【 SIDE:CHIYO 】 第1話 もう一度、私も
ウィィン――と静かな音をたてて開いた自動ドアをくぐり、私は職場に足を踏み入れた。
職場……って言っていいのかな?
“元”って付けた方がいいのかも。
でも、所属だけはしてるから、やっぱり職場でいいのかな。
長期でお休みをもらってる、っていう扱いだしね。
なんて、頭の中で半分くらい言い訳をしながら、私はロビーを歩いていた。
と、そこに――
「ちーよさん!」
私を呼ぶ声がする。
振り返ると、ちっちゃめの可愛らしい女の子が、こっちに向かって走ってきてた。
よく知ってる、茶髪のツインテールにナチュラルメイクのその子は、勢いよく私の腕に抱きついてくる。
「わっ!? さ、桜織ちゃん!」
この子は、関谷 桜織ちゃんだ。
学生なんだけど、ここに親御さんが務めてる関係で、よく遊びにくる。
「千代さんに会えるなんて、今日はステキな一日っ!」
可愛い、満面の笑顔だ。
「今日もバッチリ決まってるね、桜織ちゃん」
流行に疎い私にはよくわからないけど、この子の服装はいつもすごくオシャレだと思う。
メイクもうまく決まってる。
元の素材がいいから、それを活かすナチュラルさ。
すごいモテるみたいだけど、なぜか誰とも付きあおうとしないみたい。
「えへ。でしょ?」
うれしそうに、ピョンと跳ねる。
でも、すぐに頬を膨らませた。
「そうだ、聞いてくださいよ、千代さん」
「なぁに?」
「リーガル・ブレイドなんですけど!」
「リーガル……ああ、あの」
「そう、あの! もう、どうして悪党になんてなっちゃったのか、イミフですよー! 好きだったのにー!」
桜織ちゃんは、プンスカという表現がピッタリな怒り方をしてる。
好きで、追っかけてたらしいから、本当に怒ってる。
「でね、もうムカツクから、掲示板に書き込みしてやったの!」
「そうなの? なんて?」
「最初はファンだったけど、今はちょっとって!」
「そっかー」
直情的な行動に、私は苦笑を浮かべる。
「なんで? って聞かれたから、後で返事書くつもりなんだけど……」
桜織ちゃんは、感情に任せて行動しちゃうクセがあるからなぁ。
「んー、それはやめておいた方がよくない?」
「へ? なんで?」
「だって、あんまり詳しく書くと、身元とかバレちゃうよ? ネットでいろいろバレるのは、よくないと思う」
私がそう言うと、桜織ちゃんは少しだけキョトンとする。
すぐに、パッと笑顔を浮かべた。
「さすが! 千代さん頭いい! なるほどね! うん、じゃあやめとく!」
「うん。それがいいよ」
「ありがと、千代さん! あたし学校行ってくる! じゃあね!」
「気をつけてねー」
嵐のようにまくしたてて、桜織ちゃんはブンブン手を振って走り去っていった。
私は、手を振り返す。
そこへ、カツカツと足音を立てて、緑色の髪の毛をアップにした女性が、近づいてきた。
「あら、愛莉」
「なつかれてるわねー」
彼女は、里見 愛莉。
私の同僚で後輩なんだけど、他のところから移籍してきて、キャリアがあって、できるオンナ――って感じかな。
「だね。なんで私なのやら……」
「あらら。おめでたいわね」
「えぇ? な、なんで? どうして?」
私は見当がつかないのに、愛莉は含んだような笑顔をしている。
「そうだ。ね、千代。今夜って空いてる?」
「今夜? うん、空いてるけど」
「よかった。丶食、行かない?」
「いいわよ。近いし」
丶食は、私とよっちゃんが行きつけにしてる飲み屋さんだ。
うちから近いのがミソ。
「最近飲んでなかったから。鬱憤ばらしにつきあってもらわないと」
「ふふっ。いいわよ。よろこんで」
愛莉はお金に厳しいんだけど、お酒だけは飲む。
自分を失うほどは飲まないし、たしなむ程度で、ストレス発散が目的らしい。
自分への必要経費だって言ってたっけ。
「ほほ。相変わらず仲良しさんじゃのう」
「きゃっ!?」
急に、すぐ真横から声がして、私は飛びのく。
「やっほー、チャオチャオ。久しぶりじゃのー、千代ちゃん子」
ビックリした……。
すぐ近くに、真っ白な髪の毛とおヒゲに、白衣を着たおじいちゃんが立っている。
「あ……東のおじいちゃん……驚かせないで……」
パンッていういい音がして、おじいちゃんの頬が愛莉にひっぱたかれた。
「金取るわよ」
「ほほ。金払ったら触ってええんか。じゃあ乳の方も……」
手をにぎにぎさせたおじいちゃんは、愛莉ににらまれて、ピタリと動きを止める。
「冗談じゃよ。怖いオナゴじゃのう」
「人のお尻触っといて、冗談じゃないわよ。次やったら、出るとこ出るから」
愛莉がすごむと、結構怖いんだよね……。
「あ、東のおじいちゃん、今日はどうしてこっちに? 開発室の方は忙しくないの?」
「ん? 忙しいぞ。こいつをな、やらんと、どうにも頭が回らんでのう」
そう言って、抱えた紙袋からたい焼きを取り出した。
