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濡れ衣令嬢と竜姫  作者: 白保仁
四章

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幕間③ イリス・ラヴァン

 イリス・ラヴァンは、かつてアークレイア王国と呼ばれていた国の生まれだ。

 大陸東部、エルンシュタイン帝国に面した小国だった。


 けれど、今ではその名は地図の上にない。

 大陸統一を掲げた帝国が周辺諸国を呑み込み、弱小国家だったアークレイア王国も、あっけなくそのひとつとして消えた。


 戦が終わっても、平穏は戻らなかった。

 国を失い、行き場をなくした元兵士たちは盗賊へと落ちぶれ、各地の治安はひどく乱れていった。


 イリスの幼い頃の記憶は、奪われることから始まっている。


 当時、五歳。

 まだイリスという名ですらなかった頃、暮らしていた村が盗賊に襲われた。


「ここに隠れなさい。何があっても、絶対に出てきてはだめ」


 母親はそう言って、幼いイリスをベッドの下へ押し込んだ。

 眠気の残る頭でも、ただならぬことが起きているのは分かった。


 ベッドの下から見えたのは、父が殺されるところだった。

 刃が首を裂き、血が噴き出す。

 何が起きたのか理解できないまま、ただ床に血が広がっていくのを見ていた。


 しばらくして、盗賊たちの声が聞こえた。


「おい、あの女、抵抗しやがったから殺しちまったぞ」


「馬鹿野郎。女や子どもは捕まえて売るって話だったろうが」


 その言葉で、母ももういないのだと知った。


 気づけば、イリスは声も殺せず泣いていた。

 ほどなくして盗賊たちに見つかり、それから先の記憶は、ほとんど残っていない。


※※※


 イリスが売られた先は、帝国内にある孤児院だった。


 なぜ孤児院が、金を払ってまで子どもを買うのか。

 当時のイリスには分からなかった。


 今になって思えば、あそこは孤児院というより、間者を育てるための檻だったのだろう。


 そこで、過去の名前は捨てさせられた。

 代わりに与えられたのが、新しい名だった。


「お前の名前はイリスだ。過去はすべて捨てなさい」


 先生と呼ばれていた男が、そう言った。


 家族を失った悲しみは消えなかった。

 けれど少なくとも、そこにはすぐ命を奪おうとする刃はなかった。


 幼いイリスに、そこ以外で生きる術はない。

 だから従うしかなかった。


「ナハト。この子の面倒を見てあげなさい」


「はい、先生」


 呼ばれて現れたのは、無表情な少女だった。

 ナハトと呼ばれたその子は、何も言わずイリスの手を取る。


 その手は少し冷たくて、けれど不思議と強かった。

 こうして、イリスは過去を切り捨てて生きていくことになった。


※※※


 孤児院では、年齢ごとに部屋が分けられていた。

 そして、年長の者が年下の者の世話をする決まりだった。


 朝は早くに起こされ、身支度を整え、決められた時間に食事をし、決められた時間に座学を受ける。

 文字、計算、地理、歴史。幼い子どもには難しすぎるはずの内容まで、容赦なく頭へ詰め込まれた。


 ナハトは孤児院の中でも一目置かれていた。

 優れた魔術の使い手で、先生たちのお気に入りでもあったからだ。


 一方で、イリスには魔術の才能がなかった。

 知識を詰め込まれても、魔術としてうまく発現しない。


 先生はそんなイリスをよく叱った。

 時には叩かれることもあった。


 だからイリスは、怒られない生き方を覚えていった。

 いつもにこにこと笑い、相手の顔色をうかがい、相手が望む言葉を口にする。


 そうしていると、叱られる回数が少しだけ減った。


 ナハトはそんなイリスを、無表情のまま見ていた。

 世話役ということもあって、何かとイリスのそばにいた。


 夜になると、イリスはよく眠れなかった。

 目を閉じると、父の血や、母の声が蘇る。


