アナト・ダネイの表明
ガレッドル共和国が生まれたのは、アナトの父が死んだ日であった。
苦い戦争の記憶を過去として、二度と過ちを犯さぬようにと世界初の共和政治に踏み切った祖国をアナトは誇りに思っている。だがそれでも建国記念日が近づくと感傷的にはなった。
アナトの脳裏に蘇るのは、表通りのパレードの楽し気な音と人々の歓声が聞こえる中、母と二人で父の枕元に座り泣きながら抱き合ったことだった。
アナトの父は軍人貴族の出だった。次男坊として恋愛結婚を許された彼が恋に落ちたのは、商人の父が爵位を買って貴族になったという経歴を持ち、貴族社会では嘲笑の対象となっていたある女性とであった。
二人の結婚は誰にも祝福されなかったが、誰にも反対されなかった。
だが想い合う二人が手を取り合い仲睦まじく暮らしていると、同じように手を取り合う人々が集まるものである。
アナトの父は結婚後とんとん拍子に出世をして多くの部下を率いるようになる。母は受け継いだ事業が更に成功をおさめ、彼女もまた多くの社員を率いた。
だからアナトが物心ついた頃には、両親に恩義を感じ両親を愛し、そのまま二人の愛の結晶であるアナトを無条件に愛して大切にしてくれる優しい人々に囲まれていた。
それが奪われたのは大蜜柑戦争である。いや、ガレッドル王国はそれよりも前に帝国の息がかかった西大陸のある国と戦争をしてはいた。
その国の背後には帝国が、ガレッドルの背後にはカレンシアがいたために、さながら代理戦争のようであった。
戦いは順調で、父は何度も作戦を成功させて家族の元へ帰ってきた。心身を鍛えることの大切さを娘に説き、適切なトレーニングを教え、共に壮健な日々を過ごした。
大蜜柑戦争とはネーミングこそは可愛いが、やるせない事件が発端となった戦争である。
簡単に言えば、対帝国に備えてカレンシア軍を駐留させていた小国の縹国とカレンシア軍の間でいざこざがあった。その揉め事自体は当事者同士で解決したのだが、それを面子を潰されたとカレンシア領事館の貴族が腹を立て、本国に虚偽の報告を行った。それとほぼ時期を同じくして事故と事故が重なり縹国側の重要人が死んでしまったのだ。
それに縹国側は怒り、カレンシアに対して謝罪と賠償と軍隊の即時撤退を求めたが、虚偽の申告を完全に信じたユヴォークと側近たちは即座に軍を使っての制圧を命令した。ここではまだユヴォークたちもただ事態の収拾に努めていただけなのだが、領事館の貴族たちはそれを制圧戦だと解釈。開戦の宣言もなく一方的に焼き払ったのだ。
帝国はそれを見逃さなかった。東西の区分なく全ての国にカレンシアの暴挙を吹聴して扇動し、世界中の国が反カレンシアを宣言する事態になった。そんな中、帝国と戦う力が欲しいガレッドルはカレンシア側を表明する。
その晩、ガレッドルの北に位置するブルトーヌから、深夜にドラゴンによるガレッドル市街地への強襲が行われた。アナトの住んでいた街とは十キロも離れていない。だから深夜に煌々と燃える火を両親と共に見た記憶がある。険しい顔をした父がアナトの頭を撫でて、そのまま出立してしまったことも。
なんと言えばいいのかわからなくて、何も言えなかったことも、覚えている。
ガレッドルを救うべくカレンシアは立ち上がり、カレンシアと戦うために西側諸国も蜂起して、東大陸北西部と西大陸北東部であらゆる国を巻き込んだ大戦争が起こってしまった。
明確に参加しなかったのはローマンデルジェイとブレアルネイソルだけであり、奈の国のいくつかの島ですら当時西側諸国につき様々な支援物資を送っていた。ワジェンデイクもカレンシアとは戦っている。だからこそ逆に参加しなかったその二国は独特な立ち位置を盤石なものとした。
アナトの住む街が戦火に飲まれなかったのは奇跡としか言いようがなかった。だが、戦地へと赴いた父はいつものように帰っては来なかった。
ブルトーヌとカレンシアの間で条約が締結されて戦争の終幕宣言がなされた時、ようやくアナトの父は帰ってきた。四肢を失い、全身にやけどを負った状態だった。
父の部下も大半が死んだ。連れ帰ってきてくれた二人の部下は呪詛に蝕まれており、上司より先に死んでしまった。
父はそれでも生きている。母は、しばらくアナトと遊んであげられないかもしれない、と説明した。夫の世話に専念したいからだ。
アナトは聡明で、勇敢で、愛を知る娘だった。だからこそ自分も二人を助けたい、と話し、母娘は手を取り合った。両親や周りの人々に教えられたように。
