第38話 届かない名前
「……帰ってきたぞ」
フィニアスが、肩で息をしながら戻ってくる。
砂を払う余裕もないまま、こちらを見る。
「おい、それ……」
視線が、イーグの手元に落ちる。
握られているのは、砂まみれの紙の束。
「それ、どこで……」
『エイルが、届けてくれたの』
イーグは、首を傾げたまま答える。
フィニアスの顔が、わずかに強張る。
『……エイル、だと?』
知っている名前。
だが、その先を言いかけて、止まる。
代わりに、ゆっくりと手を差し出した。
『見せてみろ』
イーグは、素直に紙を渡す。
その仕草に、ためらいはない。
フィニアスは、砂を払って、目を通す。
数行、読んだところで。
「……は?」
声が、低くなる。
もう一度、最初から読む。
今度は、確かめるように。
やがて、紙を握りしめた。
『……これ、名前だ』
ぽつり、と落ちる声。
『リンシャー王子が……何度も書いてる』
その場の空気が、わずかに揺れた。
リリベットは、息を呑む。
『……呼びかけてる。ずっと』
フィニアスは、顔を上げる。
『イーグ』
その名を呼んでから、少しだけ間を置く。
『これ、お前の名前じゃないのか』
紙を差し出す。
イーグは、それを見る。
じっと。
長い時間。
風が、わずかに鳴る。
『……わからない』
静かな声だった。
『文字は、読める。意味も、わかる』
指先で、紙に触れる。
『でも』
ほんの少し、首を傾げる。
『これは、私じゃない』
断言ではない。
否定でもない。
ただ、違うと感じている。
それだけ。
フィニアスが、言葉を失う。
「……おい、それじゃ……」
ここまで来て。
正解が、目の前にあるのに。
届いていない。
ワタシは、イーグを見る。
その横顔は、いつも通りで。
揺れていない。
ーー違う。
ここじゃない。
ワタシは、ようやく理解した。
名前は。
与えるものじゃない。
教えるものでもない。
外から触れた瞬間、それはもうーー別のものになる。
リンシャー王子が書いた名前も。
エイルが命を懸けて届けたそれも。
全部。
イーグの外側にある。
『これ、大事なもの』
イーグは、紙を抱える。
『エイルが、持ってきてくれたから』
理由は、それだけだった。
名前ではない。
意味でもない。
ただ、行為だけを受け取っている。
風が、すっと通り抜ける。
さっきより、少しだけ安定している。
フィニアスは、歯噛みする。
ワタシは、何も言わない。
もう、分かっているから。
これは。
外からどうにかできるものじゃない。
イーグが、自分で選ぶしかない。
思い出すか。
受け取るか。
それともーー
全部、拒むか。
風だけが、静かに吹いていた。




