幕間③ イリス・ラヴァン
イリス・ラヴァンは、かつてアークレイア王国と呼ばれていた国の生まれだ。
大陸東部、エルンシュタイン帝国に面した小国だった。
けれど、今ではその名は地図の上にない。
大陸統一を掲げた帝国が周辺諸国を呑み込み、弱小国家だったアークレイア王国も、あっけなくそのひとつとして消えた。
戦が終わっても、平穏は戻らなかった。
国を失い、行き場をなくした元兵士たちは盗賊へと落ちぶれ、各地の治安はひどく乱れていった。
イリスの幼い頃の記憶は、奪われることから始まっている。
当時、五歳。
まだイリスという名ですらなかった頃、暮らしていた村が盗賊に襲われた。
「ここに隠れなさい。何があっても、絶対に出てきてはだめ」
母親はそう言って、幼いイリスをベッドの下へ押し込んだ。
眠気の残る頭でも、ただならぬことが起きているのは分かった。
ベッドの下から見えたのは、父が殺されるところだった。
刃が首を裂き、血が噴き出す。
何が起きたのか理解できないまま、ただ床に血が広がっていくのを見ていた。
しばらくして、盗賊たちの声が聞こえた。
「おい、あの女、抵抗しやがったから殺しちまったぞ」
「馬鹿野郎。女や子どもは捕まえて売るって話だったろうが」
その言葉で、母ももういないのだと知った。
気づけば、イリスは声も殺せず泣いていた。
ほどなくして盗賊たちに見つかり、それから先の記憶は、ほとんど残っていない。
※※※
イリスが売られた先は、帝国内にある孤児院だった。
なぜ孤児院が、金を払ってまで子どもを買うのか。
当時のイリスには分からなかった。
今になって思えば、あそこは孤児院というより、間者を育てるための檻だったのだろう。
そこで、過去の名前は捨てさせられた。
代わりに与えられたのが、新しい名だった。
「お前の名前はイリスだ。過去はすべて捨てなさい」
先生と呼ばれていた男が、そう言った。
家族を失った悲しみは消えなかった。
けれど少なくとも、そこにはすぐ命を奪おうとする刃はなかった。
幼いイリスに、そこ以外で生きる術はない。
だから従うしかなかった。
「ナハト。この子の面倒を見てあげなさい」
「はい、先生」
呼ばれて現れたのは、無表情な少女だった。
ナハトと呼ばれたその子は、何も言わずイリスの手を取る。
その手は少し冷たくて、けれど不思議と強かった。
こうして、イリスは過去を切り捨てて生きていくことになった。
※※※
孤児院では、年齢ごとに部屋が分けられていた。
そして、年長の者が年下の者の世話をする決まりだった。
朝は早くに起こされ、身支度を整え、決められた時間に食事をし、決められた時間に座学を受ける。
文字、計算、地理、歴史。幼い子どもには難しすぎるはずの内容まで、容赦なく頭へ詰め込まれた。
ナハトは孤児院の中でも一目置かれていた。
優れた魔術の使い手で、先生たちのお気に入りでもあったからだ。
一方で、イリスには魔術の才能がなかった。
知識を詰め込まれても、魔術としてうまく発現しない。
先生はそんなイリスをよく叱った。
時には叩かれることもあった。
だからイリスは、怒られない生き方を覚えていった。
いつもにこにこと笑い、相手の顔色をうかがい、相手が望む言葉を口にする。
そうしていると、叱られる回数が少しだけ減った。
ナハトはそんなイリスを、無表情のまま見ていた。
世話役ということもあって、何かとイリスのそばにいた。
夜になると、イリスはよく眠れなかった。
目を閉じると、父の血や、母の声が蘇る。
ある夜、どうしても眠れず、布団の中で震えていた。
声を殺していたつもりだったのに、涙は勝手にこぼれてくる。
たまらず外の空気を吸おうと、部屋を抜け出した。
すると、そこにナハトがいた。
ナハトの無表情が、ほんの少しだけ揺れる。
「こっちにおいで」
それだけ言って、ナハトはイリスを抱きしめた。
孤児院に来てから、久しぶりに人のぬくもりを感じた気がした。
けれど、そんなナハトも、ある日突然いなくなった。
先生から説明はなかった。
まるで最初から存在しなかったみたいに、誰もそのことを口にしなかった。
イリスは、そのとき初めて、本当に一人になった気がした。
※※※
イリスが帝国の孤児院を離れることになったのは、十二歳の頃だった。
「カルディア王国に、とある孤児院がある」
先生に呼び出され、そう告げられた。
「その孤児院へ移るということでしょうか?」
イリスはいつものように、にこにこと問い返す。
先生は満足そうに頷いた。
「そうだ。その孤児院には、ローゼンベルク公爵家が出資している。
そして公爵家は、見込みのある孤児を使用人として取り立てることがある」
先生はそこで、イリスをまっすぐ見た。
「お前は公爵家へ入り込みなさい」
それは、間者としての命令だった。
この施設が孤児院ではないことは、その頃にはイリスも理解していた。
だから驚きはしなかった。
「……分かりました、先生」
頷くしかない。
そうしてイリスは、別れを告げることもなく帝国を離れた。
その道中で、ふと思った。
ナハトも、こんなふうにして、ある日突然いなくなったのだろうか――と。
※※※
カルディア王国へ入ったイリスは、まず公爵家が出資している孤児院へ送られた。
帝国の施設とは違い、建物は古びていても空気がやわらかい。
食事は質素だったが、怒鳴り声で急かされることはなく、夜に泣く子がいても誰も殴らなかった。
最初の数日は、むしろ気味が悪かった。
