第1話 会社員、捨て猫みたいな男を拾う
ごく普通の中年会社員、橘良助。離婚を経験し、心の傷が癒えきれないまま、短期単身赴任で観光地の赴任先へ。居酒屋で歓迎会をしてもらい、帰り道は人混みを避けて地下道を使うことになり……。そこで、どう見ても問題まみれの青年と出会う。
9月。会社で短期単身赴任を言い渡されたとき、いい気分転換になると思った。赴任先は観光名所で温泉地。離婚して1年。子どもがいなかったからすっぱり別れたけれど、やはり心に傷は残っている。
「承知いたしました」
身一つの自分だからこそ、上司も話をしたのかもしれない。同僚はもちろん、後輩も家庭を持つ人は多い。この職場は好きでも嫌いでもないので、単身赴任で気分転換できると思った。
橘良助。42歳独身。バツイチ。突出したなにかがあるわけではなく、地味でなく派手でもない。年相応の外見で、中肉中背。周囲ともめることはなく、だからといってみんなと仲良しなんてこともない。着かず離れずの距離感。それくらいがちょうどいい。
荷物をまとめる最中、断捨離もした。元嫁が残していったものを全部捨てて、もう着なくなった服もついでに捨てた。未練はない。でもやっぱり、離婚は傷つく。たった2年の結婚生活だったけど、やはりこのアパートに残り続けるのは精神的にきつかった。引っ越しの口実が欲しかったのかもしれない。
引っ越しの準備は滞りなく進んだし、引っ越しそのものもすんなりできた。ただ、住んでいた場所から新幹線で片道6時間の場所が赴任先。移動だけでケツが痛くなった。昼前にアパートを出て、夕方赴任先に到着。新幹線の乗り換えだけしか歩いていない、基本は座っての移動だったのに、妙に疲れてしまった。
赴任先でも職場の雰囲気は似たようなもんで、馴染むのに時間はかからなかった。人は好きでも嫌いでもない。いい歳なので、職場で円滑に周囲の人間とコミュニケーションを取る術くらいは身につけている。
元々いた職場では、飲み会がなかった。でも赴任先のこの支部では、歓迎会を開いてくれた。飲み会は好きでも嫌いでもなく、酒は強くも弱くもない。それなりに楽しい時間を過ごし、二次会なしで解散になった。
職場の人と居酒屋で別れ、社宅のアパートに向かう。今日は良く晴れていて、夜空には無数のお星さまが微笑む。月が出ていて、悪くない夜空だった。
赴任先は観光地なので、飲み屋が多い。いかがわしいお店もあると聞いた。世話になる予定はないし、興味もない。街中を歩いて帰ろうかと思っていたけど、飲み屋街は人が多くて、街灯の下でゲロゲロやってる人もいる。結構なうるささじゃないかと思い、地下道を使うことにした。
地下に続く階段。おぼろげに灯る電灯が、チカチカとほとばしる。カチ、カチン……、カッ。電灯から、小さな音が響く。それが耳に付くのは、不気味と思っている地下道にむけて階段を降りているからだろうか。
職場の人は、この地下道は使わないと言っていた。変な人が多いんだとか。嘘だと思った。そんな絵に描いたような、バカみたいな話はないだろう。地下道だから怪しいだなんて。
でも良助は、田舎育ちで地下道なんてものを通ったことがない。だから怖いものなしで、どんなものかわかっていなかったと思い知ることになる。経験がないということは、適切な恐怖心を引き出すことができないことにつながることを、このときまだ知る由もない。
地下道に降りると、街中のにぎやかさが嘘のようだった。暗く、一本通った道。広くないその道の脇に座り込む人が、ちらほら見える。
――なんだこれ……
恐ろしい場所に来てしまったと、このとき初めて思った。ホラー映画の一幕にでも出てきそうな光景が、目の中にとどまっている。
