二十三話
アデルたちを乗せた馬車が公爵家別邸に到着したのは、戦場を発ってから一週間後のことだった。
長旅の果てにようやく辿り着いた屋敷は、見慣れているはずなのに、どこかよそよそしく見えた。
馬車が止まると、アデルはすぐに立ち上がった。
だが足に力を入れた瞬間、身体の芯に溜まっていた疲れがずしりと重くのしかかる。
「アデル、無理するな」
背後からディートリヒが低く言った。
アデルは小さく首を振る。
「大丈夫よ。父上を降ろさないと」
扉が開く。
先に外へ出たアデルは、すぐに馬車の中へ身を戻し、コンラートの腕を肩へ回した。
コンラートの傷は致命傷ではなかった。
だが、長距離の移動に耐えられる程度まで落ち着いただけで、顔色はまだ悪い。腹部の傷をかばうせいか、動きにも普段の鋭さはなかった。
「……情けないな」
コンラートが低く呟く。
アデルは父の体重を受け止めながら、わざと淡々と返した。
「気になさらないでください」
短いやり取りだった。
けれど、それだけで張りつめていた胸が、ほんの少しだけ緩む。
馬車の外では、先に降りたリィが小さく伸びをしていた。
久々の屋敷に興味津々という顔で辺りを見回し、クラリスとニーナを見つけると大きく手を振っている。
玄関前には、セルバが控えていた。
いつも通り、皺ひとつない服装。背筋を伸ばし、乱れのない一礼。
「お帰りなさいませ、旦那様、ディートリヒ様、アデル様」
アデルはコンラートを支えたまま、セルバを見た。
「……何かあったの?」
セルバは一瞬だけ目を伏せた。
「はい。至急、お耳に入れねばならぬことがございます」
その場に控えていた使用人たちの空気まで張りつめる。
アデルは唇を引き結んだ。
それを聞いて、コンラートが短く息を吐く。
「構わん。この場で聞く」
「……王宮より、使者が再三参っております」
アデルの眉がわずかに寄った。
「王宮?」
「はい。アデル様に対し、帰還次第ただちに出頭するように、との要請でございます」
戦場帰りの疲労が、一瞬で別の緊張に押し流された。
「出頭……?」
ディートリヒが険しい声を漏らす。
「何の名目だ」
セルバは答えにくそうに、それでもはっきりと口を開いた。
「名目は、帝国間者の独断解放についての事情聴取、とのことです」
アデルの頭の中で、その言葉だけが妙にはっきり反響する。
帝国間者の独断解放。事実の一部だけを切り取れば、否定しづらい。だが、あれは身体強化薬の調査のためだった。レルネンにも説明してある。
「……随分と、手回しがいいわね」
思った以上に静かな声が出て、アデルは自分でも驚いた。
セルバはさらに続ける。
「加えて、王都内にはすでに噂が流れております。公爵家が帝国の間者を密かに逃がした――と。その件を面白おかしく広めている者がいるようです」
アデルは唇をきつく結んだ。
自分の判断は間違っていなかった――そう思いたい。
だが、その判断で家に火の粉が降りかかったのもまた事実だった。
アデルはゆっくりと頭を下げる。
「父上、兄様。申し訳ございません。私の軽率な判断のせいで、家にまで迷惑をかけてしまったようです」
一瞬、場が静まり返る。
そのとき、リィが横から口を挟んだ。
「お父さんたちを助けるためだったんだろ。謝ることないぞ」
「そうだ」
ディートリヒもすぐに言葉を継いだ。
「アデルの判断が戦場を救ったのは事実だ」
コンラートは何も言わず、セルバの肩越しに屋敷の中を見やった。
やがて、低く言う。
「その通りだ。中に入って、どうするか話し合おう」
「はっ」
使用人たちが一斉に動き出す。
アデルは父を支えたまま、ゆっくりと屋敷の中へ足を踏み入れた。
懐かしいはずの屋敷は妙に静かで、磨き上げられた床も、見慣れた廊下も、今日はひどく冷たく感じられた。
※※※
コンラートの執務室に、アデルたちは集まった。
ソファにコンラートを座らせ、アデルはその正面へ腰を下ろす。
「それで、相手は誰だ」
隣に控えたセルバが答える。
「監察卿と近衛卿の連名で来ております。直近では昨日。今日また参ると申しておりました」
監察卿は、貴族や王宮内部の不正を取り締まる役目を担う。
そして近衛卿は近衛騎士団を統括する立場であり、王族警護を担う以上、王族の意向を強く受ける。
「近衛卿までか。きな臭いな……」
コンラートが低く呟く。
帝国との内通の疑いなら、本来は監察卿だけの領分だ。