見返りもなく優しくする人間など、帝国では見たことがなかったからだ。
イリスは、かわいくて優しい女の子を演じた。
周囲の空気を明るくするように、いつもにこにこと笑っている。
帝国で生き延びるために覚えた、ほとんど唯一の才能と言ってよかった。
「イリスちゃんは、本当に聞き分けがいいねえ」
孤児院の世話係の女がそう言って頭を撫でる。
そのたびに、イリスはにこにこと笑った。
「ありがとうございます」
そう返しながら、心の中では冷めていた。
聞き分けがいいのではない。怒られたくないだけだ。
けれど、それで相手が満足するのなら都合がよかった。
孤児院には、年齢も出自も様々な子どもがいた。
親を亡くした者。捨てられた者。行き倒れを拾われた者。
その中でイリスは、目立たないように、それでいて埋もれないように振る舞った。
その頃にはもう、イリスは分かっていた。
人は、優秀な者よりも、少し助けてやりたくなる者を手元に置きたがる。
だから文字も計算も、完璧には見せなかった。
少しだけつまずき、少しだけ困った顔をして、それでも最後には頑張ってみせる。
そうすると、大人たちは勝手に「健気だ」と思ってくれる。
帝国で殴られながら覚えたことが、ここでは褒め言葉に変わる。
そのことが、時々ひどく可笑しかった。
※※※
ローゼンベルク公爵家の人間が孤児院を訪れるのは、季節ごとに一度ほどだった。
視察という名目で、家令や侍女がやってくる。
子どもたちの様子を見て、必要なものを確認し、時には成績の良い者を屋敷へ上げることもある。
孤児たちは皆、その日になるとそわそわした。
屋敷へ上がれれば、ここよりずっとましな暮らしが待っている。
少なくとも、そう信じていたからだ。
イリスもまた、その列に並んだ。
ただし、胸を躍らせていたわけではない。
これは任務だ。入り込めなければ価値がない。
最初にローゼンベルク家の者と会ったとき、イリスが驚いたのは、その目だった。
彼らは子どもを、物ではなく人として見ていた。
それが善意なのか、貴族らしい余裕なのかは分からなかった。
ただ、イリスには奇妙だった。
※※※
それからしばらくして、イリスはローゼンベルク家へ呼ばれた。
知らせを聞いたとき、周囲の孤児たちは羨望と嫉妬の入り混じった目を向けてきた。
イリスは困ったように笑ってみせたが、内心は冷静だった。
ようやく入り口に立てた。
ここから先で失敗すれば、それまでだ。
最初に教え込まれたのは、礼儀作法だった。
歩き方。頭の下げ方。扉の開け方。食器の並べ方。言葉遣い。
やがてイリスは、使用人見習いとして屋敷の中を動くようになった。
最初は雑用ばかりだったが、人の動きを見るにはちょうどよかった。
その合間に、帝国へ流すべき情報も拾い集めた。
屋敷の空気、使用人たちの関係、公爵家の動き。
アデル・ローゼンベルクに出会ったのは、それからしばらく経ってからだ。
※※※
最初に見たアデルは、ひどく綺麗な少女だった。
まだ年若いのに、立ち姿に隙がない。
背筋がすっと伸びていて、視線には妙な冷たさがあった。
ああ、この人は苦手だ、とイリスは思った。
こういう相手はやりにくい。
どこかナハトに似ている、とも思った。
イリスは、今まで通りに振る舞った。
明るく、素直で、少し頼りない使用人見習いとして。
「アデル様、お茶をお持ちしました」
最初の頃、アデルはイリスを一目見て、静かに言った。
「ありがとう。そこへ置いて」
淡々としている。優しくも冷たくもない。
ただ、よく見ている。
イリスは内心で警戒しながら、にこりと笑った。
「はい。失礼します」
それだけのやり取りが、何度も積み重なった。
ある日、花瓶を割りかけたときのことだ。
イリスの手が滑り、大きな音を立てて倒れた花瓶を、アデルがとっさに支えた。
「……危ないわね。怪我は?」
「だ、大丈夫です……」
「ならよかった。次から気をつけて」
イリスは頭を下げた。
いつものように笑ってごまかした。
そのとき、アデルがぼそりと言った。
「別に、無理に笑わなくてもいいのよ。何か困ったことがあるなら、言いなさい」
その瞬間、イリスの笑顔が揺らいだ。
何か、守っていたものをいきなり指先で触れられたような気がした。
※※※
その後、イリスはアデル専属の侍女となった。
イリスのどこをアデルが気に入ったのかは、よく分からなかった。
「イリスはよく周りを見ているもの。気が利くし」
理由は、それだけだった。
アデルといる時間が長くなるにつれ、少しずつ分かってくることがあった。
アデル・ローゼンベルクという少女は、冷たいのではない。
むしろ、驚くほど真面目で、不器用なだけだった。
イリスが重い荷物を持っていれば自然に手を貸す。
誰かが困っていれば放っておけないくせに、恩を売るような言い方は決してしない。
だから、誤解されやすいのだろうとイリスは思った。
そして、嫌いではない、とも思った。
それでも、任務は任務だった。
帝国への報告は途切れなかった。
ローゼンベルク家の動向を、少しずつ流していく。
罪悪感がなかったわけではない。
けれど、やめる理由もなかった。
やめたところで、イリスには帰る場所がない。
帝国に逆らえばどうなるかも、嫌というほど分かっていた。
だから今日も笑う。
かわいくて、優しくて、少しだけ頼りない侍女の顔で。
そんなイリスを見て、アデルは困ったように笑う。
そのたびに、イリスは自分の中がひどく空っぽだと思い知らされるのだった。




