性が吹っ飛んでしまったのだ。
尋常ならざる鋭敏な頭脳を誇った本間柊人と若林航太――。しかし二人とも、臼杵梢のこととなると、冷静さを失い、頭に血がのぼってしまった。それだけ臼杵梢という女性のことが好きだったということか……。
小木港にて、佐渡島を去り行く鴇松と恭助に、仕事中だった本間桃佳が、わざわざ売店を抜け出して、見送りに埠頭に立っている烏丸巡査部長の横で、いっしょになって手を振っていた。素朴であどけないけど、島女の意志の強さが感じ取れる、とても明るい笑顔だった。
「いやあ、恭助さん。今回の難事件の解決、本当にありがとうございました。おや、どうかなされましたか」
甲板の手すりにもたれかかっている恭助は、下を向いていた。
「ああ、そうだね。なんかせつなくなっちゃってさ。これで、佐渡島を離れなければならないからねえ」
「そんなものですかね……」
「トッキーはそんな気持ちは感じないのかもしれないね。いつでもここへ来ることが出来るからさ」
「そうですね。今回みたいに、来たくもないのに来なければいけなくなることもありましょうし」
「俺にとっては、もしかしたら、死ぬまで二度とここへ戻ってこないかもしれないんだよね。そう考えるとさ、なんかキュンと来るというか。とにかく、船での旅立ちって、独特なんだよね」
「そんなことおっしゃらずに、また、いらしてください。佐渡はなんといっても、冬が一番です。静かで、何もなくて、それに魚も美味しいですしね」
甲板には他にも乗船客が姿を見せていた。
「昔は紙テープで、フェリーの出航の時に別れを惜しんだのですよ」
「どういうこと?」
「ほら、あそこでやっていますよ。フェリーの甲板から、紙テープの端っこを持って、わっかの部分を地面へ投げるんです。それを下で受け取った人が、割り箸なんかを利用してわっかを固定して、くるくると回るようにするのですよ。あとは船が移動するのに引っ張られた紙テープが伸びるだけ伸ばされて、最後には切れてしまうのです。こうして、昔から出航の別れを人々は惜しんできたのですよ」
「ふーん。でも、そうしたらさ、海が紙テープで汚れちゃうよね」
「はははっ。まあ、そうですね」
恭助のつぶやきに、鴇松は苦笑いをした。
「それにしてもさ、カラッチと桃佳ちゃんじゃあ、まるで、美女と野獣じゃない。カラッチが越えたがっているハードルってさ、いっちゃなんだけど、めちゃくちゃ高いんだよね」
「おや、恭助さんも気付かれましたか」
「そりゃあ、分かるさ。だって、桃佳の前にいるカラッチって、いつも顔を真っ赤にしていたじゃない。結局のところ俺たちってさ、人を観察するのが商売なんだよね」
山肌を飾る新緑の木々がエメラルド色に輝いている佐渡島も、もうだいぶ小さくなってきた。天空の青さよりもずっと濃い、紺碧色の日本海に、フェリーが通ったあとの一筋のあぶく道ができている。たしかに恭助のいう通りだ。もしかしたら二度とこの島にやって来ないことが自分にもあり得るかもしれないと、この時の鴇松は少しだけ予感した。
小さな離れ島の佐渡で勃発した世にも忌まわしき連続殺人事件は、こうして終結を迎えた。でも、いったい何が悪かったのだろう。鴇松は考える。運命の歯車は、時に残酷に廻ってしまうものらしい。
幼い子供が投げるスナック菓子を取りに、たくさんのカモメが、『あかね』のまわりをくるくると飛び交っている。甲板にたたずんで、沖合のあたたかい潮風に吹かれながら、鴇松は川茂小学校の閉校式のビデオ映像を思い出していた。
晴れの舞台で、若林航太と本間柊人が交わした歓喜のハイタッチ。あの美しい瞬間は、もう二度と戻っては来ないのだ……。
長い文章をお読みいただきありがとうございました。よろしければ、みなさまからのご感想をいただければと思っております。
P.S.
本作のリアルタイム正解者ですが、『アルケミスト』さまがご正解をなされました。おめでとうございます。