その後の生活は酷いものであった。金も人も教育も足りているはずのダネイ一家でこれなのだから、他の傷痍軍人とその家族は更に大変だっただろうと今のアナトは振り返る。だが当時は自分たちだけがこんなに苦しくて酷い生活をしているのだと、荒んでいく心を自覚するほどに追い詰められていた。
父は喉を焼かれて話せない、鼓膜が片方破れて聞こえない、同じく片目も斬られていてあまり見えていなかった。ただし痛覚だけはしっかりと残っていて、四六時中くぐもった声でこらえきれない痛みを訴えていた。
一日に五回全身の包帯を変え薬を塗り、新しく雇った治癒術士たちに何時間も魔法を使ってもらい、シーツは二度取り換えた。そうしないとすぐに焼けた肉がこびりついて更なる苦痛を与えてしまうし、包帯もベッドも腐った血が滲み凄まじい匂いを発する。
治癒術士たちはみな良い人ばかりであったが、ガレッドルで彼女たちの力を借りたい人々は数えきれないほどいた。だからいくら金を積んでも専属医師にはなってくれなかった。彼女たちもまた高潔な人間で、様々な人々の助けになりたいと思っていたからだ。
アナトはその時、ほんの一瞬だけ、それでも父だけを助けてほしいと望んでしまった。すぐにそれを恥じて、鍛錬に打ち込んた。その間は色々なことを忘れていられるからだった。
自分が回復魔法を使えないことを母も娘も責めた。そのくせ相手には平気なふりをしてニコニコ笑っていたために二人で協力しているにもかかわらず孤独な戦いをしてしまっていた。
アナトは学校が再開しても行きたがらず、屋敷にこもり父の介護を続けた。
もう長くないだろう、と医者が告げた日は、他の子どもたちが戦争後初めて開催できた合唱会を楽しんでいる時だった。
近所の学校から祖国をたたえる歌が聞こえてきて、母が食器を床に叩きつけた。
アナトの人生において、母がこんなことをしたのはその時の一回だけだった。母は呆然としながら自分が叩きつけて割れた食器をしばらく眺め、座り込んで素手で拾い上げた。
欠片で指が切れてガサガサになってしまった肌に赤が滲んだ。そうしてやっと、ぽたぽたと大粒の涙を流した母を見て、アナトは耐えきれなくて屋敷を飛び出してしまった。
その日は偶然が重なって朝の鍛錬ができず、父も見捨て、母も置いてきた。
外では子供たちが楽しそうに歌っている。
こんな国滅んでしまえ、帝国もカレンシアも滅んでしまえ、ドラゴンも嫌い、戦争も嫌い。
アナトは生まれて初めて、憎しみの涙を流した。
だが父は最期まで愛の人だったのである。
死ぬ前日、街は明日に控えた共和宣言を前にそわそわと落ち着かない様子だった。
母娘はもう疲れていた。会話も無く、それでもただ一緒に父の部屋にいた。部屋に帰って寝るのも面倒で、アナトは適当な服で床に転がって仮眠をとっていた。
母はいつ何があっても動けるように椅子に座りっぱなしで腰を悪くしていた。使用人たちもみな連日の仕事と介護に疲れていて母の腰を心配していてもどうにもできなかった。
誰しもに余裕がなくなっていた。それでも父が突然、
「二人、とも、ちゃん、と、休、んで、ほし、い」
と喋り出した時、全員がすぐさま飛び起きて彼の言葉に耳を傾けた。
父は地道に魔力による肉体の修復を試していた。外部からの治療は手遅れで通用しなかったが、内部からは多少なら戻せる。以前読んだ書物の一文を信じ、彼は寝返りもできない日々の中、喉を治していたのだ。
彼とて愛する妻と娘の顔が見たかった。記憶より娘は成長しているだろう。妻に似た美しい顔になっているさまを見たかった。愛する妻と娘の声が聴きたかった。水中で隣の部屋の声を聞いているようなあやふやなものではなく、クリアな音で二人の愛している、を聞きたかった。
だがたった一つ奇跡を信じるしかないこの身なら、自分の望みより二人の未来を言祝ぐべきなのだと彼は考えたのだ。
「私を、諦めない、で、いて、くれて、ありが、とう」
一言喋る度に激痛が走る。
「だ、から、君、たちも、自分を諦、めな、い、でいて、ほしい」
何度も何度も吐きそうになりどもっても、最後まで彼はしゃべってみせた。
「愛し、愛される……私たちで、いよう。愛している、よ、イルラ、アナト」
そうして、ピクリとも動かなくなった。かすかな呼吸がだんだんとゆっくりになっていく。
アナトの母は、イルラは、あ、と声をあげて立ち上がた。
「アナト、少しだけお父様を見ていて」
足早に部屋を出たイルラは、確かにすぐ戻ってきた。だが服が家族三人で過ごしていた頃によく着ていたものに変わっていた。久しぶりにそれを着ている母を見て、アナトは嬉しくなってしまった。髪もひっつめではなく簡単にまとめている。
「いつもの私たちでいましょう」
