第38話 英雄の証明
狂戦士ゲンガイ。
彼の姿は、すでに生物の原型を留めていなかった。
身につけていた騎士の鎧はとうの昔に弾け飛び、隆起した筋肉は至る所で断裂し、赤黒い筋繊維が剥き出しになっている。
彼の体には、何十本というゴブリンの矢がハリネズミのように深々と突き刺さっていた。さらに、オークの槍によって左の太ももは半分ほど削り取られ、右目は完全に潰れて血と泥の塊がこびりついている。
医学的に見れば、とうの昔に失血死している状態だ。
だが、彼の残った左目だけは、異常なほどの熱を帯びて爛々と輝いていた。
「……チッ。どいつもこいつも、行儀が悪りぃな。並べ、俺様が順番に肉塊にしてやる」
ゲンガイは、喉に詰まった血の塊を濁流に吐き捨てた。
その満身創痍の巨体から発せられる圧倒的な殺気に、感情を消去されているはずのオーク兵たちでさえ、一瞬その歩みを遅らせた。
ドルゲが乗騎を進め、オークたちの背後からゲンガイを見下ろした。
ドルゲの冷徹な瞳が、ゲンガイの肉体の損傷度を計算する。論理的に考えて、立っていることすら不可能なダメージ量だ。
「貴様、その体でまだ戦うというのか」
ドルゲの声は、冷たい雨の音を貫いて響いた。
「合理的ではない。すでに勝敗は決している。逃走もせず、死を待つだけの防壁となることに、何の意味がある。……何が貴様を動かす? 金貨か? それとも、傭兵としての安い名誉か?」
ドルゲにとって、人間の行動原理は「利益」と「恐怖」の二元論でしか説明できない。
死を目前にしてなお立ち塞がるこの魔人の行動は、彼の理解の範疇を超えていた。
ゲンガイは、潰れた目から血の涙を流しながら、大きく口を開けて笑った。
腹の底から響く、品性の欠片もない下劣な笑い声。
「……約束だ」
ゲンガイは、自らの太ももに突き刺さっていたオークの槍を無造作に引き抜き、泥水に放り捨てた。
「あのクソ生意気な指揮官に、牛一頭丸焼きを奢ってもらう約束が残ってんだ。……それに、ここの村のガキどもに、俺様は肉を食わせてやったからな」
ゲンガイの脳裏に、偽の家系図を燃やした炎の暖かさと、高く放り投げた時に「きゃはっ」と笑った幼児の顔がよぎった。
「食い逃げは許さねえ。あいつらが大人になって俺様に利子をつけて返すまで、こんな泥水の中で死なせるわけにはいかねえんだよ」
それは、貴族の血筋でもなんでもない、路地裏のならず者が最後にすがりついた、最高に不器用な「英雄としての意地」だった。
「……理解に苦しむな。ならば、その非合理ごと死ね」
ドルゲが右手を振り下ろす。
十体のオーク重装歩兵が一斉にゲンガイに向けて突進を開始した。
その瞬間、ゲンガイの肉体が、完全に物理法則の限界を突破した。
【スキル検知:『憤怒の血肉』限界突破】
【筋肉組織の崩壊率:九十パーセント】
【STR(筋力)への変換率:測定不能】
ブチブチブチッ!!
ゲンガイの全身の筋肉が、限界を超えてさらに膨張し、自身の皮膚を内側から引き裂いた。毛細血管が次々と破裂し、彼の体表から赤い血の霧が噴き出す。
骨が自らの筋収縮の圧力に耐えきれず、メキメキと悲鳴を上げてヒビ割れていく。
彼は、自らの命を燃やして、数秒間だけの絶対的な「質量と力」へと変換したのだ。
ゲンガイは、愛用の巨大な処刑鎌すら泥水に投げ捨てた。
武器を振るう時間すらもどかしい。
彼は、丸腰のまま、突進してくる十体のオークの群れに正面から激突した。
強烈な肉と鉄の衝突音。
ゲンガイの両腕が、先頭の二体のオークの首を掴み、そのまま強引に握り潰す。
装甲ごと頸椎を粉砕されたオークが崩れ落ちる間もなく、ゲンガイはその巨体を弾丸のように前進させ、分厚い鉄の壁を肉体一つで押し退け、跳ね飛ばし、突き破っていく。
槍が脇腹を貫こうが、剣が肩口に突き刺さろうが、彼の突進は止まらない。
彼の目には、後方にいる敵将ドルゲの姿しか映っていなかった。
「な……!?」
ドルゲの冷徹な仮面が、初めて驚愕に歪んだ。
十体の重装歩兵の壁が、たった一人の素手の魔人によって、わずか数秒で突破されたのだ。
ドルゲが乗騎の魔獣の手綱を引こうとした時には、血まみれの巨漢が、すでに彼の目の前の空中に跳躍していた。
「捕まえたぜェェ!!」
ゲンガイの丸太のような両腕が、魔獣の上のドルゲの胴体に巻き付いた。
そのまま、圧倒的な質量と落下のエネルギーを伴った「純粋なタックル」が、ドルゲを乗騎から引き剥がした。
二人の巨体が縺れ合いながら、泥水の中を転がり、そして――氾濫し、激しく渦巻く濁流の川へと落下した。
茶色い水柱が高く上がり、二人は激流の中へ呑み込まれた。
ドルゲは水中でも冷静さを失わず、腰の短剣を抜いてゲンガイの脇腹に何度も突き立てた。
だが、ゲンガイの拘束は外れない。
むしろ、彼の両腕はドルゲの首に絡みつき、万力のようにその軌道を締め上げていく。
水中の視界はゼロ。息も続かない。
だが、ゲンガイは肺に濁水が入ることも構わず、水底で血の泡を吐き出しながら、ドルゲの耳元で狂ったように叫んだ。
「俺様は! 英雄! ゲンガイ様だァァァ!!」
水中で、太い樹木の幹がへし折れるような、極めて鈍く、重い破断音が響いた。
ドルゲの頸椎が、ゲンガイのオーバーロードした筋力によって完全にねじ切られた音だった。
ドルゲの抵抗が止まる。
同時に、ゲンガイの腕からも、すべての力が抜け落ちた。
限界突破の代償。彼の肉体はすでに限界を超え、心臓は完全にその拍動を停止していた。
氾濫した川の濁流は、二人の将と狂犬の体を、泥とともに深く暗い水底へと引きずり込んでいく。
浮き上がってくるのは、赤黒い血の泡だけだった。
敵将の突然の死。
『軍団支配』のリンクが切断された瞬間、オークとゴブリンたちの瞳に、再び光が戻った。
同時に、彼らの脳髄を、麻痺させられていた「恐怖」と「激痛」が遅れて強烈に襲いかかる。
統制を失った魔王軍の残存兵たちは、パニックを起こして武器を放り出し、泥水を跳ね上げながら我先にと森の奥へと逃げ去っていった。
雨が、降り続く。
泥の盆地に残されたのは、無数の死体と、砕け散った防衛線の残骸だけだった。
狂犬は、己の命と引き換えに、最大の脅威を濁流の底へと道連れにした。
七星最恐の星が、川泥の底で静かに燃え尽きた。