「ジークフリート殿下か、マクシミリアン殿下の息がかかっているのかもしれぬ」
アデルは頷いた。
マクシミリアンはもともと敵対派閥だし、ジークフリートもまたアデルに対して明確な敵意を抱いている。
「どちらにせよ、宰相殿に話を通すのが早いだろう。帝国との戦で忙しかろうが、そうも言っていられん」
アデルは考え込む。
「ジークフリート殿下は、公爵家と敵対してどうするつもりなのでしょう。宰相殿まで繋がっておられるのでしょうか」
「それはおそらくない。帝国との戦で、今ごろ忙殺されているはずだ。俺がお前を助けに行けなかったのと同じようにな」
「それでは、ジークフリート殿下の独断ですか。帝国とも内通しているのでしょうか?」
「そこはまだ分からん。ただ、操られているだけの可能性もある。後継者争いで不利なマクシミリアン殿下ならともかく、ジークフリート殿下が帝国と繋がる理由は薄い」
「なるほど……」
「とにかく、宰相殿が動けば、ジークフリート殿下の暴走なら止まるはずだ」
アデルは頷いた。
「それと、私たちにできるとしたら、イリスの捜索でしょうか」
「見つけられるのか?」
「分かりません。けれど、完全に帝国側というわけでもなさそうです。身体強化薬の件では協力してくれましたし……」
イリスは常に笑っていたが、その目の奥には深い闇があるようだった。
それでも、アデルを好きだと言った言葉には、嘘はなかったように思える。
そのときだった。
屋敷の外が、にわかに騒がしくなる。
部屋に侍女のクラリスが駆け込んできた。
「旦那様、アデル様。外に近衛兵が押しかけてきております」
廊下の向こうまで一気に騒がしくなる。
次の瞬間、扉が激しく開け放たれ、近衛兵たちが雪崩れ込んできた。
「なんだ、騒がしい。ここがどこだか分かっているのか」
コンラートが低く言い放つ。
近衛兵はコンラートに気づくと、慌てて敬礼した。
「失礼しました、コンラート閣下。ですが、こちらも任務です。令状も持参しております」
近衛兵が差し出した令状を、コンラートが受け取る。
ざっと目を通し、低く呟いた。
「……ジークフリート殿下の署名か」
「アデル嬢に間者逃亡幇助の疑いが出ております。お連れしますが、よろしいですね」
コンラートはしばらく黙り込んだ。
それから、アデルへ顔を向ける。
「宰相殿に話をつけに行く。必ずお前を助ける。待っていられるか?」
「ありがとうございます、父上。大丈夫です」
アデルが近衛兵について行こうとした、そのとき。
リィがアデルの腕を掴んだ。
「大丈夫か、アデル。こいつら、ぶっ飛ばそうか?」
「だめよ、リィ。リィは大人しくしていて」
「……僕にできること、ないか?」
リィが心配そうにアデルを見上げる。
「それなら、クラリスたちと一緒にイリスを探してみて。お願い」
「わかった」
短く頷くリィを見て、アデルもわずかに頷き返した。
そうしてアデルは、近衛兵に連れられて王宮へ向かった。
※※※
王宮へ向かう道中、アデルはほとんど口を開かなかった。
近衛兵に挟まれるようにして乗せられた馬車の中は、ひどく息苦しい。
窓の外には見慣れた王都の街並みが流れているのに、まるで別の国へ連れていかれるような心地がした。
けれど、あれだけの人数で屋敷へ押しかけてきた時点で分かる。
これは穏便な呼び出しではない。
(……ここで取り乱したら、相手の思う壺ね)
膝の上で手を重ね、アデルは静かに呼吸を整えた。
イリスを解放したのは、自分の判断だ。
あれが正しかったと、今でも思っている。
だが、それを利用される可能性まで、もっと考えるべきだった。
馬車が止まる。
扉が開かれ、近衛兵が無言で道を示した。
「どうぞ」
丁寧な言葉遣いだった。
アデルは裾を整えて馬車を降りる。
王宮の石床は冷たく、歩くたびに靴音が乾いて響いた。
通された先は応接間ではなく、窓の少ない小部屋だった。机と椅子があるだけの、簡素な部屋である。
扉の前には近衛兵が二人、無言で立っていた。
少ししてから部屋に入ってきたのは、見慣れぬ男が二人。
一人は痩せた中年で、細い目の奥に油断のない光を宿している。もう一人は近衛騎士の正装に身を包んだ壮年の男だった。
痩せた男が、慇懃に一礼する。
「お初にお目にかかります、アデル嬢。私は監察卿副官、エーヴェルトと申します」
続いて、近衛の男も一礼した。
「近衛騎士団副官、バルクです」
公爵令嬢が相手とはいえ、ずいぶん重い顔ぶれだ。