 ある夜、どうしても眠れず、布団の中で震えていた。

 声を殺していたつもりだったのに、涙は勝手にこぼれてくる。


 たまらず外の空気を吸おうと、部屋を抜け出した。

 すると、そこにナハトがいた。


 ナハトの無表情が、ほんの少しだけ揺れる。


「こっちにおいで」


 それだけ言って、ナハトはイリスを抱きしめた。


 孤児院に来てから、久しぶりに人のぬくもりを感じた気がした。


 けれど、そんなナハトも、ある日突然いなくなった。

 先生から説明はなかった。

 まるで最初から存在しなかったみたいに、誰もそのことを口にしなかった。


 イリスは、そのとき初めて、本当に一人になった気がした。


※※※


 イリスが帝国の孤児院を離れることになったのは、十二歳の頃だった。


「カルディア王国に、とある孤児院がある」


 先生に呼び出され、そう告げられた。


「その孤児院へ移るということでしょうか?」


 イリスはいつものように、にこにこと問い返す。

 先生は満足そうに頷いた。


「そうだ。その孤児院には、ローゼンベルク公爵家が出資している。

 そして公爵家は、見込みのある孤児を使用人として取り立てることがある」


 先生はそこで、イリスをまっすぐ見た。


「お前は公爵家へ入り込みなさい」


 それは、間者としての命令だった。

 この施設が孤児院ではないことは、その頃にはイリスも理解していた。

 だから驚きはしなかった。


「……分かりました、先生」


 頷くしかない。

 そうしてイリスは、別れを告げることもなく帝国を離れた。


 その道中で、ふと思った。


 ナハトも、こんなふうにして、ある日突然いなくなったのだろうか――と。


※※※


 カルディア王国へ入ったイリスは、まず公爵家が出資している孤児院へ送られた。

 帝国の施設とは違い、建物は古びていても空気がやわらかい。

 食事は質素だったが、怒鳴り声で急かされることはなく、夜に泣く子がいても誰も殴らなかった。


 最初の数日は、むしろ気味が悪かった。

 見返りもなく優しくする人間など、帝国では見たことがなかったからだ。


 イリスは、かわいくて優しい女の子を演じた。

 周囲の空気を明るくするように、いつもにこにこと笑っている。

 帝国で生き延びるために覚えた、ほとんど唯一の才能と言ってよかった。


「イリスちゃんは、本当に聞き分けがいいねえ」


 孤児院の世話係の女がそう言って頭を撫でる。

 そのたびに、イリスはにこにこと笑った。


「ありがとうございます」


 そう返しながら、心の中では冷めていた。

 聞き分けがいいのではない。怒られたくないだけだ。

 けれど、それで相手が満足するのなら都合がよかった。


 孤児院には、年齢も出自も様々な子どもがいた。

 親を亡くした者。捨てられた者。行き倒れを拾われた者。

 その中でイリスは、目立たないように、それでいて埋もれないように振る舞った。


 その頃にはもう、イリスは分かっていた。

 人は、優秀な者よりも、少し助けてやりたくなる者を手元に置きたがる。


 だから文字も計算も、完璧には見せなかった。

 少しだけつまずき、少しだけ困った顔をして、それでも最後には頑張ってみせる。

 そうすると、大人たちは勝手に「健気だ」と思ってくれる。


 帝国で殴られながら覚えたことが、ここでは褒め言葉に変わる。

 そのことが、時々ひどく可笑しかった。


※※※


 ローゼンベルク公爵家の人間が孤児院を訪れるのは、季節ごとに一度ほどだった。


 視察という名目で、家令や侍女がやってくる。

 子どもたちの様子を見て、必要なものを確認し、時には成績の良い者を屋敷へ上げることもある。


 孤児たちは皆、その日になるとそわそわした。

 屋敷へ上がれれば、ここよりずっとましな暮らしが待っている。

 少なくとも、そう信じていたからだ。


 イリスもまた、その列に並んだ。

 ただし、胸を躍らせていたわけではない。