「あぁ、だからわざわざこっちまで。そっか、そこのたい焼き好きだって言ってたね」
「そうじゃよ。んまい。むぐむぐ」
「おじいちゃん、今食べちゃダメだよ……」
「ほほ」
笑いながら、ゴクンと一つ目を飲み込んでしまった。
いいのかなぁ……。
「さて、そろそろ戻ろうかの。あやつらうるさいからのう。ほれ、千代ちゃん子。お主にもひとつやろう」
「あ、ありがとう。ねえ、千代ちゃんこってなに?」
「ではのー」
あっけらかんと歩いていく東のおじいちゃん。
私の質問には、なにも答えてくれなかった。
「……ちゃんこって……私、もしかして太ったかな……」
不安になってきた……。
そう思うと、今手の中にある、できたてであったかいたい焼きが、急に食べちゃいけない物に見えてくる。
「大丈夫よ。変化なし」
「……そ、そう?」
「そうよ。どうせ大した意味もないんでしょ」
「あ、あはは。そうかもね」
不機嫌そうに、おじいちゃんの背中をにらむ愛莉。
「ま、いいわ。じゃ、また後でね」
「うん。じゃあね」
最終的には笑顔で手を振り合いながら、私たちはその場で別れた。
……あ、そうだ。よっちゃんに連絡しないと。
私は携帯を取り出し、無料通話アプリを起動する。
『今夜、愛莉と飲みに行くことになっちゃった』
すると、すぐに返事がくる。
『そうか。気をつけてな。どこの店?』
『てんくうだよ』
『ああ、てんくうか。わかった。気をつけてな』
そんなやり取りをして、私は携帯をしまう。
よっちゃんは優しい。
本当に、彼と一緒にいてよかったって思う。
「さ、手続きに行かないと!」
私は、軽い足取りで歩き出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「いらっしゃいませ。毎度どうも」
丶食に入ると、大将に笑顔で迎えられた。
私は挨拶を返しながら、すぐにテーブル席の愛莉を見つける。
「遅かったわね」
「ごめんね。ちょっと上と話してて」
「あのオッサン、話し長いもんね」
二人で苦笑する。
「いつも通り、生でよろしいですか?」
そこへ、おしぼりを持ってきてくれた大将が、そう尋ねてくる。
「はい。お願いします」
私はおしぼりを受け取りながら、笑顔でうなずいた。
すぐに黄金色の液体に満たされたジョッキが届き、手に取る。
「はい。んじゃ、かんぱーい。おつかれー」
「お疲れ様ー」
カン! と、ガラスのぶつかり合う音が響いた。
「んくっ、んくっ、んくっ……ぷはー!」
ぐびぐびと喉をうるおして、ジョッキを口から離す。
「千代見てると、なんかこっちまで幸せになるわよねー」
「へ? どうして?」
「美味しそうだもん。ビールの泡で口ヒゲできてるわよ」
いけない、いつもよっちゃんに注意されるんだ。
私は、おしぼりで口元をぬぐう。
笑顔を浮かべる愛莉は、私を見ながらタンの串を豪快に口に運んだ。
「で、旦那の調子は? どう?」
「まだ旦那じゃないよ」
いつものやり取りだ。
「それがね、昨日から働き始めたんだよ」
「そうなの!?」
「うん。知り合いの人がね、起業したんだって。人手が少ないから手を貸してくれって頼まれて、今事務やってるよ」
「へぇ。そうなんだ。良かったじゃない」
「うん。本当に良かった」
愛莉は、ロックの芋焼酎の入ったグラスを手に取ると、カラカラと氷を回す。
「そっか。じゃああんたも、そろそろ復帰かー。ライバル増えるわねー」
そう言われて、私は視線を落とす。
よっちゃんの看病のために休業を認めてもらってたんだし、当然といえば当然なんだよね。
戻るべき、なんだよね……。
「……まだ、無理そう?」
すると、愛莉が心配そうにそう問いかけてくる。
「あの事故であんたが自分を責めてて、それで彼に尽くしてるってことは、みんなわかってるから。まだ無理なら、きっとそれでいい。上だって何も言わないわ」
気を遣われてるのはわかってる。
ありがたいと思ってる。
でも――
「ううん。もう平気」
これ以上、その優しさにあぐらをかいてるわけにもいかない。
「彼が立ち上がったのに、私だけいじけて座ってられない!」
そう。私だって、決めたんだ!
私は、一気にビールを飲み干した。
「……お、いいねー。いい飲みっぷり!」
ニッコリと笑う愛莉。
「よし、じゃあ今日はこの“守銭奴”が、復帰祝いで奢っちゃう!」
「えっ!?」
「え、なにそのマジで意外そうな顔」
「だって、愛莉が人に奢るなんて……」
「奢んないわよ?」
「ご、ごめんごめん」
そんな会話をして、二人でプッと吹き出す。
「大将、牛テールと、串を適当に3本ずつー。ハラミは入れてね。あとこの子に日本酒、冷で」
「勝手に決められたー」
「あんたポン酒好きでしょ。文句言わないの」
二人とも笑顔のまま、そんなやり取りをする。
こんなに楽しい時間は、久しぶりな気がしていた――。