すごく抽象的な会話だったにもかかわらず、アナトはなんだか納得してしまってばぁやに髪を梳いて、と頼む。彼女は涙ぐみながら綺麗に整えてくれた。随分長い間、髪は適当に一つに結って終わりにしていた気がする。
父と同じ金色の髪を、こんなにも粗雑に扱っていたのか。アナトは焼けてなくなってしまった父の髪が、ここにあることに気がついた。自分がそれを受け継いでいるのだとやっと理解した。
「夕飯は何が食べたい?」
「リンゴソースの鶏肉ソテー!」
「私の好きなお料理ねぇ。それがいいの?」
「うん!」
「じゃあシェフ長。みんなの分も用意してもらえる?」
「はい!お任せください!!!」
その日は使用人も従業員も集めて屋敷で食事をとった。そうしてみんな、父に別れを告げた。
次の日の昼、パレードの中、父は眠った。アナトとイルラは抱き合い泣いたが、それでもどこかきちんとお別れができたのだとすっきりした気分もあったのだ。
だからアナトにとって戦争が終わった日は父の葬式の日。
立派な墓に手ずから作った花輪をかぶせたその時であった。
ガレッドルはアナトの生まれ育った国である。だが元はといえば確かに奪った国なのだ。荒野を彷徨った先祖たちは、多大な犠牲を払い自分たちの国を手に入れた。多大な犠牲、というのも略奪者が言うのは憚られるがそうはいってもガレッドルで教えられる歴史書にはそう書いてある。
ドラゴンの襲撃があった時、他の街では先祖のツケが回ってきた、と言う人もいた。街を破壊し人を殺し言葉を消し文化を踏みにじった。そうして人々の生きた痕跡を上書きした自分たちは、同じように上書きをされても仕方がないのだ、と。
アナトは今でも、それが正しいことなのかそうではないのかを考えている。
罪は罪だ。だがそれを子孫に払わせるのか?
罪は罪だ。奪われた人はその怒りも屈辱も忘れて”大人”になって”前を向いて””幸せに””正しく”生きなければいけないのか?
焼けただれて四肢を無くした父が帰ってきた時、アナトはもう二度と自分に幸福は訪れないのだと感じた。あの時の絶望や怒りを無かったことにするのは、アナトという人間の歴史に失礼だ。見て見ぬふりだと思う。
いつまで過去に囚われているんだ?とは莫大な資産を持つ未亡人となった母に言い寄る男たちが、やたらと口にした言葉であった。
悲しみを忘れて新しい人生を生きよう!だの過ぎたことにこだわるな、だの耳にタコができるほど聞かされた言葉だった。
……今になって、それはそれで正しい言葉なのだともわかるようになった。
様々な人物と出会い様々な関係を築いたことで、アナトはやっと忘却と黙認と否定が違うとわかったのだ。彼女はあの時の怒りを忘れない、黙らない、否定しない。
だからこそ、忘れたがる自分を薄情だと苦しむ人を助けたいと思う。言葉をあげず立ち上がらない人々の弱さに立ち向かいたいと考える。犠牲者などいないと言い切る人々から傷ついた者を守る盾になりたいと願う。
それが彼女の思い描く愛の人である。
それはそれとして、そのためには強さが必要なのだ。にもかかわらずゾンビドラゴンとの闘いの中で吹き飛ばされたアナトは、そのまま瓦礫にまみれて気を失い、目が覚めたら異国の王子がなんとかして愛しのレウカを助けていたのである。
助けてくれたのはありがとう、だ。それでもし二人が急接近したらおめでとう、だ。
だがそれでも!わたくしが!悪いドラゴンの一匹や二匹ぼっこぼこにしてお~っほっほっほ!と笑ってレウカにアナトって最高よ!と言ってもらってハッピーエンド、ちゃんちゃん♪で終わりたかった~!と心の中で叫ぶのをやめられないのである!!!
アナトは凹んでいた。在りたい自分で在れない自分の弱さ故だった。だからこのシトロンの部屋でくだを巻き、軽い討論をし、拳を握りながらも着席し、ぐだぐだと時間を過ごす。無駄な時間だ。それがかけがえないのだ。
彼女はそういうささやかな時間すら諦めない。
今日は思う存分下らぬ会話を繰り広げ、明日からはトレーニングを見直し肉体と精神をチューンナップしていくつもりだった。小休止にしてはいささか刺激的だ。
自室に戻ったら母と、昨年再婚した義父に手紙を書こう。レウカや他の一風変わったメンバーと楽しく過ごしているということと、怪我もせずぴんぴんとしているが悔しい思いはしたということと、三人のことを誇りに思っていることと、しばらくしたら一旦戻って父の墓参りに行くつもりだということ。伝えたいことがいくつもある。それは実りある毎日を送っている証左である。
愛し愛されるアナトは、そうして明日も頑張るのだ。
次は明日の20時以降に更新予定