 これは任務だ。入り込めなければ価値がない。


 最初にローゼンベルク家の者と会ったとき、イリスが驚いたのは、その目だった。


 彼らは子どもを、物ではなく人として見ていた。

 それが善意なのか、貴族らしい余裕なのかは分からなかった。

 ただ、イリスには奇妙だった。


※※※


 それからしばらくして、イリスはローゼンベルク家へ呼ばれた。


 知らせを聞いたとき、周囲の孤児たちは羨望と嫉妬の入り混じった目を向けてきた。

 イリスは困ったように笑ってみせたが、内心は冷静だった。


 ようやく入り口に立てた。

 ここから先で失敗すれば、それまでだ。


 最初に教え込まれたのは、礼儀作法だった。

 歩き方。頭の下げ方。扉の開け方。食器の並べ方。言葉遣い。


 やがてイリスは、使用人見習いとして屋敷の中を動くようになった。

 最初は雑用ばかりだったが、人の動きを見るにはちょうどよかった。


 その合間に、帝国へ流すべき情報も拾い集めた。

 屋敷の空気、使用人たちの関係、公爵家の動き。


 アデル・ローゼンベルクに出会ったのは、それからしばらく経ってからだ。


※※※


 最初に見たアデルは、ひどく綺麗な少女だった。


 まだ年若いのに、立ち姿に隙がない。

 背筋がすっと伸びていて、視線には妙な冷たさがあった。


 ああ、この人は苦手だ、とイリスは思った。


 こういう相手はやりにくい。

 どこかナハトに似ている、とも思った。


 イリスは、今まで通りに振る舞った。

 明るく、素直で、少し頼りない使用人見習いとして。


「アデル様、お茶をお持ちしました」


 最初の頃、アデルはイリスを一目見て、静かに言った。


「ありがとう。そこへ置いて」


 淡々としている。優しくも冷たくもない。

 ただ、よく見ている。


 イリスは内心で警戒しながら、にこりと笑った。


「はい。失礼します」


 それだけのやり取りが、何度も積み重なった。


 ある日、花瓶を割りかけたときのことだ。

 イリスの手が滑り、大きな音を立てて倒れた花瓶を、アデルがとっさに支えた。


「……危ないわね。怪我は?」


「だ、大丈夫です……」


「ならよかった。次から気をつけて」


 イリスは頭を下げた。

 いつものように笑ってごまかした。


 そのとき、アデルがぼそりと言った。


「別に、無理に笑わなくてもいいのよ。何か困ったことがあるなら、言いなさい」


 その瞬間、イリスの笑顔が揺らいだ。

 何か、守っていたものをいきなり指先で触れられたような気がした。


※※※


 その後、イリスはアデル専属の侍女となった。

 イリスのどこをアデルが気に入ったのかは、よく分からなかった。


「イリスはよく周りを見ているもの。気が利くし」


 理由は、それだけだった。


 アデルといる時間が長くなるにつれ、少しずつ分かってくることがあった。


 アデル・ローゼンベルクという少女は、冷たいのではない。

 むしろ、驚くほど真面目で、不器用なだけだった。


 イリスが重い荷物を持っていれば自然に手を貸す。

 誰かが困っていれば放っておけないくせに、恩を売るような言い方は決してしない。


 だから、誤解されやすいのだろうとイリスは思った。

 そして、嫌いではない、とも思った。


 それでも、任務は任務だった。


 帝国への報告は途切れなかった。

 ローゼンベルク家の動向を、少しずつ流していく。


 罪悪感がなかったわけではない。

 けれど、やめる理由もなかった。


 やめたところで、イリスには帰る場所がない。

 帝国に逆らえばどうなるかも、嫌というほど分かっていた。


 だから今日も笑う。

 かわいくて、優しくて、少しだけ頼りない侍女の顔で。


 そんなイリスを見て、アデルは困ったように笑う。

 そのたびに、イリスは自分の中がひどく空っぽだと思い知らされるのだった。

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