第47話 ラストオーダーは英雄の否定
熱風と轟音が支配する地下空間で、オリエールの隣から、一人の少年が一歩前へ進み出た。
獣人の少年、カミイ。
彼の小さな背中には、死んだ虚無の剣聖、レオハルトの重く無骨な長剣が斜めに背負われていた。その重量に耐えるため、彼自身が泥だらけの足をしっかりと踏みしめている。
その瞳に、かつての「英雄に憧れる、純朴で臆病なウサギの護衛」の面影は微塵もなかった。
他者の命を、自らの筋肉と刃によって物理的に切断し、その生々しい感触と臭いを永遠に脳髄へ焼き付けた者の、極めて冷たく、昏い光を宿した目。
「千代さん」
カミイは、赤紫色の光に顔を照らされながら、崩れゆく陣の中央に立つ千代を真っ直ぐに見据えた。
涙はなかった。
戦場において、涙などという塩分を含んだ水分は、視界を歪ませて生存確率を下げるだけの不純物でしかないことを、彼はもう学習してしまっていた。
「……僕を、ただの臆病な護衛から、『英雄』にしてくれて、ありがとうございました」
それは、皮肉でも怨嗟でもなく、彼なりの純粋な感謝だった。
千代の指示と戦術があったからこそ、彼はゴブリンを射抜き、最後には剣を振るって村を守り抜くことができた。彼に「人を殺す」という実務的な役割を与え、結果として彼を英雄の座へと押し上げたのは、間違いなく千代の盤面操作だ。
だが。
その『英雄』という言葉を聞いた瞬間、千代の表情から笑みが完全に消え失せた。
彼女は、血と泥に汚れた顔を歪め、カミイに向かって、指揮官としての最後にして最も冷酷な命令を叩きつけた。
「いい、カミイ。勘違いしないで。英雄なんて言葉は、他人のために喜んで命を捨てる都合のいい馬鹿を、安全な場所から消費するために作られた、ただのクソ忌々しいパッケージ名よ」
ドーゴン、レオハルト、ゲンガイ。
彼らは英雄として死んだ。だが、その結果残ったのは、泥まみれの冷たい墓標と、村人たちからの恐怖の視線だけだ。
「……英雄ぶって、誰かのために犬死になんてすること、私が絶対に許さないわ」
千代の眼光が、崩壊の光よりも鋭く少年を射抜く。
「逃げなさい。隠れなさい。誰かを盾にしてでも、泥水を啜ってでも……生き汚く、絶対に生き残りなさい。……それが、私の部下(駒)になったあんたへの、最後の命令よ」
自己犠牲という美しい物語の完全なる否定。
生存という生物学的な絶対目的の強制。
カミイは、その残酷なまでの優しさに満ちた命令を正面から受け止め、深く、そして力強く一度だけ頷いた。
彼はもう、二度と「英雄になりたい」などという甘い言葉を口にはしないだろう。
陣の崩壊が臨界点に達した。
足元の石板が完全に溶解し、光の奔流が千代の体を包み込み始める。
空間が物理的に引き裂かれる、耳をつんざくような次元の断裂音。
「……タイムリミットだ。空間座標、固定」
アーレイが杖を地面から引き抜いた。
陣の制御が完全に外れ、溢れ出した魔力が地下の祠の構造そのものを内側から食い破り始める。
老軍師は、陣から飛び散る高熱の魔力の火花に、自らの愛用するパイプの先端を近づけた。
湿っていたタバコの葉が、チリッと音を立てて燃え上がる。
アーレイは、紫色の煙を深く肺に吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「……良き采配であった、若き指揮官殿」
安物のタバコの匂いとともに、老人の労いの言葉が、熱風に乗って千代の耳に届く。
千代の肉体が、足元から徐々に半透明の光の粒子へと分解され始めていた。
質量が並行世界へと吸い上げられていく。
視界が白く塗り潰され、熱も、音も、泥の臭いも、すべてが遠ざかっていく。
千代は、光の中で、残された三人の怪物たちに向かって、右手を軽く上げた。
「……契約満了よ。さよなら、私の怪物たち」
直後、網膜を灼き切るほどの強烈な閃光が、地下空間を完全に埋め尽くした。
千代の姿が、空間から物理的に「消去」された。
それと同時に、制御を失い、限界を超えた二十個の魔石と召喚陣が、凄まじい大爆発を起こした。
膨大な魔力の暴走は、地下の祠の空間そのものを内側から吹き飛ばした。天井を支えていた聖樹の巨大な根が引きちぎられ、何千トンという土砂と岩盤が、容赦なく落下してくる。
アーレイ、オリエール、カミイの三人は、爆風に背中を押されるようにして、間一髪で地上へと続く階段を駆け上がっていた。
彼らの後を追うように、重く深い地鳴りが、泥の盆地全体を揺るがした。
村の最深部にあった祠は、完全に崩落した。
兎人族の無知な信仰の象徴であり、魔王軍を引き寄せた致命的なビーコンであり、そして、一人の女子高生をこの泥沼の地獄へと引きずり込んだ「宇宙規模の勘違い(特異点)」。
それは、二度と誰にも触れられることのないよう、永遠に泥と瓦礫の深層へと物理的に埋め立てられた。
すべてが、終わったのだ。
因果の糸は断ち切られ、盤面は完全に破壊された。
あとに残されたのは、ただの泥と、それぞれの居場所へ帰っていく者たちの足跡だけである。