生唾を飲んだ。特に寒くない、まだ夏の気配を感じる気温なのに、冷たい汗が額に滲み鳥肌が立っているのがわかる。
スーツのズボンは走りにくい。いざとなったら走る準備をしておかねばと思う。引き返そうかと思ったけど、それはあまりにダサいと思った。特に誰かに見られていたわけではない。でも、ダサいのはイヤ。変な意地が心の中に湧き、出口が見えない地下道を歩き始めた。
カツ、カツ、カツ……。
革靴で歩いていく自分の足音が、地下道の中にこだまする。道の隅にうずくまる人は、いったいどういう背景を背負った人なのだろう。スーツを着ている人は、おそらく自分と同じ会社勤めの人で酔いつぶれているだけ。でも、どう見ても長い間洗濯していない、薄汚れたボロ布みたいな服を着て座ってうずくまっている人や、短いスカートを履いて胸元がはだけたハイヒールをその辺に脱ぎ捨てた若い女性もいる。
――こわぁ……マジかよ
足早にこんな道抜けてしまおうと、良助は歩く速度を上げた。早く逃げてしまわないと、変な輩に絡まれてはかなわない。お金なんて持ってない。カツアゲはごめんだ。
速めた足と比例して、恐怖心は高まり、心臓の鼓動も早く強くなる。怖い、怖い、怖い!! 顔が引きつっているのがわかる。
カーンと、空っぽの缶酎ハイが倒れた音がして、良助の足が止まった。浅い息が、喉の上だけでバタバタ足踏みしている。音につられて、そちらの方向に反射で視線が向いてしまった。
倒れた500mlの酎ハイの空き缶が転がる。
地下道路の片隅に座り、倒れた空の缶酎ハイを傍らに置き、片膝を立ててうなだれる青年。大量の白い錠剤。吐いたのだろう、液体の中で溶けている。酒と胃液の混ざった、なんともいえないニオイが青年の周りに滞る。
「なんやお兄さん。俺のこと買ってくれるんか?」
その青年は、顔を上げて第一声笑顔でこう言った。不規則に点滅する電灯の下で見た青年の笑顔。黄色とオレンジの間の、死にかけの電灯に照らされた青年は、今まで見たことがない生き物のようだった。
関わらない方がいい。絶対ダメだ。どう見たって問題まみれの男なのが分かる。
でも、そのままにして立ち去れなかった。
幼さの残る笑顔。口の端にこびりついた、薬の溶けカスと吐いた酒。どこを見ても普通なんて言葉は当てはまらない。だからなのかもしれない。吊り橋効果もあっただろう。
この捨て猫みたいな男から、目が離せなかった。
息を飲みつつ、良助は男に手を差し伸べる。
「そうだな」
なぜそういってしまったのか。口走った直後、自分の言葉が全然理解できずにいる。買う買わないなんて、考えていなかった。
ただ、捨てていけないと思った。
青年を担いで、良助が歩き始める。青年は思いのほか小柄で、おんぶする形で回収。
「っんあぁ~……。揺れるぅ。お兄さんもうちょいスーッと歩いてくれぇ」
酔ってるのかなんなのか、青年の声は笑っている。そんなもんに構っているほど、良助は心のゆとりがない。こんな怖い地下道、さっさと抜けてしまうに限る。
出口の階段が見えてきた、そんな長い距離を歩いたわけではないのに、変に長く感じた。
ちょっと良助はホッとした束の間。ゲボォッと青年が滝の様に吐いた。良助の肩や胸当たりが、青年の嘔吐物で濡れる。
「えぇー! お前っ、ちょっとマジか……!」
「すまーん」
全然反省していない青年の声。明日が土曜でよかった。ゆっくり洗濯できる。
捨て猫を拾い、アパートへ。
奇妙な同居生活が、そっと幕を開けた。
酒に酔って吐いていた青年。名前も知らない彼を背負い、良助はアパートへ。連れ帰った青年は、ただの飲んだくれなのか。それともなにか事情を抱えているのか。スーツに彼の滝ゲロを浴びた良助は、彼のことをまだなにも知らない。