アデルは椅子に腰を下ろしたまま、静かに礼を返した。
「アデル・ローゼンベルクです。……それで、私は何を問われるのでしょうか」
エーヴェルトは薄く笑った。
「すでにご承知かと存じますが、帝国間者の独断解放についてです。ローゼンベルク家で拘束していたイリス・ラヴァンを、あなたの判断で解放した」
「ええ。その通りです」
アデルは否定しなかった。
エーヴェルトの眉が、わずかに動く。
「ずいぶんあっさりと認められるのですね」
「事実ですから。ただし、理由まで省いて語るのは違うかと」
アデルは相手の目をまっすぐ見返した。
「イリス・ラヴァンは帝国の身体強化薬について情報を持っていました。あの時点で、前線では父たちが帝国軍と交戦中だった。薬への対抗手段を一刻も早く得る必要があったのです」
「その判断を下す権限が、あなたにあったと?」
「何もしないまま手をこまねいている余裕はありませんでした」
エーヴェルトは書類に目を落とし、わざとらしく頁をめくる。
「ですが、その結果として帝国の間者を逃がした」
「その人物は薬の現物をこちらへ送り届けています。実際、その情報があったからこそ解除薬の開発に繋がりました」
「それは結果論では?」
その一言に、アデルはわずかに言葉を失った。
エーヴェルトの言うことは正しい。イリスが薬を送り届けない可能性も、当然あった。
「そもそも、イリスが王国法を犯した確たる証拠はありませんでした」
アデルは声を落としすぎないよう意識しながら続ける。
「状況証拠から、公爵家が独自に拘束していただけです。実際、エステル殺人の実行犯はすでに治安隊に捕えられています」
そこで、バルクが初めて口を開いた。
「イリス・ラヴァンをかばうのですか?」
近衛らしい、無駄のない低い声だった。
「いいえ。彼女が帝国の間者だった可能性は高いでしょう。ですが、事情があったとも思っています」
「ずいぶんと同情的ですね」
バルクが一歩前へ出る。
「あなたは、イリス・ラヴァンと通じていたのですか」
「いいえ」
「帝国とは?」
「いいえ」
「ならば、なぜそこまで彼女を信じたのです」
その問いだけは、少しだけ真っ直ぐだった。
アデルは答えに詰まる。
根拠がなかったとは言わない。
だが、最後の一歩を踏み越えたのは理屈だけではなかった。
「……彼女の表情が、嘘をついているようには見えなかったのです」
アデルは静かに言った。
「そして、あの時の私には、それ以外の道が見えませんでした」
エーヴェルトが乾いた笑みを浮かべる。
「なるほど。必要ならば、帝国の間者でも解放する、と」
沈黙が落ちる。
やがて、バルクが机の上に一枚の書状を置いた。
「アデル・ローゼンベルク嬢。調査が終わるまでの間、あなたには王宮内に留まっていただきます。外出、文書の送受、来客との面会は制限されます」
アデルはゆっくり瞬きをした。
「……私を勾留するということですか」
「アデル嬢。今は帝国との戦時下です。ご理解いただきたい」
エーヴェルトが淡々と返す。
アデルは膝の上で拳を握りしめた。
だが、表情だけは崩さない。
「それと、この件はジークフリート殿下の管轄下に置かれることになりました。調査が完了次第、殿下のご判断により処分が下されます」
「殿下の……」
「安心してください。捜査は公平に行われます。少なくとも、監察卿側からは」
その言葉に、バルクが初めてわずかに顔をしかめた。
監察卿と近衛卿も一枚岩ではないらしい。
やがてバルクが立ち上がる。
「部屋までご案内します」
アデルは小さく息を吐き、立ち上がった。
「分かりました」
ここで抵抗しても意味はない。
むしろ、公爵家側の立場を悪くするだけだ。
それに、コンラートが動いてくれると言ってくれていた。
連れていかれた先は、王宮北棟の一室だった。
寝台も机もあり、見た目だけなら客室と変わらない。
だが窓には格子がはめられ、扉の外には見張りが立っている。
「ご不便をおかけしますが」
そう言い残して、バルクは去った。
扉が閉まる。
鍵のかかる音が、妙に大きく響いた。
アデルはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
やがて力が抜けるように、寝台の縁へ腰を下ろす。
いまは自分にできることはない。
外にいる者たちに託すしかなかった。
アデルはぎゅっと目を閉じる。
「……お願いね、リィ」




